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第7章 その46 流れるのは血ではなく

         46


 目の前が真っ赤になった。


 エステリオ・アウルは、持っていたナイフで自分の喉を突いたのだ。

 床に膝をついて、そのまま、倒れ込んだ。


 テーブルに載せられていたあたしは、身を乗り出して床を見た。

 あたしの精霊石のブレスレットから流れ落ちた青い光が、水面のように揺れていて、エステリオ・アウルは、そこに半身をひたして横たわっていた。

 床に広がっていた、精霊石からあふれた青い光の海に、エステリオ・アウルの喉から噴出す鮮血が、みるみる、広がっていく。


 夢中でテーブルから飛び降りた。テーブルから床は、あたしの身体にはかなり高くて、足が痛かったけど、どうでもいい。

 あたしは彼に駆け寄って、起こそうとして、止められた。

 止めたのは、サファイアさんだった。


「動かすな。貫通してる。動いても抜けても出血多量で死ぬ」

 低い声、初めて見る険しい表情。


 ヴィーア・マルファさんとマクシミリアンくんも、そばにやってきた。二人とも、無言だ。

 マクシミリアンくんは、ずっと、カルナックさまの姿を目で追っている。すごく心配そうな顔をして。


「無茶をする。エステリオ・アウル」

 それまでずっと、感情をあらわにしなかったカルナックお師匠さまが、激しい動揺を浮かべて、エステリオ叔父さまの傍らに屈み込んだ。血だまりに濡れるのも厭わずに。


「おししょうさま。エステリオ叔父さまの血がとまらないの。じぶんでのどをついたの。あいしてるって……」

 あとは胸が詰まって。

「あたしが、いけないの。カルナックさまに授けてもらった、精霊さまから加護をいただいたヴェールを、じぶんではずしてしまったの。どんな危険からも守ってくれるヴェールなのに。だから……!」


「セラニスに騙されたのだろう? あいつは、ヒトを欺く天才だ。エステリオ・アウルを助けるために、そうしろとそそのかされたのだろう?」


 思いだした。

「エステリオ叔父さまが黒い蔦に絡め取られて閉じ込められて……! これは呪いだから、精霊さまのヴェールを被せれば助かるって……あ……あああああああ! 叔父さまが、死んじゃう……! たすけて、だれか、叔父さまをたすけて」

 あたしはすっかり動転していて、そのときカルナックさまが浮かべていた表情を見ることはなかった。

 激しい憤りと悲しみをおさえて、あたしたちヒトへの慈愛に満ちた、その優しい声だけを、耳にした。


「大丈夫だよ、私がいる。必ずエステリオ・アウルを助ける。サファイア、アイリスを支えてやりなさい」


「はい。アイリスちゃん、落ち着いて。もう安心よ」

 サファイアさんに背中から抱きしめられた。ぬくもりがつたわってくる。

 頭を撫でる、優しい手が、あたしの心も、静めてくれる。だんだんと、頭の中が、ぼんやりとしてきた。

 あまりに、いろんなことが、あったから。


「精霊石も助けてくれる。この『水面』は精霊の森に通じる聖域だ。私の姉が力を貸してくれている。ああ、もちろんグラウケー、精霊たちも」


 はっきりしない頭の中で、ひとつだけ。

 お師匠さまが『私の姉』とおっしゃったことが、心にひっかかった。


(カルナックさまの、おねえさま……? はじめて、お聞きしたわ……)


 精霊石が生み出した聖域の、水面が、揺れる。

 エステリオ叔父さまの喉から出続けている血が、青い光の中に溶けだしていた。


「聖域はね。ヒトの世の『けがれ』を白く晒すのだよ。本来ならば長い年月をかけて行うものだが。今は時間の猶予がない。少しばかり反則技も使うか。グラウケー師匠も、今回ばかりは許してくれるさ」


 やがて変化が起こった。

 鮮血の赤に染まっていたアウルの髪から色が抜けて。もとの褐色に戻っていく。


「髪の色が、戻った……?」

 もしかして血と一緒にセラニスが出ていったの? 

