第6章 閑話 27 サファイア
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広大な港に停泊している、豪華客船のデッキ。
いましも出港するのだろう、乗務員たちが忙しく立ち働いている。
デッキには身なりのよい上流階級または富裕層であろう男女たちが数十名ほど佇んでいた。これから向かう国への期待など、それぞれ会話に興じている。
「うわあ! すっげえすげえ!」
歓声をあげて飛び跳ねているのは、十歳くらいの子どもだ。ベリーショートの黒髪とハーフパンツに白い長袖のシャツスタイルという服装、整ったきれいな顔立ちともあいまって、少年とも、少女とも思える。
「サファイア。危ないから、船べりに身を乗り出すのはよしなさい」
たしなめるのは、長身の、黒髪の青年だ。
「だってだって! こんなの見た事ないよ! 転生してから……」
と、言いかけて、子どもは口をつぐんだ。
うっかり喋りすぎた、と気付いたのだ。
「ごめんなさい……魔法使い(ブルッホ)さん」
青年は、ふっと笑う。余裕のある微笑みだ。
「私の事は、おとうさん、と呼ぶように」
「だって、それ嘘じゃん」
ぼそりと、サファイアと呼ばれた子どもは、つぶやいた。
「嘘ではない。きみは私の養女になったのだから正式にサウダーヂから出国できるのだ。この件では、当代における国家元首の許可も得ている。密出国などしないで済めば、それに越したことはない」
「……そうなんだろうね」
「追っ手に怯えることも、飢えることもない。悪くないだろう?」
いたずらっぽく、笑う。
「ちぇっ。何もかも、あんたの手のひらの上だね」
「好んで、こんな国に留まることはないさ」
『あら、ずいぶんね。そんなに評判悪いかしら、サウダーヂは』
ふいに声がして、何の前触れもなく、一人の少女が姿をあらわす。
「うわああああ!」
慌てる子どもの前で、少女は人差し指を立て、唇にあてる。
『しいっ。見送りにきただけ、幽霊見たみたいにこわがらないでね♡ もう、二度と会うこともないでしょうし』
少女の外見は十四、五歳。
肩口までのボブカットにした黒髪、黒い瞳、肌の色は象牙色。
このサウダーヂ共和国、国家元首、ミヤ・アマサワである。
「立体映像か」
『そうよ。技術提供するわ。あなたなら、この技術を魔法で再構築できるでしょ。この国の技術者には、できないけれどね。彼等には、魔力がないんだもの』
「それがサウダーヂの選択だろう。セレナンの恩寵を受け入れない、その結果だ」
『魔法を認めず、科学を捨てないと決めた。その選択を、あたしは尊重する』
「あなたも大変だろうに」
『しかたないわ』
ミヤは肩をすくめ、微笑んだ。
『ごめんなさい、あたしの目が黒いうちは厳しく押さえておくけれど。先に謝っておくわね。これでも長生きはしてきたけど、いずれは、あたしの寿命が尽きて、元首は替わる。もしかしたら、クーデターで。この国は、世界に害を為すものへと変質していくかもしれない。そうなったら……見捨てていいわ』
「それを判断するのは、私ではない」
黒髪の青年は、笑っていなかった。
「全ては《世界の大いなる意志》の、心のままに」
『そうねえ』
ミヤはつぶやく。ひとりごとのように。
『次の元首からは、たぶん、あたしのクローンじゃなくなるわね。民衆に受けのいいのは、女神様のような……金髪に、夜空のような瞳、色白の……偶像に、なるのでしょうね』
「あのセラニス・アレム・ダルが、それを許すものか。君に夢中じゃないか」
『あたしにじゃないわ。あの子は、あたしのような立場にあっただろう、だれかの面影を追っているの。それがこうじて、プログラムがバグるかも……そうねえ、百年、もつかしら?』
「ミヤ、あなたにはがんばって長生きしてもらいたいな。よき隣人であってくれれば、私も敵には回らないよ。母の生まれた国ではあるし」
青年は、遠い目をした。
「ドーム都市の外側で生まれたおかげで魔力持ちに生まれついて、亡命することにはなったけれども」
『わあ。それって強烈な皮肉』
「おかげで私という存在が生まれたのだから、良いというのか、悪いのか?」
『ごめんなさいね、お詫びといってはなんだけれど、あたしにできる限りは、がんばるわ』
「こちらこそ、よき隣人であるように努力しよう。この子を自由にしてくれたことには感謝している」
サファイアと呼ばれた少女も、こくりと小さくうなずいた。
「ありがとうございました、ミヤさま」
『さま、は、いらないわ。あなたの幸せは、この国にはなかったけれど、きっと、彼と向かうところには、あるでしょう。名残惜しいけれど、さようならね。よき旅を、祈っているわ』
約束は、果たされる。
百年の間だけは。
※
サウダージ共和国の首都ルイエから北へ徒歩で一日の距離に、人口の湖がある。
そこに建造された浮島の名前をルファーという。この国の実質的な政治の中枢である。
ここには、サウダージの奇跡とたたえられる国家元首、ミリヤが居住している。
ミリヤはここ数十年、側近の前にしか姿を現していない。
政府関係者でも、ごく限られた者しか、国家元首の居住する建物にも、ルファーにも、立ち入ることは許されていない。
円筒状の部屋の壁に作り付けた書架は天井まで棚が並び、おびただしい数の書籍が収まっている。その三分の一ほどはいかにも古びた既に羊皮紙の束などだ。
書架の前には可動式の床があって書き物机と椅子が乗っている。布張りの椅子には一人の少女が座って本に向かっている。
少女の外見は十五、六歳。
肩で切りそろえた髪は真月の女神の恩寵のしるしの金色で、夜空のような群青の瞳によく映える。
「ミリヤ様、何をごらんになっておられます?」
声をかけるのを許されるのは、唯一人。
誰よりも近い側近である、セラニス・アレム・ダル、宰相であった。
「古い地図だ。大陸北端にアステルの都。都とはいっても元は聖域、修道士の拓いた土地だから、領土はこの都の周辺だけだけれど。中央部にはノスタルヒアス王国。ここは現在はレギオン王国と名前を変えている。南にグーリア王国。現在では、この地図が製作された時代よりも、領土をかなり拡大している。西にはエルレーン公国、東南の海岸部にはサウダージ共和国。たったこれだけの土地の上で覇権を争うとは……いつになってもおもしろいものね……人は…」
たおやかに少女は微笑み、傍らにセラニスを招く。
ミリヤの傍らに立つのは十代半ばくらいの、男性とも思え、女性とも思える子どもだった。その頭に手を置いて、深紅の髪を撫でる。
「待っておいで、愛しい養い子、セラニス・アレム・ダル。このわたしが、必ずあなたにふさわしい王を見つけてあげる」