第8章 その34 ぽっかり空いた穴
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「何も持っていないときならば、漠然と「ヒト」を守ると思えただろうが。何よりも大切なものを得てしまえば……失うことに、耐えられなくなる。あの子は、カルナックは、そうなってしまったんだ」
あたしアイリス・リデル・ティス・ラゼルは、グラウケーさまを追いかける。アーテルくんに抱っこされて。
延々とつづく緩やかな下り坂。
だんだん、通路は狭まり、灯りは乏しく、暗くなっていく。
アーくんが黒竜の姿のままだったら、つかえて通れなかっただろう。
「エルレーン公国は、始まりはレギオン王国より、ましだったんだ。カルナックが拠点にしたところだし、我々も気をつけて、定期的に掃除してきれいに保ってきたつもりだったんだけど」
グラウケーさまは肩をすくめた。
「だけどヒトって、いつの間にか『腐っちゃう』んだな。貴族だの金持ちだのって、中にはどうしようもないのがいるね。後生大事に貯め込んだモノやら、隠しておきたいモノを放り込んでおく場所を作ってた。大公閣下もご存じなかったようだけど……まあ、そんなの関係ない。臣民の咎は大公閣下にも負ってもらうよ」
責任って、どうやって?
怖くて聞けない……!
やがて、行く手に、頑丈そうな白い扉が見えてきた。
石でできているみたい。
高さと幅は、成人男性の身長の五倍くらいある。
取り付けられている巨大な錠前に、金色の鎖が巻き付けられて、
これはもうはっきりと『封印』しているのだと、見せつけるかのように。
けれど、扉には大きな穴が開いていた。
錠前は壊れてなかったけど、鎖は切れて垂れ下がっている。
「この扉は『かがくぎじゅつ』の粋を集めて造られているんだそうだよ。わたしたち『精霊』の眼をかいくぐるために『かがくてきに』合成した物質で隔てたんだ。もちろんこの国にはない技術さ。サウダーヂ共和国が技術供与しているのは疑う余地もない」
淡々とグラウケーさまは言い放ち、扉の穴をくぐった。
あわてて、あたしとアーくんも続いた。
ほんとうは、迷ったのよ。
すごく恐ろしいことが起こるような、予感が、したから……。
※
内部は明るかった。壁は白くて、天井は半球状。ボウルを伏せたような形の空間があった。
グラウケーさまは、歩みを止めなかった。
足元に、人間の身体が倒れ伏して、累々と転がっている。
たぶん公国の衛兵とかだわ。構えて握りしめているのは槍かな、剣かな。凍って全身に霜がついていて、見覚えのあるヒトなのかどうか全くわからないのは、かえってありがたく思ったのです。
でも、どうしよう。
もし、倒れている人たちの中に、サファイアさんが。ギィおじさんが、シェーラザード姉さまがいたら。どうすればいいの?
だけど逡巡している暇はなかった。
グラウケーさまは、広間の中央に歩み寄り、足を止めた。
カルナックさまは、そこに、うずくまっていた。
眼を閉じたマクシミリアンくんを、かたく抱きしめている。
(お師匠さま)
呼びかけることを、ためらった。
息が、できない。
「ひっ」と、奇妙な声がもれた。
マクシミリアンくんの胸には大きな傷が開いていて、血まみれだったのだ。
アーテルくんは立ち止まった。彼にしては信じられないくらいに、何も、声をあげなかった。
グラウケーさまも無言だった。
「……君も、きたの」
沈黙を破ったのは、カルナックお師匠さまだった。あたしのほうへ顔を向けないままで。
「ごめんねアイリス。アーテルも、来てくれたんだ? ちょっと手が離せなくて。サファイアにも、私は何もできなかった……」
「そんな……」
構いません、とか? どう答えたらいいの?
するとカルナックさまは、あたしのほうを見た。黒曜石のような美しい瞳で。
「……マクシミリアンの、お腹と胸に穴があいてるんだ」
感情をそぎ落としたような声で、言った。
「どう、して」
思わず問いかけた、あたしを、(アイリス)アーテルくんが、制止する。
グラウケーさまは無言のまま、カルナックさまの近くに立った。
ふふっ。
意外な声で、カルナックさまが、かすかに笑う。
「マクシミリアンの体内にある『炎の剣』を、取り出そうとしたやつがいたんだ。そのために、彼の身体を切り刻んだ。そんなことしたって、手に入るわけないのに」
いた。
過去形だということに思い至った、あたしは、震えた。
「もちろんそいつは八つ裂きにしてやったけれど」
こんなに恐ろしい、カルナックさまの笑みを、見たことがない。
「……でも、私の落ち度だ。マクシミリアンの命を助けたかったのに、かえって、それが原因で、殺してしまったようなものだ」
絶望に、凍るような、悲しみに満ちた声。
「この国で過ごした、短くはない時間で……ヒトの愚かさ、欲深さ、妬みが引き起こす、救いがたい凶行を、十分に知っていたはずなのに」
「どんな貴族にも与えなかった恩寵を、マクシミリアンに与えた、そのせいで」