雨をみにいこう
Ⅽ組に特別親しい友人はいなかった。が、聞こえてくる世間話の登場人物がD組とは少しずつ違ったり、教室全体の匂いは人間が入れ替わるだけで全く新しくなるのは面白い。彼女はときどき弁当を持ち込んでは、知らないひとの席についてご飯を食べていた。
何故殺さないのだろうかと彼女は疑問に思っていた。彼はときどき体操服に着替えて授業を受けていた。ひとと目を合わせなかった。誰も声を知らなかった。制服はいつも土で汚れていた。彼を教室の窓辺まで追い詰め、元々座っていた席から廊下側へかけて、机や椅子が彼に向かって道を開いている。手にした椅子を彼女は彼に振るう。眼は脚をよく通した。彼のまぶたから血が流れて、青い唇から、それはほとんど古い家屋にすきま風が吹くのと同じく、べつに必然でも必要でもないが、言葉ともつかない息を、断続的に漏らした。弓なりに追い詰めて、推し測ろうとする。地図に新しい地名を書き加えながら、彼と彼を取り巻く全てを俯瞰する。
彼女は食事を終えて教室に帰る。D組でも食事を摂る必要性を感じていた。一つだけ残したあんぱんを教室に持って帰り、自分の席で食べることにした。はなはだ疑問であった。教室ではひとはまばらだ。ほとんどのひとは、同じ部活同士、あるいは別クラスの友人グループの方へ惹かれて、自分の所属クラスを後にしてしまう。クラス替えの妙だが、ときどき台風の目のように静かなクラスがある。つまりは、別のクラスには友だちの輪を持っているが、一人だけそのグループをはぐれた可哀想な生徒、彼がたとえばD組に編入させられる。さらにそのようなはぐれ者が、たまたま一つのクラスにまとまる。別々の村からはぐれたそれぞれの独り身だけで構成される、バグのようなクラス。男女比のいびつさも手伝って、D組は何かのまちがいだ。年間行事は団結力に欠けて、体育祭は最下位。文化祭など、どこかで耳にしたことがあるような噂話の雑な編集を地理新聞と言い張った。クラスレクリエーションは半数以上がずる休みをして、何をしていたかと思えば、他クラスのレクリエーションに参加していた。まるであちこちに土地を分割され、奪われてしまう、不憫な植民地にも似ていた。彼女は紅衛兵を倣うがごとく、それぞれクラスメイトの机に赤いマーカーで印を描いた。一筆書きの星。共同体は、共同体のままであってほしかった。つなぎとめる。
隣の彼が教室風景を素描する様を、見るともなく見ていた。誰にも分からない。線が多い。輪郭を上手く持たない。色を知らない。見たことがない。彼はおならが我慢できない病気で、しょっちゅうおならをした。それこそ授業中であれ、休み時間であれ、給食中であれ構うことなく。彼の近くで暮らしていればすぐに分かるが、とにかく臭い。悪臭がもたらす生理的な嫌悪は、一年を共にする学友たちには荷が勝ちすぎた。彼に強く当たるのは主に近隣の者、それから出る杭を打つことに精を出す調停者たちであった。彼女と彼が隣同士の席になったのはつい先日のことで、つまり彼のおならの最大の肝……食事中でも放屁することを、その日に至るまで知らなかった。彼とそのおならの存在が、彼女の権利を脅かすことを自ずと知るのだ。あんぱんを食べる彼女のすぐ横で、楽器のような鮮やかさで放屁する。やにわに掴みかかり、椅子から引きずり下ろした。不意をつかれれば、男の子であろうとも細腕に組み敷かれる。腹を貫く蹴りは胃に叩き込まれる。給食に出たカレーうどんと同じ臭いでえずく。蹴る前より、ずっと身体の構造がわかった。いちど殴り疲れ、赤いものを吐き出したような心地よい脱力のさなかで、ふと見渡した教室の景色。みなが怯えていた。青ざめた者や泣き出す者。たしかに何かを始めてしまったのだと、彼女はぼんやり気付く。何故すぐに助けないのだろう? 彼女はまた彼の胸ぐらに掴みかかって、引きずり回し、廊下側の窓辺に突き飛ばした。誰が殴るのか。その境目を見失っている。殴る度、彼を慕わしく思うようになる。いつまでこんなことをしなければならないのだ。彼女にとって、自らの行動を率先する為の、奥にひとかけらある、言葉、のようなものが、冴えわたって思考し続けている。彼に触れる度断続的に強い熱を感じながらも、彼女が行使をするすべての源泉となっている奥深くの言葉の中では、絶えずイメージが生み出された。彼はときに、ぞうきんや牛乳の臭いがしていた。一挙手一投足を心待ちにされていることを知っているのか、彼の挙措は大仰になって、それがまた期待に餌を与えて、また心待ちにされる。次第に彼の仕草がほんとうに大仰なのか、それとも彼がそういう自覚を得、大仰な仕草をあたえてくれるのか、分からなくなる。
彼が反撃をしないのは、反撃をする資格さえないと彼が彼に判断しているからだと考える。彼はとうに人間ではない。糞の穴(
通称、糞穴)だ。糞が出入りする(出入りをする)便器でしかない。名前が先立ち、存在がない。その癖、名前が存在を作る。どれほど、名前を付けられたかったのか。どれほど、いなければ良かったか。彼が彼でなく/僕が僕でなく/わたしがわたしでなく/彼女が彼女でなく/僕が馬鹿だからだ。僕がきたないからだ。わたしはそんなのおかしいって感じる。彼女は殴り続ける。
