第2章 その5 エルレーン大公フィリップ
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その日の深夜。
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街中枢。
大公フィリップは、就寝時は常に一人であることを好んでいた。
決して安らかとは言いがたい眠りに就いていた大公は、浅いまどろみの中にいた。
今宵の、末娘である公女の行事で、興奮していたのだろう。熟睡してはいなかったのだ。
シャン!
澄み切った、金属の小片を打ち合わせたような音が、した。
「……鈴の音!?」
はっと胸を突かれて飛び起きた。
周囲は暗闇に包まれていた。
そんなはずは、ないのに。
エルレーン大公フィリップは、真っ暗な中で眠ることをよしとしない。
大公という身分もあり、護衛騎士たちは常に傍らに控えさせていたし、夜陰に紛れて不審な者が侵入する事態に対抗するため、常夜灯をつけていた。
大陸南部のキスピ王国で少量のみ採掘されている高価で稀少な光水晶を熱源に用いた常夜灯である。
ところが、起き上がった大公の周囲は、明かりひとつ見えない、暗闇に包まれていた。
不思議なことに、常に側近くに仕えているはずの従者や護衛たちの姿は全く見当たらず、常夜灯は、大公の周辺から夜の闇を追い払うべきものであるのに、いつしか消えてしまっていた。
「どういうことだ! 誰か、居らぬか!」
大公の叫びは、誰の耳にも届かなかったようだ。
従者の気配もなく護衛騎士も来ない。
「やあ、お目覚めかい? フィル坊や」
涼やかな声が頭上から振ってきた。
背筋が凍り付いた。
心臓が、バクバクと音を立てた。
白い指先が闇の中から現れて大公の肩を押さえた。それだけで起き上がることはできなくなる。動かせたのは首だけで、視線を横にそらすと、銀の鈴を連ねたアンクレットをつけた、白い足が見えた。
素足だった。
足の下には微かな銀色に光る波紋が広がっていく。
シャン!
重ねて、鈴が鳴った。
大公フィリップ・アル・レギオン・エイリス・エルレーンは、指先さえ自分の意志で動かすことはできなくなっていた。
「どうした、フィル坊や。相変わらず、暗いところは苦手かな? じゃあ、明るくしてあげよう」
声とともに出現したのは大人の頭ほどもある大きさの、青白い光球。
闇の中を漂い、流れていく。
常夜灯は消えたままだが、光球はしだいに増えて、室内を明るく照らし出していく。
ここは執務に就かれた大公が、余人との接触を離れ一人で眠るための専用寝室であるので、大公の身分に対して、さほど広くはない。
瀟洒で趣味の良い、かつ高価な調度品の数々。
壁に飾られたタペストリーや、風景画。
天蓋つきの寝台。
ごくごく個人的な、大公が一人になり、眠るためだけの場所。ここには大公妃も、いわゆる夜伽をする女性たちも立ち入りを許されることは決してなかった。
つまり、大公以外には、絶対の信頼を置いている護衛騎士たちだけしかいないはずだった。
それなのに、閉ざされた扉の内側、ここに、やすやすと侵入している、人物。
身にまとうのは夜の闇のような黒い長衣。そして携えている黒い杖。
抜けるように白い肌を引き立てる長い黒髪は緩い三つ編みにされてなお床まで届き、その瞳は闇色。けれど瞳の中には、水精石のような淡い青の光が浮いている。
侵入者は、魔道士協会の長、漆黒の魔法使いカルナックだった。