 あたしはつかの間、はかない希望を抱く。


「そうだね。だがセラニス・アレム・ダルがこの場から消えたわけではない。おそらく、意識がない状態にある、次に乗り移れる器を探しているだろう。リドラ、ヴィー。周囲の人間に気を配れ。異変があればすぐに知らせろ」


 指示してから、カルナックお師匠さまはエステリオ・アウルの身体に手をかけた。


「ひどい傷だ。見るな。忘れられなくなるぞ」


「いやです! あたしにもエステリオ叔父さまの傷を見せてください」


「そうか。覚悟のある子は好きだよ」

 カルナックお師匠さまはエステリオ・アウルを仰向けにさせる。


 思わず息を呑んだ。

 わかっていたはずなのに。

 喉に深々と突き刺さっているナイフが、血に染まっているのを見て。

 あたしは激しく動揺してしまった。


「だいじょうぶだよ」


 カルナックさまがアウルの傷口に手をかざすと、青白い光の球体が集まってくる。

 サファイアさんが、緊張した声で問う。

「お師匠さま。精霊火スーリーファを……」

 畏れの色がにじんでいた。


「傷を塞ぐために精霊セレナンの力を借りる。精霊火スーリーファは後で身体の外に出すが……傷がかなり酷い。しばらくはこのまま入れておくことになるだろう」


 ごくりと喉が鳴った。

 生ぬるい、いやな汗が額や首筋や背中をつたう。


 精霊火は、精霊の魂。

 それに人が触れるのは、普通にはできることではない。

 あたしは何度もセレナンの女神スゥエさまに助けてもらったから、むしろ親しみがあるくらいなのだけれど。

 同じ『先祖還り』のサファイア=リドラさんでも、精霊火には抵抗があるのだろうか。


 アウルの喉の傷口に精霊火が群がって、吸い込まれていく。

 こ、これは……確かに、神秘的というより、少し怖いかも。

 人間以外の存在が身体の中に入るのだ。

 精霊火に覆われてしまってから、しばらくすると、髪と目の色はすっかり元に戻った。

 カルナックお師匠さまはエステリオ・アウルの喉を押さえ、ゆっくりと、短剣を引き抜いた。


 とたんに鮮血が噴き出してくるかと思ったけれど、精霊火が覆っているところは皮膚のようになって傷を塞いでいると、カルナックお師匠さまはおっしゃった。


精霊火スーリーファで皮膚表面を覆っている今のうちに傷口を完治させる。アイリス、エステリオ・アウルの身体に触れていなさい。生命力がほとんど失われている。きみの魔力が一番適合するのだ」


 もちろん躊躇わなかった。

 あたしはエステリオ・アウルの頬に手を触れる。


 すると、彼の手が、ゆっくりと動いて。

 あたしの頬に触れた。


 その唇が、開く。

 けれど声は出ない。


「カルナックさま! アウルが何か話そうとしてます」


「待って! お師匠さま! エステリオ・アウルが、『治すな』と言ってる!」

 サファイア=リドラさんが声を上げた。ルビー=ティーレさんとコンビを組んでいるだけあって、彼女も唇の動きを読めるらしい。


「もう遅い!」

 カルナックが舌打ちする。


 あたしを抱きしめるエステリオ・アウルの腕に、急に強い力がこもった。


「つかまえた。月宮アリス。アイリス。……わたしの、イーリス」

 にやりと笑う。

 その髪が、再び、一瞬にして鮮血の赤に染まった。


 ざあっと、血の気が引いた。


「あなたはエステリオ・アウルじゃない!」


 その瞬間、ひらめいたのは、銀色の剣。

 エステリオ・アウルの治療のために魔力をかなり消耗していたカルナックお師匠さまに、アウルの身体の主導権を奪ったセラニス・アレム・ダルが、今、自分の喉から抜き取られたばかりの銀の短剣を震った。


 カルナックの黒いローブと、纏っていた黒い長衣が、大きく切り裂かれた。

 凶刃は肉までも届いただろう。

 ただ、カルナックの傷から噴き出るのは、血ではなく。

 おびただしい数の、精霊火だった。





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