第1章 その20 素足の魔法使い
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不思議な事と言えば、とつぜんあらわれた、夜のように黒い魔法使い。
コマラパ老師さまが描いた半円(たぶん、あたしたちを守るために)の内側に、何もない空中から出現したのだ。小さな鈴を連ねたアンクレットが、澄んだ音を立てて。
黒い長衣に重ねた黒いローブ。床にまで届く、緩い三つ編みにした長い黒髪を翻して。
携えている真っ黒な杖で、襲ってくるテノール青年だったモノの攻撃を、防いだ。
人間離れした美貌。
艶やかな髪も、切れ長の目も、闇のように黒く、肌色は、抜けるように白い。それは人種的な特徴というよりも、まるで精霊か、女神さまのような。
青年……だよね? それとも女性?
手にした真っ黒な杖で、奇妙なモノに変身したテノール青年を打ち据える。
赤くて殻みたいなものに覆われて、四つ足になって、
「がああああぁ」
うなり声をあげていた、魔物みたいになってしまっていた、ソレを。
すると……
テノール青年だったモノの表面にヒビが入って割れて、かけらが飛び散った。
何度も、何度も。
穢れを祓うように、黒い杖で叩き祓う。
そうしたら、だんだん、テノール青年の姿は元に戻っていった。
少し、言葉を話すようになったの。
「なんでだよ……不公平だ」
やっぱり、ぶつぶつ文句を言ってたけど。
夜のように黒い魔法使いの、真っ黒な杖で、したたかに手といわず身体といわず打ちすえられて、ナイフも飛ばされて、勝負になるわけないのに、まだ、怒気を含んだ赤黒く染まった目で睨んで。
そのひとは、カルナックと名乗った。
「あれは『漆黒の魔法使いカルナック』じゃないか……」
お客さまたちの中から、ささやきが起こり、広がっていく。
「我が国、エルレーン公国の宝、魔導師協会の長」
「初めて見た。あれほど若いとは」
さっきコマラパ老師さまが口にした名前だったけど、テノール青年の襲撃でショックを受けた、あたしは、それを思い出すことはなかったの。
黒ずくめの魔法使いが杖を奮うたびに、小さな、鈴の音がした。
緊迫した状況なのに、あたしは、鈴の音がするたびに、おごそかな気持ちになっていくことに気づいた。
まるで、そうだ、巫女舞いのような……
アイリスは知らない、たぶん月宮アリスだったころのあたしが知っていたんだろう、遠い異世界(この世界からすれば)の記憶が、あふれこぼれ落ちて、胸を、ざわざわさせる。
「なんでオレは、オレには、何もないんだ」
うずくまっているテノール青年。
何もないなんてことないでしょ。あんなに体格いいのに。
エステリオ叔父さまなんて、テノール青年みたいに逞しくないわよ。そのかわり、あたしに危険が迫ったら魔法でなんとかしてくれるもん! 信じてる。
「へ~え」
興味を引かれたのか。
漆黒の魔法使いカルナックは、テノール青年の前に、しゃがんで。目線を合わせた。
「ふうん。君、『種』を植えられたね」
静かな声で。
「でも『発芽』したのは自分のせい。自業自得さ」
くすっと、小さく笑った。
その笑顔が、子どもみたいにあんまり無邪気で、離れて見ていたあたし、なんだかどきっとしたわ。
「オレのせい? 生まれる場所をえらべなかったのも?」
いったん落ち着いていた声が、再び、荒々しく猛々しくなる。
その目が、暗く光った。
あれ? 顔が、おかしい。うまく言えないけど。表情かな……?
「あんたは……漆黒の魔法使いカルナックさま、か? ちげえだろ。伝説じゃ何百年も生きてるっていうのに。そこのコマラパみたいな年寄りなら、わかるが。やっぱり噂は本当だったんだ……魔導師協会のクソじじいは、若い子がお気に入りだって」
沈み込んで、うつむいて、ぶつぶつ言って。
ふいに、顔をあげた。
血走った目をしていた。
「おまえ! その杖を、オレによこせ!」
すがるように、叫んだ。
「その黒曜の杖! コマラパじじいが、あんたに与えた杖に、魔力が籠もっているんだろ!!! だから、そんなに若いのにすげえ魔法が使えるんだ!」
黒い魔法使いは、きょとんとして、首をかしげた。
「一度でいいから! 魔法を使ってみたいんだ! あんただってそうだったんだろ!? だから、あんな干からびたじじいなんかの愛人になってまで!」
おおっと!
なんですと!?
なにそのヤバいネタは!
やばいというのは。
それを聞いた魔法使いカルナックの雰囲気が、とたんに凍り付いたから。
「ふ~ん。なかなか面白い噂が流布しているんだな」
すごく、黒い笑みを浮かべて、佇む、絶世の美女。
それでも平気でいられるなんて、テノール青年には、才能があるかもしれない。
そうそう。『鈍感力』とかいうやつね。
「みんな知ってる。魔導師協会の長は、いつまでたっても若い。そんなはず、あるかよ。あのクソじじいは、どこからだか子どもを攫ってきて、魔力の杖を与え、協会の代表に仕立て上げてるんだ!」
テノール青年は、怖くないのかしら。構わずに叫び続けた。




