第6章 その24 とある孤児R-12458のサウダーヂ(前編)
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「サウダーヂって、きれいな響きだよね」
その客は言った。
「ただ郷愁というだけではない、すでに失われたものへの懐かしむ気持ちも、入っているんだよ」
成人してそこそこと思える、若々しい面差し、筋肉隆々とはいかないが引きしまった体つきは外套ごしにもうかがえるほど。きりりとした美青年である。
黒ずくめの装いだった。
外套もローブもゆったりとしたズボンも、革靴も。
長い黒髪を緩く三つ編みにしている。
遊ぶための店をおとずれながら、出された飲み物、食べ物(まあそんなにうまいものなんて出て来ないけど)にもいっさい手をつけず、ソファに浅く腰掛けている。
周囲に目を配っているのはまるわかり。
それにしたって店にくれば誰だってやることはきまっているわけで。
店おかかえの『花』を選んで呼びつけて、服を脱いだらよろしくやるだけ。あとはきちんと支払いを済ませれば、五体満足に出て行ける。もし万が一、支払いをしぶれば、翌朝には舌を抜かれた死体が一つ路地裏に転がることになるだけのこと。
なのに、『花』を選んで酒席についておきながら、
外套を着込んだままなんて、変わってる。
長い足を組んで、テーブルに投げ出した。
「この国の名には、もったいないよ。ねえ、そうは思わないかい?」
風変わりな客の相手をしている『花』としては、店の手前、めったなことも言えはしない。
「ところで君、名前は? 私は……そうだなあ」
しばし考えをめぐらせ。
「私は、カオリというんだ」
偽名にちがいないだろう、珍妙な響きを、口にした。
「君は?」
重ねて問われ、しかたなく『花』は答える。
「R-12458」
「は?」
「R-12458。それが識別番号だよ」
「それは、名前じゃないだろう」
黒髪の青年は、眉をひそめた。
「ほかに、おれをあらわす呼称はないよ。必要ないと言われてる」
「これほど腐っているとは」
青年の眉間の皺が、深くなった。
「お客さん?」
「お兄さん、って呼んで。私はね、ここに、この国に自分のルーツを、まあ親戚でもいないかなと、探しにきたようなものでね。君はどことなく、親戚のような気がするんだ」
「親戚なんていたら、おれは孤児になってないな」
溜息が、出た。
なにもかも、とうにあきらめている。
手の届かない星空のよう。
「じゃあこうしよう」
青年が、言う。
「私と一緒に、ここを出て行こう」
「え? むりだよ、おれはここの所有物で備品で消耗品で」
「いいから、行こう。胴元はどこだ?」
青年が手を打つと、店の護衛兼給仕人がやってくる。
「何か問題でも」
凄味のある口調に、『花』である、黒髪の子供が、びくっと身をすくめる。
「精算を」
「お客様はまだ、当店をご堪能いただけていないご様子ですが」
「もう充分だ。この子を、買おうと言ってるんだよ、私は」
暗転。
※
※
「だから危険だって言ったよね。お兄さん、あんたみたいなキレイな人が来て良いところじゃないんだ。大金を払っておれを身請けするなんて元締めに言うから。あんたを殺して、有り金を洗いざらい奪うつもりだよ」
陽の光など差したこともない穴蔵だった。土埃と湿った藁の匂いにまじって、怪しい香がくすぶっていた。普通の人ならすぐに昏倒するくらいに濃厚な。
穴ぐらにいる子どもたちは、幼い頃から、毒や麻薬には慣らされていた。
R12458と識別される子どもも、また。
肩までの黒髪は手入れされていないためボサボサ、申し訳程度に、痩せこけた身体に纏っている布も、擦り切れ、破れが目立ち、清潔とは言いがたい。
「この香か?」
黒衣に身を包んだ青年は、くすりと笑った。楽しげに。
「ここの主は、私を永遠に眠らせたかったようだが、残念ながら毒も薬も効かないんだよ。なぜなら」
フードをおろして、不敵な目をのぞかせる。
「あいにく、私は人間じゃない」
青年の黒い目には、深い憤りがあった。やがてその瞳は、精霊の目と呼ばれる宝石、水精石を思わせる、うす青い輝きを宿して星のようにきらめいた。
身体の内に満ちている膨大な魔力が、そんな現象を起こさせるのだ。
「まさか、お兄さんは、魔法使い……」
魔法使いは、奇跡を起こす存在。
全てを覆せると、噂で聞いたことがあった。
もしも、そんな人がいるならと、ここにいる皆は、儚い希望を託していた。
その人が、今、目の前に?
「黄金の卵を産むガチョウを殺して腹を割くか。愚か者め」
静かな言葉の内には、激しい怒り。
「せっかく、短気なこの私が、珍しくもはなはだ平和的に、金ですむことならばと譲歩したというのに。……この穴ぐらの主は、よほど命が惜しくないとみえる」
「おにいさん。どうするつもり」
「もちろん、ここをぶちこわすのさ」
それは黒髪の孤児R12458号が生まれて初めて見た希望の光だった。