第7章 その33 それは赤く暗い炎
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ゆらゆらと赤い陽炎が揺れる。
誰にも見えない。陽炎は地上の何ものにも触れられない。このひどく危険きわまりない幻影を目にするのは、非常に限られた存在だけ。
それは飢えていた。渇いていた。
求めるものは、たった一つ。
遙か彼方の古き園に、置き去られた、彼女だけ。古き園が壊れるとき共に失われた魂の持ち主だけ。
だから、セラニス・アレム・ダルの渇きは永遠に癒やされることはないのだ。
「あ~あ。もう飽きちゃったな。あの国も反乱を定期的に起こすのは面白いけど。掌握しちゃったら退屈。内政っていうんだっけ、にんげん操るのもめんどくさいもん。退屈はきらいなのになあ」
「そうそう、やりかけて放置してた仕掛けがあったっけ、忘れてたよ。今度は、楽しく遊べるかなぁ……」
子どもが玩具をもてあそぶように。
楽しげに笑いながら、人の荒野を彷徨う。
流血を求め、戦乱と嵐を求め。
呪いと穢れを呼吸して。
※
エルレーン公国随一の大商会、ラゼル家の一人娘アイリス嬢、六歳のお披露目会。
午後の茶会も終わり、招待客たちは晩餐会の会場となる大広間へと移動を始める。
この時点での招待客は、百名を越えていた。
これにそれぞれの妻、息子や娘、それに身の回りの世話をさせる従者が加わっている。
対するラゼル家の方も、明らかに通常より多い使用人たちが立ち働いている。
中には接客に不慣れな者までいるようだった。
実は不慣れな者たちとは、エルレーン公国で事故や事件の捜査活動にまで関わる魔法使いたちの潜入している姿であった。人手不足のため学生まで駆り出されていたのだから無理からぬことだった。
客たちが入場すると、楽器の演奏が始まった。古風な伝統楽器ハープシコードや竪琴を使った上品な室内楽だ。
どのような趣向を凝らすか、珍しくかつ美味な料理を出せるか、腕のいい楽士を呼べるかどうかも、主催者側の力を示す重要な点だった。
演奏が続く中、客達は整然と席に就く。
飲み物が配られる。夕刻から始まる晩餐会なので、昼間と違って酒は出されているが、軽いものばかりだ。
ダンテ・エドモントは困惑していた。
午後の茶会の最後に、両親と共に姿を現した、ラゼル家の跡取り娘アイリスは、まだ六歳だが、とんでもない存在だった。
まず規格外なのは守護精霊が四柱ついていたことだ。妖精の姿でアイリスの頭上を飛び回っていたのを、どれだけの客が察知できただろうか。さらにアイリスのまとう装束、顔を隠すヴェール、銀のサークレットに込められた精霊の力のすさまじさ。
ダンテは生まれつき魔力や神聖なものを『見る』能力があった。
そのかわりに自分自身は保有魔力がごく僅かしかなかったが、他人から向けられる『呪い』や『魔法』を無効化することができた。生まれついての素質だったので、それが自分だけの、珍しい性質なのだと知ったのは、世間に出てからだった。
魔法や物の価値を知る『鑑定』は、亡くなった父親の後を継いで商人になり、経験によって身に着け鍛え上げた、後天的な能力だった。
守護精霊や守りの装束、腕にしていたブレスレットがちらりと見えたが、今までにダンテが見たこともないほど強く神聖な力を感じた。さらに周囲を数多くの護衛や魔法使いたちが固めている。
なんでだ?
なぜ、これだけ大掛かりに、アイリスを守っている?
保有魔力が桁外れに多いという話は耳にしていた。そうなれば世間にさらしたとたんに誘拐や邪な意図を持つ権力者の接触、懐柔もあり得るだろうが、それにしてもだ。
何を警戒している。
何を恐れている?
ダンテは会場となった大広間をぶらつき、世話になっている商工会での知己や、これから取引をしたいと思っている、首都シ・イル・リリヤで権威を持つ大規模な商会や商工会のお偉方、銀行関係者、商人仲間に声をかけ、よしみを結んでいく。これがラゼル家の晩餐会に出席した目的であった。ダンテのエドモント商会は地方の個人商会。今後は首都に本拠地を移し、さらなる発展を計画していたのだ。
知らない顔も多いし、知人や取引相手の中には味方もあれば敵もいる。弱みはいっさい見せられない。
そのためにも、今回は跡取りである長男のマクシミリアンだけを伴い、妻と幼い子どもたちを地元に残してきたのだ。特に美人な妻、エスメラルダの顔を他人に見せたくなかった。
(あいつは、俺みたいな『魔法耐性』を持ってねえしな)
「旦那様、そろそろ着席をなさってください。料理が運ばれてくるとのことでございます」
地元から付き従っている忠実な従者、ロイが、控えめに声をかけてきた。
「そうだな」
決められているテーブルへと向かう途中、すれ違ったのは。
背の高い、美しい女性だった。
力強い表情と、弧を描いた眉は存在感があり、目の色はスーリア(※地球で言うサファイア)という高価な宝石を思わせる濃い青だ。
背中に流れ落ちるまっすぐな純白の髪に、鮮烈な青色の房が半々に混じっているのは、ちょっと見ない色合いだが、首都で流行りのカラーウィッグだろう。
すらりと背が高く、細身である。
シンプルな白いドレスに映える、銀鎖のついたスーリアの首飾りをつけていた。
相当に高価な宝飾品だと、ダンテは商人としてあたりをつけた。あの銀鎖も質がよさそうだ。
二十歳くらいだろおうか。麗しい令嬢は、にっこりと笑った。
輝くような笑顔だった。
(おお! なんと美しい! 気が強そうなところもいい!)
