第7章 その20 ヒューゴー老
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エステリオ・アウルが、親友エルナト、その他の魔法使い仲間たちと共に、館内を見張る水鏡の映像を監視しているとき。
アイリスは、子ども部屋でおとなしくしていた。
表情は曇っている。
「パオラとパウル、しばらくは、まだ眠ってくれてたら、いいんだけどな」
現在のアイリスにとって表層に出ている意識、イリス・マクギリスは言う。
「二人が起きたら、こんな話はできなくなるもの」
「そうね、今の所は寝てくれてるのは助かるわ。でも、午後の半ばくらいには起こすわよ。ルイーゼロッテが用意してくれた正装に着替えてもらうから」
サファイアは右目でウィンクした。
「本当に、若い娘さんたちがもしこのことを知ったら、羨望の的よ。すごいラッキーなことなのよ。大公御用達のルイーゼロッテがドレスを作ってくれるなんて」
「それを招待客に先んじて見られるのは楽しみだな」
「暢気に笑ってるけどルビー。あの野生児たちに正装を着せるのは、わたしたちなんですからね。手こずるのが目に見えてるわよ」
「毎度のことじゃないか」
ティーレは鷹揚に笑う。
「アイリスお嬢、あたしとリドラがついてるんだ、何が起こっても大丈夫。大船に乗ったつもりでいなよ。侵入者の探知なんて、魔導師養成学院じゃ基礎の基礎、初歩もいいとこさ!」
「魔法使いの『目』と『耳』を舐めるな、ってコトよ!」
高笑いをするリドラだった。
アイリスは子ども部屋に籠もっていたが、しだいに、屋敷全体に、緊張が高まるのを感じ取っていた。
絶対に、何かが、起こる。
動きがあったのは、正午すぎ。
微かにベルの音がした。
サファイア=リドラはぴくりと眉を上げ、
ルビー・ティーレは聞き耳を立てた。
「やぁだ、お出ましよ!」
「招かれざる客がね」
※
大広間。
一人のメッセンジャーボーイが、晩餐会の準備に余念の無いマウリシオとアイリアーナのもとに急いでやってきた。
緊張しているのか、ひどく顔色が悪い。
ホールに入るなり、息を切らせて、悲鳴のように叫んだ。
「旦那様! 先代のご隠居様が! 正門を通り抜けてこられて、いま、正面玄関に! どうやってか、門の見張りをすり抜けてこられたようです」
「親爺はあいかわらず自分勝手だ。招待状を送った覚えはないというのに」
突然の訪問だったが、館の主であるマウリシオ・マルティン・ヒューゴ・ティス・ラゼルは、さほど動揺を顔に見せなかった。押しかけてくるかもしれないと予想はしていたのだ。
※
「先代が、突撃してきた?」
アイリス(の中のイリス・マクギリス)の声は震えていた。
……いろんな意味で。
というのは、現在アイリスの意識の主導権を握っているイリス・マクギリスは、エステリオ・アウルの誘拐事件を引き起こす原因となったエステリオの実父でありアイリスの祖父でもあるヒューゴーに対して、非常に激しい怒りを覚えているからだ。
くそじじいさえ自重していれば。
もう少し、自分の行動の結果どうなるかをよく考えていれば。
持って生まれた魔力が少ない長男マウリシオを軽んじ、膨大な魔力を生まれながらに持っていたエステリオに偏愛を注ぎ。周囲にも触れ回り、常に連れ歩き自慢しまくるようなことを、しなければ。
もう、「もし」なんて考えても取り返しはつかないけれど。
先ほどティーレとリドラから、隠されていた事情を聞いたことで、イリス・マクギリスの怒りは以前にも増して高まっていたのだ。
「お嬢。落ち着いて」
脇に控えていたティーレが、囁く。
その場にいた誰の耳にも聞こえないほど小さな声で、けれど風の精霊シルルの守護を受けているアイリスには、確実に届く。
囁きに乗せられた呪文は、そうっと、アイリスの怒りを鎮めた。
「そうよぉ。イリスちゃんて、前世はニューヨーカーなんでしょ。はた迷惑なジジイのあしらいくらい慣れてんるじゃないのかしら」
「……了解」
イリス・マクギリスは、深く息を吸う。
壁紙の模様が、はっきり見えていると気付く。今更だが、激しい憤りのために視野狭窄になっていたようだ。
「オーケー、冷静になれたわ、大丈夫。ありがとうね」
臨戦態勢。
戦いは、まさに、これから。
ルビーとサファイアは、パオラとパウルを、そっと起こす。
「どしたの?」
「なんか、くうきが、ぴりぴりしてるぅ」
眠い目をこすって、起き上がる、双子。
「悪いお爺さんがやって来る。わたしたちは戦うの。パオラ、パウル。シロ、クロ。一緒に、守ろう。この幸せな、おうちを。たくさん、ごちそうをくれた。かわいがって、優しくしてくれた、ラゼル家の人たちを」
「うん! まもる!」パオラは目を瞬いた。
