第9章その30 境界樹の下で
30
ふと、わたしは疑念を覚える。
今は頭にぼんやりと霞がかかっているみたいで、よくわからないけれど。
この白い森と、黒髪の男の子のことを、本当はわたし、知っているのでは……?
※
背後から、灰色の髪の『おかあさん』の不安そうな声がかかる。
「あたしの可愛い○○○。おまえは強い。だけど、あたしは心配だ。精霊様がたにお伺いをたててくる。くれぐれも一人で早まったことはするんじゃないよ」
「だいじょうぶだよ、おかあさん。おれは『ひとり』じゃない」
黒髪の男の子が笑う。するとあたりはみるみる明るくなってきた。大人の頭ほどもある光球が、ふよふよと浮いて、彼の周囲に集まってきている。
「こいつらがいるからね」と、くすくす笑う。
精霊火だ。
それは光そのものであるのに、触れると柔らかくて、あたたかい。パチパチ、シューシューと音をたてて、まるで歌っているようだ。
素肌に、衣のかわりに精霊火をまとわせ付き従えながら黒髪の男の子は歩む。
絹のような肌触りの下草を踏みしめるたびに、熱のない白い炎がたちのぼる。
森の端まで来ているのがわかった。純白の木々の間をすかして外界であろう緑の草原が見える。その遙か遠くには雄大な山々の連なりがある。
外界と森の間には、純粋な白と、緑や茶色の通常の自然界の彩りという、明確な違いが存在していた。
巨木がそびえていた。大人が十人くらい手をつないで、やっと周囲を一周できるのではないだろうか。もちろん、太い幹も枝葉も全て純白だ。梢のほうは、おびただしい数の精霊火に包まれて霞んでいる。
その木の下に、一人の人間が佇んでいた。
褐色の肌、短く刈り上げた白い髪、白い顎髭を蓄えた壮年男性だ。
年齢は五十歳くらい。がっしりとした体つきだ。
本来は深緑色だったろう、砂や土にまみれて古びた、ふくらはぎまで覆う厚手の外套を身につけており、背嚢を担ぎ、注意深くあたりを見回している。
「入り口あたりで見かけたと聞いたのだが……手遅れにならぬうちに助け出さねば」と呟いた。
「なにを訳わかんないこと言ってる、あいつ」
男の子は、チッと舌打ち。
素早く駆け寄って、侵入者の背後に回り込む。
「どこ見てるの、人間」
声をかけ、驚愕に見開かれた男の目を見て「バカなの?」ともらす。
「精霊の許しもなく聖域に入り込むなんて、無礼者。なんで境界樹に弾かれなかった?」
「………」
男は、まだ驚きから立ち直っていないようだ。ぱくぱくと口を動かし、幼い男の子を凝視する。
「ふ、服は、もらっていないのか」
「あ?」
指摘されて初めて、そういえば衣は脱いで捨ててきたと思い出す。
「ふん、そんなの。おじさんこそ長袖に外套まで着て、暑くないの。ここは暑くも寒くもないんだよ」
男は口ごもり、頭に手を当てた。
「だが、人は服を着るものなのだ。厳しい日差しをよけ、冷たい風から身を守るために。外界では、必要なのだよ。おまえの養父母は、身につけるものを用意してくれなかったのか? 精霊に拐かされた、人の子よ」
「精霊に、かどわかされた? おれが?」
「そうだ」
男は身を乗り出した。
「わたしは、助けに来たんだ」
「なにそれ。……いらないお世話」
男の子は、後ずさる。
森の奥のほうへと。
境界樹を背にして、壮年の男性はさらに数歩、森へ分け入る。
熱意をこめて、両手をひろげ、訴えた。
「もしも帰りたくないわけがあるのなら。わたしがなんとかする、全て引き受ける。一緒においで、ヒトの世界に還ろう」
「ばかなの?」
男の子は首を振り、さらに数歩、退いた。
「ヒトの世界なんかに、誰が!」
叫んだ、
次の瞬間。
すさまじい圧力が弾けた。
突風が吹き抜けて。
いや、空気のかたまりだ。ものすごく固く、岩のようになるまで圧縮されたものが。
それが壮年の男めがけて大砲のように打ち込まれた。
瞬間、
男の身体は吹き飛び、背後にそびえる境界樹の太い幹に叩きつけられた。
反動で跳ね返り、
幹に沿って、ずり落ちる。
背中と腰を強打したのに違いない。
地面に倒れ伏して、激痛にのたうち、身動きもままならない様子だ。
さく、さく。
真っ白な落ち葉の上を踏みしめて、男の子は、倒れた男に近づいていった。
身を屈め、男を覗き込む。
長い黒髪が、さらりと流れ落ちて男の顔にかかった。
「最初に出会ったのがおれで、残念だったね、おじさん」
低く、笑った。
「精霊なら、人間を傷つけることはしない。だけど、おれは精霊じゃないから。いくらでも、ヒトなんか痛めつけられるし殺せるんだ。……これで、わかっただろ?」




