第6章 その25 とある孤児R-12458のサウダーヂ(後編)
25
なんてひどい名前だ。
R-12458。
それが自分をあらわす識別番号だなんて、とんだ冗談だ。
ものごころついて最初に思ったことは、それだった。
識別番号は孤児院で付けられた。
アルファベットを割り振っていって、AからQまではもう埋まったのだろう。QのあとはRだというわけだ。
サウダージ共和国に魔力持ちとして生まれたことが、苦労の始まりだった。
この国では魔法は禁じられているし魔力持ちの子どもは厭われるから、親に捨てられたのだと、孤児院の職員から聞かされた。
R-12458は、自分を特に不幸だと思ったことは無い。
なぜなら周囲を見渡せば似たような環境の子供はいくらでもいたからだ。
孤児院と称した搾取施設で育ったことはその一つ。
いつもかつかつに飢えて、わずかな食べ物を仲間内で奪い合う。暴力沙汰も日常茶飯事だ。
けれど命を繋いだだけでも儲けもので最悪ではない。
そうでも思わなければ、生きてはいけなかった。
顔見知りの子が孤児院から姿を消したと思っていたら殺されていて、命ばかりか髪の毛や内臓に至るまで根こそぎ奪われた死体が見つかった。身元がわかった理由は骨ばかりになった遺体の首に識別番号が印字された札がかかっていたためである。
サウダージでは、他の国では失われて久しいカガクギジュツとかいうものが生きていて、人間を含めて生物のからだと機械をつないだりする。だからもしかすると孤児院は生体素材を確保している材料倉庫なのかもしれない。
生き延びて、いつか自由の身になる。
R-12458は、それをずっと渇望していた。
素材にばらされないで十歳になったのは幸運だったのかわからない。孤児院から『穴ぐら』に売られただけだったけれど。
だから、黒衣の青年が言った、R-12458を買い受けて出て行き、ついでに「ここをぶちこわすのさ」という言葉は、生まれて初めての希望だった。
しかし。
「そいつは聞き捨てならねえな」
憎々しげに毒づく男の声と友に、青年の胸に、長い刃が生えた。
座っていたソファの背面から、長剣が突き刺されたのである。
黒衣の青年は無言でソファからたちあがり、そのまま前に倒れ伏した。
血だまりが床面に広がっていく。
「あああああああああああ!!!!」
R-12458は叫んだ。
同時に、ふしぎな光景が見えた。
思い出したのである。
ぼやけて見えているのは……
駐車場だ。
アスファルトの上にみるみる流れ出ていく血は、黒ずんで見えた。
血だまりに沈んでいる、女性の背中から、ナイフの柄が、突き出ていた。
近くに落ちて居る鞄から書類の束がのぞいていた。
それも、血に染まって、真っ赤だった。
R-12458が、見た事もない光景。
「いやだ!課長、杉村課長! 操子!」
思い出してしまった。
おれはR-12458じゃない。
リツという名前だった。嵐山律。あのひとが死んだとき、おれは38歳で。年齢を重ねることなく、死んだ。
……ねえ、サウダーヂって。もう取り戻せない、失われたものへの郷愁をあらわすことばなんだよ……
絶叫と同時に、R-12458を中心とした爆発が起こった。
穴ぐらの半分以上を巻き添えに、吹き飛んだのだった。
爆発の瞬間、血まみれで倒れていたはずの青年がR-12458を抱きかかえて身軽に飛びすさったことを、失神してしまったR-12458は知らなかった。
その時点では。
「あ~あ、やっちまったな」
カオリと名乗っていた青年が、感嘆の声をあげる。
「何を他人事のように」
傍らに佇むのは、長い銀髪と、薄青い目をした人物だった。長身で、暗がりでも微かに光るような白い肌、人間離れをした美貌である。
「我らの愛し子よ。相変わらず無茶をする。自ら囮になって刺されたふりをして《世界の大いなる意志》の鉄槌をこの呪われた国にくだすように、企んだね」
「敬愛するお師匠様、グラウケー。私がそんな無謀な賭けをすると? ……まあ、血糊は仕込みましたけど。この子が『先祖還り』の記憶をよみがえらせるとか魔力を暴発させちゃうとかまでは予想も付きませんでしたよ」
ほら、と。
血に似せた赤い染料をこぼしている袋を、胸もとから取り出す、青年。
困惑よりも多分に、楽しんでいるような表情が垣間見える。
「しょうがないだろう、カルナック。この子の身柄は、責任を取って引き受けることだね。おまえの保護者として、我ら精霊が、対外的な交渉の一部は引き受けてやるしかないようだ」
意識を取り戻したR-12458は、目をあけるなり、驚愕の表情を浮かべ、息を呑み、次に、こう言った。
「カオリ…さん? おれは、あなたを知ってる。グラビアで見たことがある。財閥のお嬢様という企画で……ファッションモデルもしてた……それともカリスマ占い師? どれが本当の顔なのかって……」
「おや、驚いたね。私の前世を知っていたか。質問なら答えるが、どれも私だ。今世の性別は違うけれど」
カルナックは、笑う。
「君は、私の弟子になって、ここを出て行くんだ。そうだな、まず……やることがある」
「出て行く? ほんと?」
「だって、ここはもう建物ですらないだろう。君がやったんだけどね」
と、青年は肩をすくめて。
「まず、名前をつけることだね。自分の好きなように名乗って、好きなように生きていいんだよ。ところで、ここは変わってるね、男装した女の子に客の接待をさせるなんて」
「おれは男ですよ? 嵐山律、38歳の営業マンで」
「……それ、前世の記憶だろ」
「え?」
現在十歳ほどの子どもである R-12458は、性別について考えたことはなかった。
女性だと知らされて、ずいぶん悩んだのだが、それはまた別の話。
自分が女性だと受け入れるのに時間がかかった後に、嵐山律は、新しい人生に進むことにした。
まず、名前である。
前世で好きだった小説のヒロインの名前にしたいと思った。
語学の専門家で暗号解読者だった。強くて格好いいと憧れていた女性である。
彼女のように、りりしく生きたい。
そう願った。
※
共和国政府と研究所おかかえの孤児院および提携先の、孤児達の主な就職先だった娯楽施設が、文字通り灰燼に帰してあとかたもなく破壊された、事件があった。
サウダージ共和国でも大手の新聞や週刊誌がこぞって取り上げる大がかりなスキャンダルになったのは、外国の貴族が被害を訴えたことに端を発する。
名を明かされなかった、この貴族はかなりの権力を握っており、さらにグーリア神聖帝国の皇太子……神祖と自称している現皇帝に実子はいないため、養子であった……と繋ぎをとっていたのである。
共和国としても看過できない事態となった。
ほどなく施設の癒着が内部告発され、第三者委員会の調査の手が入り、組織は解体されることになる。
これはアイリスが生まれる、ほんの三百年ほど前のこと。