第7章 その47 精霊石に宿る魂
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精霊火が、カルナックの傷口から噴出している。
エステリオ・アウルの身体を操っているセラニス・アレム・ダルが、銀の短剣で切りつけたのだ。
それはカルナックの纏っている漆黒のローブと長衣を裂いた。
「わかっていた筈だよね、カルナック。ぼくが、いまさらエステリオ・アウル以外の身体に移るなんて、本当のところは思ってなかったよね? せっかく完全体でインストールした依り童なんだ。でも、それでもこの身体を治癒してくれるだろうと思ってた。だってそれが、きみの唯一にして最大の弱点だから。人間を殺せないということが。特に弟子だ。これほど目を掛けた人間を、死なせるはずはない。彼の望み通り死なせてやったほうが、事態を解決に導くとしても。それにしてもこの短剣、やばくない? すっごいよく切れるんだけど!」
エステリオ・アウルが突いた喉は、カルナックお師匠さまに治療していただいたけれど、こんなにしゃべれるほど完治しているとは思えなかった。
聞こえているのは、声帯を震わせて出る声ではない。直接、相手の脳に語りかけているのだ。
髪の色は、鮮やかな赤に、瞳は暗赤色に変わった。
表情はエステリオ・アウルのような青年のそれではなく、声変わりさえしていない子どものように無邪気で、楽しげで、意図していない純粋な悪意を放っている。
「今度こそ、ぼくの勝ちだね、カルナック。それともグーリア神聖皇帝の末子レニウス・レギオン。今はどっちなのかな。まあ、どうでもいいけど。ぼくは人間の身体を手に入れたことだし、人間世界を体験して、楽しく暮らすんだ。婚約者もいるし。ねえ、アイリス? じゃない、イーリスだっけ」
「おまえの、ではない」
カルナックお師匠さまは、身を伏せたまま、苦しげに声を絞り出す。
「おまえの器になりはてることを厭いエステリオ・アウルが自殺しようとしたのは、アイリスを守るためだ」
「だけど、あのまま放置すれば死んだだろうエステリオの身体を治療してくれたよね。カルナック、なんで人間みたいな愚かなことをしたんだい? あれえ、もしかして、まだ自分は人間だと思ってたわけ?」
「……そうだな。私は、とっくに……にんげんでは、なかった、のに……」
何を考えているのかも理解できないセラニスに抱きしめられて身動きとれない、あたし、アイリスだけれど。
今は自分のことよりカルナックお師匠さまのことが心配だった。
カルナックさまは父親に殺されて捨てられて、精霊たちが精霊火を身体に入れて命をつないだと、さっきセラニスは言った。
お師匠さま自身も、以前、冗談めかして『私の中身はほとんど精霊火なんだよ』って、おっしゃった。
傷口から精霊火がすっかり出てしまったら、お師匠さまは、どうなってしまうの?
そのとき、ふいに、胸に響いてきた声が、あった。
女神スゥエさまのお声に似た、澄んだ少女の声が。
『アイリス! ブレスレットを振り上げてセラニスの目に当てて!』
はっと気付いた。
手首にしている精霊石のブレスレットから、青白い光があふれこぼれている。
あたしは、息を大きく吸った。
六歳の幼女を抱きしめて拘束できたつもりなら。それは油断ってものだわセラニス。
腕は自由に動かせるんだから!
あたしは勢いよく腕を振ってセラニスの目を狙った。警告なしで。だってあたしは非力な幼女だから。
瞬間、まばゆい光が炸裂した。
「わあああ!」
そんな子どもみたいな悲鳴、エステリオ叔父さまのはずない!