本来ならすぐにでも名前と連絡先を尋ねたいところだが、抑えた。
ここはアイリス・リデル・ティス・ラゼル嬢のお披露目の晩餐会であり、きれいなお嬢さんと親しくなるのが目的の夜会ではないのだから。
背後にいるロイの冷たい視線が突き刺さるし、令嬢の傍に従っている中年の従者も、あからさまにダンテを敵視してくる。お嬢様に近づくなと言いたいようだ。
(なんだあいつ、貧相なくせに。まあそれはどうでっもいいが……ロイがうちの奥さんに告げ口したら困る、死ぬ、いやマジで)
ダンテは席に着き、給仕が運んでくる軽食や酒のグラスを受け取ってテーブルに並べた。
とりあえず、一杯くらい……
「まったく懲りていないな、ダンテ」
慌てて背後を振り返る。
部屋の隅の暗がりが、さらに一色、濃くなったと感じた。
漆黒のローブを纏った、背の高い人物が、ふらりと姿を現した。
闇を切り取ったような黒く長い髪は腰まで届き、空にかかる#真月__まなづき__#の光を思わせる透き通ったように白い肌が、麗しく輝く。
瞳は#水精石__アクアラ__#の強い輝き。
魔法使いの長カルナック、その人だ。
「お待たせした」
ふわりと笑う。
その笑みを見て、ふとダンテは、違和感を覚えた。
こいつは本当に、さっきオレを脅した、危険指定と名高い『黒の魔法使い』か?
雰囲気がずいぶん柔らかいような?
「待ちかねたよ。息子は、どうだ? 無事か」
「もちろん。この私を誰だと思っている」
カルナックは、さらに背後に佇んでいる、小さな人影を、手招きした。
八歳にしては身体は小さくはない。
すらりとバランスの整った、どちらかといえば将来美男子になる可能性も、ないこともない、健康な子どもだ。
マクシミリアン。
「ほらこのとおり! どこをとっても健康体だよ」
ニコニコして紹介するカルナック。
「マック! すまんな。父さんのせいで」
酒を持ち込んだことには、あえて触れない。このような公の場ではどこで誰が見聞きしていてもおかしくないのだ。
「ううん。おれが不注意だったんだ。ごめんなさい」
「これからは気をつけるんだよ」
気遣うように、カルナックがマクシミリアンの頭を撫でた。
そのとき、ダンテは気づいた。
カルナックが、マクシミリアンに向ける眼差しの、優しさに。
ダンテは首をひねる。その様子に、カルナックは薄く微笑む。
「ところで、例の話も考えておいてくれましたよね」
「ん? ああ! しかし息子の魔力は」
「あなたは『診る』こともできるのでしょう?」
これはもちろん『診ろ』ということだ。
あらためて息子の身体を『診』て、ダンテは息を呑んだ。
「なんだこれは……!」
マクシミリアンの身体を、透明な膜のように覆い、魔力の炎が立ち上る。
陽炎のように。
「魔力が、こんなに増えて! それに……おまえ、懐に何を持ってる」
「カルナックさまに、いただいたんだ」
マクシミリアンは一振りの短剣を取り出す。
肘の長さほどの短剣だった。
魔力で『診れば』、宿っている存在がある。
炎だ。
炎の精霊が宿る剣なのだ!
「これを、あんたが?」
「そうだよ。私の魔力で造ったんだけど、持ち主の成長と共に育つ。そのうち長剣になるよ。先が楽しみだね」
さらっと言い放ち、満面の笑みを浮かべる。
「はい。おれがんばります!」
嬉しそうに応える、マクシミリアン。
「すごい贈り物をもらったな……マック」
マクシミリアンの将来は、すでに決まっている。
通常の人間には想像もできないほど大きな魔力を持つ者として相応しい人生を歩む。
ダンテには異議を唱えることもできない。
だがマクシミリアン自身は、どうやら心から受け入れ、喜んでいるようだった。
ゆえにダンテの結論は、こうなる。
「……いろいろ言いたいこともあったんだが。マック本人が幸せなら、いいか!」
「晩餐会の食事は、とびきりいいものが出るから。ぜひ堪能していくといい。マクシミリアン。きみも沢山食べないと。育ち盛りだからね」
「はい!」
マクシミリアンがカルナックを見上げる顔ときたら。
嬉しさが、外に漏れ出すかのような笑顔なのだった。