骨や皮膚に上手く手ごたえを掴めないまま、ランダムに蹴り飛ばす。手近に椅子があったことは結果でしかない、望みさえすればひとを傷つけることは、いつだってどこだって、思うままだ。奥の言葉が、明朗にその饒舌さで以て、新たに浮かび上がるシンボルで、彼女のなかに泳いだ。何故みな黙っているのだろうか。安全装置を外すように、見えなかったものが、見えるようになる。侵入する為にある強い手段が椅子を選んだから、彼の頭蓋骨をへこませる。冗談のような静けさがある。誰が可笑しくなるのか。教科書を燃やされたり、便所で殴られたり、ジュースの臭いがしたり、彼の日常的な様子から、むしろ隔たりの大きいこの様子を、彼女は眺めていた。椅子を下げた彼女の手の中を流れる言葉のようなものが、意味を変えていく。暴力の手が、いちどきにいろいろな風景を見せた。友だちと遊んだ賑やかな放課後、臭いと噂される糞穴、簡単で仕方がない授業、誰と誰が付き合っただとか、誰の命令で誰がリンチされたと。水道水の臭い。いつも誰かが、どこかで泣いていた体育祭。友だちと笑った、制服の合唱コンクール。ひかり差した帰り道。風景をシンボルにして、世界に照らし合わせる。世界の成り立ちに触れようとする手に、勇気が初めて流れる。教室を見回した。状況をまだ呑み込めていない者が大半であった。状況? 状況と言ったのか……彼女は訝るのだ。たとえばクラスメイトの彼は、糞穴の吐瀉物をもう一度彼の口に突っ込んだらしい。口の前に差し出され、臭いにむせては胃液を吐き、……それを繰り返す。それから友人らに、自分の机をめちゃくちゃにされていた。彼の友人らは、教室中の椅子を彼の机の上に山とくみあげた。それを初めて見て、冗談のように、振る舞おうとはした。友だちの肩を小突き、馬鹿野郎! と罵る。恍惚の朱が頬に差して、クラス全体にも陶酔の影が広がる。彼のいていい場所はどこにもない。攻撃の手がひとを選ぶことに、誰かは愉悦を感じさえしていたように思う。糞穴に吐瀉物を食わせるのも同じことだ。どうして誰も殺そうとしないのだろう。誰もが、未だ知らないのだろうか。永遠ではないことや、矛盾だらけであること。いつか死ぬこと。世界の成り立ちのこと。教室風景の素描を思い出す。線が多く、パースはとれていない。素描には彼がいない。彼の視点でみた教室風景だ。彼は存在できない。線をひいた。詳しくなる。線をひいた。現実を欲していた。教室を教室たらしめる為のみえない力があった。力とはきっと誰かの言葉で、言葉が関係を作り、関係が教室を作ったのだろう。いくら描いたところで、乖離していくばかりに思える。この町にいなかった、知らないひと。見えないし、聞こえない。届かないし、託されない。町を望む彼を、誰も知らない。
椅子を振りかぶる。抵抗を示すほどの分別は、もはや彼は持ち合わせていなかった。黒目と白目の境の輪郭がぼやけ、夥しいほどの焦点を、けれど合わせることもままならないと見える。うっとり笑った。彼女は狙いを定めて殴り続けるだけで良かった。一撃。殴る時の反動の感覚がだんだんぼやけていく。柔らかいのうで抵抗がない。触れるたび熱くなるほねで輪郭が狭くて触れる。混じり合っては途切れ、そそぎ、そよぎ、凪いで、爪のようになる。張った頬骨を殴りつけて、殴りなれない者が殴ろうとも、むしろ拳を痛めることを知る。それでも鼻をへし折り、目を潰し、唇を裂き、歯を拳に収めた。誰のものかも分からない血の色がまぶたを塞ぎ、観えていることを観えないように嘘を吐かせた。混じり合いながらも、境目を知った水たちになる。壁に叩きつけ世界の輪郭を思い出す。水のなかの瞳がうらむ。水のなかでなみだを流さないでいる。膝蹴りで頭を壁に叩きつけ続ける。もうすぐ完成のはずだった。それからきっと何かが生まれていないようになる。その小さな綻びた穴から地図が焼け落ちて滅ぶさまを頭に思い浮かべたが、笑い出してしまったようだ。青くただれた猿が弛緩した肢体を窓辺に横たえた。お母さんが買ってくれた靴のことを思い出す。野暮な運動靴で気には入らなかった。ショッピングモールで必死に探し出し、ろくでもない靴を見つけ出して、店員と採寸の相談をして。靴を買って帰ってきてくれたことを、思い出す。わたしはもう、中学生になったんだよ、言いかけて、やめたのだ。……わたしは、……僕はもう中学生なんだ。僕はもうとっくに、……ごめん……もう食べないんだ。眠らないし。もう一つの世界があるか。先が見えるのか? ごめん。僕はきっともう、中学生なんだ。
男の子がクラスメイトの群れから一人だけで飛び出してくる。腰から思い切り振りぬいて彼女をぶん殴った。ロッカーにひどく頭をぶつけて、鈍い音がする。彼は彼女の頬を焼く。引きずり回し、投げ、馬乗りして、……お前何で! お前! なあ! 男の子のとぎれとぎれの声が、耳の奥で鳴るように聞こえた。わたしは寝覚めの雨と羊のようだった。はっきりしていることを、むかしの言葉ではけざやかという。殴られる。雨が降っているのを知っているのに、窓からベランダへ出て、眺めることもせず、水のなかで眠っていたけれど、やっと眠気を追い払って、雨を見ることが出来そうだった。殴ってくれる、いまもまだ。わたしは/ぼくは、たぶんきたない。あの運動靴を拾いに行こうと思った。あの運動靴を拾いに行こう。