第8章 その23 お家に帰りたい
23
あたしはアイリス・リデル・ティス・ラゼル。
生まれ育ったエルレーン王国首都シ・イル・リリヤを離れて青龍さまたちが統治する『水底の異界』に、護衛のサファイアさんと共に留学という名の「放流」をされてから、しばらく? いや、もしかしたらずいぶんな日数が過ぎている気がするの。
カルナックお師匠さまに忘れられてやしないかって、不安にもなろうというものよ。
つまり、修行を始めてから、けっこう日数が過ぎていないかしらってこと。
そろそろ何か進展があってもよくない?
そんなとき、あらわれたのは……空を翳らせる、大きな、翼を持つ生き物の姿だったのです。
「ひさしぶりに帰省してみれば! アルナシル! 義理の弟よ、あんたカルナック様のお客人に、失礼を働いているってこと? きっちり説明していただける?」
怒りの声が響いた。
ゆっくりと翼をはためかせながら舞い降りた純白のドラゴン。
鋭い蹴爪を地面にたたき付けると、地が揺れて、深い穴が開いた。
「おいおい流血沙汰は勘弁してくれよシェーラザード! どうどう!」
男の声が降ってきた。
純白のドラゴンの背に乗っていた中年男性が、おっとりと声をかけて、白いドラゴンの首の後ろのほうを撫でた。そのおかげで緊迫した空気が僅かながら和らいだのだった。
「シェーラザード姉さま! ランギ!」
青竜さまのお弟子である、子どもたちが歓声をあげて、降り立った白竜の足下に駆け寄った。
ドラゴンは、ぶるっと身震いをした。
すると、「うわああ!」叫び声と共に、背中から男が落ちてきた。
落下した男は
「ったく、俺の扱いが雑になってんじゃねえか?」
腰をさすりながら、ぼやく。
「うふふ。いいのよ、ギィは、あたしのものなんだから」
白いドラゴンは男に鼻先を擦り付けて、くすす、と、笑った。
次に背筋をのばして、くるりと一回転する。胸もとで光っている首飾りの青い石が光を反射してきらめき、しゃりりと音を立てた。
次の瞬間には、純白のドラゴンの姿はどこにもなかった。
同じ場所に立っているのは、透き通るような白い肌をした、背の高い、一人の若い娘だった。
力強い表情と、くっきりとした眉、濃い青の目。
背中に流れ落ちるまっすぐな純白の髪に、鮮烈な青色の房が半々に混じっている。
たおやかに微笑を浮かべれば、二十歳にもならない、楚々とした麗しい令嬢そのもの。
それこそが、まさに、この聖域を統べる二柱の龍神の愛娘、竜の姫君、シェーラザード。
人の姿への変転を終えた彼女は、両腕を広げている青竜と白竜のもとへ駆け寄って、腕に飛び込んだ。
「ただいま! お父様、お母様」
「おお、シェーラザード! お帰り」
「無事な顔を見て、安心しましたよ」
青竜と白竜は、安堵したようだ。
「ギィもお役目ご苦労さま」
「我が子ながら、見守りは大変だったでしょう」
従者であり現世での保護者、ギィこと、ランギへの気遣いも忘れない。
「いえいえ、恐れ多いお言葉、痛み入ります。感謝こそすれ、困ることなど微塵もありません」
そしてこの『水底の異界』に住んでいる『幼稚園児たち』、もとい弟子たちは、大はしゃぎだ。
「シェーラザード姉さま!」
「外はどうだったの」
「変なやつ、いた?」
「もちろん大丈夫だよね、ギィおじさんもいるし」
「姉さまなら、すぐやっつけちゃうよ」
今、ここでどんより暗くなっているのは、アルナシル王、ただ一人である。
ギィおじさんは、「すまんが俺にはシェーラザードとの仲直りは取り持ちできねえんで」と、王の前を通りすぎ、サファイアとアイリスという知己の顔を見つけ、ほっとしたように、片手をあげて挨拶をする。
「よう、サファイアさん、元気してるか。お嬢、ここの暮らしはどうだい」
とまあ、こんなものである。
自分が庶民代表だという自覚があるのだ。王侯貴族なんてめんどくさいものには、近寄りがたい。たとえそれが、シェーラザードの姉であるシエナの婿、アルナシルであっても。
「助かりましたわ、ランギ。わたしもちょっと、短気なところを見せてしまいそうだったもので……」
サファイアは肩をすくめる。
みなまでは言わないが、それなりにランギは察した。
そして、アイリスは。
「ギィおじさん! あたし、おうちに帰りたい!」
懐かしい顔を見て、思わず、本音がだだもれてしまったのだった。
これまで、慣れない『異界』の暮らしに、懸命に順応してきたぶん、反動が出てしまったのだ。
「ごめんなさい、サファイアさん。あたし、わがままだわ。言っちゃいけないって思ってたけど……お父さまお母さまは、エステリオ叔父さまは、パオラさんとパウルさんは、おうちの、みんなは……どうしているのかしら、って……ずっと、ずっと……」
ふいに、気が緩んで。感情が、押さえられない、アイリスだった。
「わがままなんかじゃないわよ、アイリスちゃん」
サファイアはアイリスの背中をゆっくりと撫でた。
「だって、あなたは、まだ小さいんだから」