「たたかう!」パウルの目が見開かれて、瞳孔が、縦に、すうっと細くなっていく。
アイリスはソファをすべり下り、床のうえにたたずむ。少しばかり開脚気味なのは致し方なかった。中身が、イリス・マクギリスなのだから。
「お願い『シロ』『クロ』。出て来て! シルル、イルミナ、ディーネ、ジオ! 守って、みんなを!」
影の中から、二頭の従魔が立ち上がり、アイリスの右と左に立った。
ぐるるぅ、と。
低く、うなって。身体を伏せる。
『『『『祝福の粉は任せて! だけど、ごめんねアイリス、あたしたち、家全体にいきわたるほどには力不足で、できないの。サファイアとルビーに守護円を頼んで!』』』』
妖精達が部屋じゅうをせわしく飛び回って、きらめく光の粉をかけていく。
「あとは、あたしらだな」
サファイアに、獣神の双子たちの世話を任せ、ルビーは立ち上がった。
※
突然、子供部屋の扉が、ドン! と激しく叩かれ、揺さぶられた。
施錠してある錠前がガチャガチャと音を立てた。
だが、樫の無垢材で作られた扉は頑丈で、びくともしない。
しばらくの間、揺さぶり続けられたが、いっこうに変化はない。
「子ども部屋の戸が開かんぞ!」
猛々しい老人の声が響いた。
「合い鍵が、違うのではないか! おい、ここを開けろ! ラゼル本家当主であるわし、ヒューゴー・マルティン・ティス・ラゼルが命令する! 初孫の顔を見に来てやったのだぞ!」
「なにこれサイテー」
呆れるサファイア。
「当主命令だってよ。そう言えば開けると思ってんのか? クソじじいがっ、まだ当主のつもりでいやがる」
ルビーは怒り心頭だ。
「初孫の姿が見たいなんて、何を企んでるやらだわ。いっそ開けてやって、今すぐ倒しちゃおうかしら」
サファイアの提案も、まったく穏健ではなかった。
「アイリスちゃん、扉から離れて。このぶんだと強行突破を仕掛けてくるかもだわ!」
サファイアとルビーは、アイリスとパオラ、パウルたちを後ろに下がらせ、大きな円を床に描いて、全員を内側に入れた。
「かかってきやがれ」
ルビーは両手の拳を握り、胸の前に。構えた。
※
「開けろ! 命令だ、早く開けろ!」
子ども部屋の前に立ち、大声で叫んでいるのは、初老の男だった。
レギオン王国好みの上流階級風に仕立てた、ゆったりとした丈と袖、大きくドレープを寄せた、高山羊の羊毛のローブを羽織っている。
一目で高級品とわかる服装に一分の隙も無く身を固めている男だった。
否応なく圧倒されるような。
高圧的な雰囲気をまとった男。
そこへ、駆けつけたものたちがあった。
一人は、ローサ。
もう一人は、エウニーケであった。
「ご隠居様。どうして子ども部屋の前に、いらっしゃっておられるのでしょうか。お出迎えの者が、案内にまいりましたでしょう?」
エウニーケが、威厳のある口調で尋ねた。
ローサは案ずるように、子ども部屋の扉を見やる。鍵穴のまわりが傷ついているさまは明らかだった。
「ふん。自分の館に、なんの案内が要りようものか」
ヒューゴー老の目が、猛禽類のそれのように、ぎらりと光った。
「おお、おまえは、マウリシオに従って館に残ったメイドだな。ちょっと顔が良いからと目を掛けてやったものを。名前は忘れたが。どうだ、この中にいるのがわが初孫か! 噂通りに魔力に恵まれた娘か?」
「お答え致しかねます。お引き取りください、先代」
エウニーケの言葉は丁重ながら、その実、まったく歯牙にもかけない物言いである。
「マウリシオめが掌中の玉とばかりに後生大事にして、六歳のお披露目だというのに絵姿さえも寄越さぬ。わしが待ち望んだ、高い魔力を生まれ持つ初孫か。我がラゼル家の『まことの』跡継ぎか? ならば、わしによこせ!」
「お断りします」
エウニーケの返事にはひとかけらの迷いもなかった。
ローサを自らの後ろに下がらせ、老人の目から隠す。
「なんだ? 使用人ふぜいが当主の邪魔立てを! その下女、おまえなら、強制契約が有効だ! いうことを聞け、わがしもべとなりて、孫を連れてこい!」
「ひっ」
息を呑むローサ。足が、自分の意思ではなく、動くことに、恐怖した。
「解除!」
エウニーケは鋭い声を発した。
そのときである。
ヒューゴー老の前に、銀の光がほとばしった。
「あんたは当主じゃない。先代、ただの隠居じじいだ」
銀の閃光が消えたあとに、背の高い青年の姿が現れた。
「……だれだ、おまえは」
いぶかしむように眇められた老人の目が、次の瞬間、喜色を浮かべ、輝いた。
「見違えたぞ。幼い頃ほどの魔力の輝きはないが、それなりの青年に育ったではないか。ひさしぶりだな。わしの、エステリオ・アウル!」
「あんたのじゃない」
いやそうにアウルは吐き捨てた。
「隠居した先代。あんたは招待されていない!」