力がゆるんだ隙に、あたしは両足を振って蹴り上げ、セラニスの腕からのがれ、床に飛び降りた。ついでに足首も蹴りつけてやったわ。
「よ、よくやったアイリス」
なぜかヴィーア・マルファお義姉さまは困惑していたけれど、もしかして幼い義理妹に夢を抱いていたのかしら。ごめんなさい、我が家はお金持ちだけど商人、あたしは庶民育ちなの。
『アイリス、ブレスレットを、精霊石をカルナックの傷口にあてがって』
また、声が聞こえた。
「サファイアさん、ブレスレットの精霊石をお師匠さまの傷にあててって、声がするの」
お師匠さまは倒れたまま。
精霊火の噴き出す勢いは弱まっていない。
あたしが近づくと、サファイアさんは頷いた。
「わたしにも聞こえたわ」
お師匠さまの纏っている漆黒の長衣を、思い切りよく、まくりあげた。
背後でマクシミリアンくんが息を呑んだのが、わかった。
いま、精霊火がとめどなく漏れ出ている真新しい傷の大きさにも驚いたけれど、お師匠さまの身体には、くまなくと表現していいほどに、たくさんの傷跡があったのだ。刃物で切られたような、無数の白い傷跡。
「悪い、驚かせたかな。私は傷の治りが遅くてね」
笑顔でおっしゃったのですけど、あたしは引きつって何も答えられませんでした。
「冗談になってませんよお師匠様。だいたい、古傷はあえて残したって言ってましたよね」
サファイアさんの、ため息。
「こんな大きな傷を塞ぐのは……なんでエステリオ・アウルに『覚者』の儀式の剣を貸したんですか。鋭い剣のシンボルだから、切れ味も、あれですよ無茶です」
ヴィーア・マルファお義姉さまは呆れたようだった。状況がすごすぎて反応できないのだ。
『アイリス。お願い、精霊石を、カルナックの傷口にあてがって』
再び聞こえてきた声に、あたしは従った。それしか、できなかった。
すると……。
ブレスレットにはまった精霊石の黒い蓋がぽろっと外れて薄く広がっていった。色も、真っ黒だったのが、半透明な黒いフィルムみたいになって。
カルナックさまの傷を、覆っていった。
「こ、これは! そうか、これは黒竜からアイリスが贈られた鱗だと聞いたが……」
驚くヴィーア・マルファお義姉さま。
『そうだよん。アイリスの友達、良い黒竜のアーテルくんなのさ! ここは一つ、貸しにしとくね! こうなるって予想してたわけじゃないけど、いやーウロコあげといて良かったよぅ』
あたりは精霊火の青白い光に満たされていた。
通常の空間ではない。
そこに、黒い髪と黒い目の、十三歳くらいの少女が出現した。
「アーくんっ! アーくん!」
思わず抱きついてしまった、あたし。
『やっほー、噂の黒竜アーテルくんだよ! ボクが出てくるのってよほどの危機的状況なわけ。まったくカルナック無茶しすぎ。自虐的なんだよねえ。もっと気楽にいけばいいのに』
「おまえが呑気すぎるんだろう」
カルナックは、ふっと、笑った。
『そうかもねえ』
アーテル・ドラコーも、笑った。
『あとはカルナックに精霊火を戻せば解決! ってね。だけどさあ、セラニスってばプログラムをバグらせてる。傷から出てった精霊火は変質してて、しばらく《世界の深層》で晒さないと使えないね』
「……だろうな。私は、生命活動を維持出来ない」
『やあだカル坊ってば、またまた深刻! じゃなくてね。きみの姉さんの伝言。ブレスレットに封じてある、自分の精霊火を使えって。そうすれば、ほら、ぱぱっと解決だよぅ!』
「だめだ! それでは、姉様が!」
『あたしの意思なのよ、カルナック。あなたに継いでほしい』
澄んだ声がして。
青白い空間に、始めに現れたのは白い腕だった。
少女のものと思われる華奢な細い腕が、カルナックを抱きしめる。
続いて、青みを帯びた銀色の髪と、水精石色の瞳をした、十五歳ほどの、儚げな少女の姿が、すっかりと現世に降臨したのだった。
『ねえ、カル坊。どうせあたしは、この世界の先にはない、閉じた世界で死んで、精霊石になったのだから。ここで生きている、人間をまだ見捨てていないあなたの、生命をつなぐ力になれたら本望なのよ』
「姉様」
『それに……この世界に存在する、あたしは。生きているでしょ? だからね、ここを乗り切って。セラニスにお灸というのを据えてやって、あなたが関わった人間達を幸せにして。たまには精霊の森に里帰りしてやって。それが、あたしの望みだわ』
次の瞬間。少女の姿は、青白い光となった。
無数の光球に変わり、カルナックの皮膚を覆い、溶け込んでいった。




