第9章 その3 ほんとうのクリスタ
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ここは地球ではない。
アンティグア家のご子息エルナト様に連れられて外を見たとき、改めて思った。
夜空には二つの月があったのだ。
空高く輝いている白い満月と、昇ってきたばかりの暗赤色で、小さな月。
『あれをごらん、クリスタ。真月の女神イル・リリヤ様は死者と咎人と幼子の護り手。きっと、きみを助けてくださる』
『エルナトお兄様、あの暗い月は?』
『あれは覚えなくていい、名前を口にしてはいけない「忌名の月」だ。魔物の守護神だよ』
異世界に転生したんだって、改めて実感した。
前世では21世紀のtokyoで、New Yorkで、生きて死んだ記憶がある、そのときのあたしの名前は……はて、何だったかな?
その一方で、誰にもかえりみられることなく飢えて凍えて死んでいったクリスタの記憶もある。
時々、夜中にひどく苦しくなって、発作が起こる。それはクリスタが、殴られたり飢えたりした記憶がフラッシュバックしたときで。
でも、そんなときはいつも、家族の誰かしらが駆けつけて再び眠れるまで付き添ってくれた。たいていはエルナト様だったのだけど……飛び回ってるくらいに忙しい人なんだけれど。
エルナト様のこと考えると胸の中が、ほわほわ、温かくなる。
そんなことを思い出しながら、お母さまについて回廊を歩いていた。
アンティグア家は広大で部屋の数も多く伝統のありそうな邸宅。
まるで中世ヨーロッパの貴族様みたい。
「アウラです。入りますわ」
お母様が声を掛けたら、
重厚な木製のドアが、すっと開いた。
内側から見えない手で押されたように。
そこにいたのはエルナト様と、お父様のエルナンド様。
そして初めて見るお二人が、ソファに座っていた。
この方たちが、お客様?
一人は背が高くがっしりとした体つきの壮年男性。
褐色の肌は、日焼けのせいなのかしら。白髪で、豊かな顎髭も真っ白。まるで有名なフライドチキンのチェーンの……ううん、どっちかといえばサンタクロースに似てるかも。
顔は彫りが深く険しい。表情は柔らかで、笑顔だった。
そしてもう一人の、青年?
長身で、けれど筋肉質でも痩せてもいない。すらりとした印象。
床まで届くようなまっすぐで艶やかな黒髪と、漆黒の瞳、透き通るように肌の色は白くて、すべすべ。
年齢はわからなかった。すごく若そうということだけ。
そして、ありえないくらい、ものすごい美形! それとも美女?
「これはこれは、お可愛らしいお嬢さんだ」
壮年男性が、顔をほころばせた。
「わたくしは深緑のコマラパ。エルレーン公国国立学院の院長をしております。こちらは、魔道学部の学長、カルナック・プーマと申す者でな」
すると、長い黒髪の人が、すっと立ち上がり、軽く上半身をかがめた。
「待っていましたよ。クリスタ・アンブロジオ、いや、本名はクリスティーナ・アイーダ・アンブロジオ・ロペス・アンティグア」
その瞳が、濡れたような漆黒から、淡い青に。この世界では水精石と呼ぶ、アクアマリン・ブルーに、色を変えていく。
強い魔力に満ちていることをあらわす色だ。
え?
アンティグア?
クリスティーナ・アイーダって、あたし?
あたしのこと!?
でもでもアンティグア家っていうのはエルナト様の家で……!?
どういうことか、さっぱりわからない!?
「ふぅん……クリスタが、そんなに驚いているところを見るに」
カルナック様は、笑みを浮かべた。
とても、楽しそうな。
「エルナンド、アウラ。それにエルナトも、彼女に事情を説明していないね」
「申し訳ありません。お師匠様」
突然、エルナンド様が、平伏した。
大げさな表現みたいだけど、まさに。ソファから飛び降り、絨毯に頭を擦りつけるかというくらいの勢いで頭を何度も下げて。
「父上!」
エルナト様が、焦っている。驚いている。
「我が家に訪れた、久しぶりの女の子でして。妻のアウラ共々、可愛くて可愛くて。慈しみ癒やし育てたいと、そればかりで日々を過ごしてしまいました」
「お預かりした日から、それはもう我が家は天使が来たと皆で大喜び致しまして。どうかご容赦を、黒の魔法使いカルナック様!」
気がついたらアウラお母様まで! 同じように床に土下座の勢いだ。
「やめてくれないかな」
カルナック様が、額を抑えた。
「漆黒の魔法使いカルナックだなんて。そんな二つ名、幼児が覚えてしまったらどうする」
「ぷっ」
吹き出したのはコマラパ様だ。深緑のコマラパ。大森林の賢者様。
「我々魔導師教会は、アンティグア家を非難するために訪問したわけではない。保護し、身柄を託したクリスタ・アンブロジオが、つつがなく過ごしているかどうか気にしただけなのだから」
あたしは思わず、飛び出した。
「お父様、お母様!」
二人と、カルナック様、コマラパ様の間に入って、手を広げた。
「おねがいです。おえらいかたがた。おとうさまとおかあさまを、えるなとさまを、せめないで。あたしはこのうちが、みんなが、だいすきなんです!」
「ほほう」
コマラパ師が、にやりとした。
「仲良くやっているようで、何よりだ」
カルナック様は、優しく微笑んだ。
「エルナンド、アウラ。大きくなったな。出会った時は二人ともまだ幼児だったものが。成人し婚姻を結び慈愛深き親となり、さらには血の繋がらない子を受け入れ、どの子も愛し守り癒やし。あなた方は真に尊敬すべき人だ」
「お師匠様!」
「師匠! 身に余るお言葉……」
「泣かずともよい」
コマラパ師が、感涙しているお父さまとお母さまにハンカチを差し出した。
「二人とも、もう立派な、いい大人なのだから」
こほんと咳払いをして、
「そもそも、おまえがいけない、カルナック。この二人に限らん。初等科に入った子らを最初に脅しすぎるから。誰も彼もトラウマになっておる」
これに対してカルナック様は、気まずそうに
「そうですかね? 私はこれでも、たいそう優しい教師なのに」
呟いて、
「これを皆で飲みなさい」
カルナック様が、どこからともなく口が細くて深い透明なガラスコップを取り出して、お母様たちに飲むように勧めた。
中に入っているのは、とてもきれいなお水!
発泡水みたいなのかな。
細かい泡が底からたちのぼっていくの。
「お師匠様! これは……」
エルナト様が、すごく驚いた顔をした。
「よい。『世界』も赦している。この家の皆には、健康で長生きしてもらわねばならん。乾杯。『世界の大いなる意思』に」
カルナック様に促されて、その場の全員は、あたしもメイド長さんも含めて、特別な水を飲み干すことになった。
それは本当に、ふしぎな体験だった。
ひとくち飲めば、世界が変わる。
まるでRPGのポーションみたいな!
身体がとても軽くて、楽に動ける!
客間の扉が、用心深く閉じられる。
お父様、お母様、エルナト様、あたし。そしてメイド長で、現在あたしの護衛をしてくれているリンダさんは、客間に訪れた深緑のコマラパ師と、黒の魔法使いカルナック様と共に、重要な話し合いの場についたのだった。
「最初に言っておく。クリスタ。きみは、クリスティーナ・アイーダという名前は自分の本来のものではなく、ここアンティグア家の子息に保護されたときにつけられた名だと考えているだろう」
「はい。……あ、いえ、よくわからないです!」
「ここでは装う必要はない。むしろ邪魔だ。気持ちを切り替えたまえ、きみがこの世界で言う『先祖還り』すなわち前世を記憶している者だということはわかっている」
「はい?」
「前世での名前、きみが何者であったのかは聞かない。通常の5歳児よりも難易度の高い会話に加われるということを期待する」
ごくりと喉が鳴った。
カルナック様は、全てをお見通しなんだ!
「その前提に立って、告知する。きみは、アンティグア家のかなり遠い親戚である地方の豪族ロペス家の、生まれてまもない頃に誘拐された、四女クリスティーナ・アイーダ・アンブロジオ・ロペスだ。二代前、きみには祖母にあたる女性が、サウダージ共和国の出身でね。黒髪と黒い目は祖母ゆずりだな。ロペス家には連絡し、裏付けがとれている」
「え?」
まって! 理解が追いつかない。
「ただしロペス家の当主と交渉し親権を放棄してもらった。地方豪族ではきみを育てられない。なぜなら」
カルナック様の瞳が、ますます強い青に染まり、光を放つ。
「きみは、このままでは長く生きられない。せいぜいもって数年。十歳にも満たないうちに、生命力が枯渇して死ぬ」
目の前が暗くなった。
微かな希望と、大きな絶望。
二つを天秤に乗せて、カルナック様は差し出した。
そんなの、天秤に合わないよ!




