第6章 その20 取引は信用(クレジット)です
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「もちろん、そうだ。テノールくんのことだよ。やっぱり彼のことをすっかり忘れていたね、アイリス」
カルナックさまが、人の悪い笑みを浮かべる。
「すみませんでした!」
即座にアイリスは謝罪した。『三歳の、魔力診とお披露目の会場で事件を起こしたテノールという青年の存在を忘れていた』という件については実のところ取り立てて彼女の落ち度でもなかったのだけれど。
「あの事件のとき、お父さまお母さまエステリオ叔父さまも、あたしをかばって身を投げ出して盾になろうとしてくれました。あのままだったら家族全員、大けがか、死んでいたかもしれません。老師さまやカルナックさまが駆けつけてくださって、助かったのです。あらためてお礼をもうしあげます。ほんとうに、ありがとうございました」
「ふふん、そうだろう。わたしはアイリスの恩人だね。もっと感謝してくれてもいいのだよ」
嬉しそうに笑うカルナックだったが、突然、
スパーン!
とてつもなく軽い音がして、紙を束ねたようなもので頭を叩かれたのだった。
「カルナック! そんな場合か!」
叩いたのはコマラパ老師だった。カルナックに教育的指導をできる者は、この世界で、後にも先にも老師の他にはいなかったのである。
「今はテノールも生まれ変わって真面目にやっとる。不穏な記憶に『鍵』をかけてな。じゃが、それはそれ、これはこれ。トミーとニコラ、グレアムのことを優先すべきじゃろう」
「あいたたたた。もう、手が早いんだからコマラパ」
「誤解を招く言い方はよさんか!」
「だってホントだし」
蠱惑的にカルナックは微笑を浮かべ、でこぼこトリオなる三人の学生、トーマス、ニコラウス、グレアムに向かって、ぱんと手を打ち合わせて、言った。
「きみたちのプレゼン試験は、及第点をあげよう。初めてだしね。今後はもう少し精進するように」
「「「はい! ありがとうございました!」」」
声を合わせ、三人の少年は、頭を垂れた。
やったな、って、小さな声で言い合って。
嬉しそうだわ。やりきった感じね。
けれど、あたし、アイリスには、少しばかり、ひっかかりがあったのでした。
「あの、カルナックお師匠さま。トミーさんたち、よろしいですか?」
遠慮がちに声をあげたのは、アイリスである。
「さっき、あたしは独断で、みなさんの研究に支援したいとお答えしましたけど、考えてみたらまだおかねというものを見たこともさわったこともない五歳児ですから。お父さまやお母さま、エステリオ叔父さまに相談して、許可をもらおうと思うの」
「そのことなら、心配しなくていい」
アイリスを抱き上げ、大声で言ったのは、父親であるマウリシオ、ラゼル商会の会頭だった。
「おとうさま!」
「今回の、コマラパ老師のお弟子たちとの商談については、あらかじめ老師とカルナックさまから打診があってね。私も、研究費を援助してもいいとおもっていたのだ。アイリスも同じ意見とは、さすが自慢の娘だ!」
お父さまは上機嫌で、赤ら顔。かなり飲んでますね?
あたしの脇の下に両手を差し込んで持ち上げて『たかいたかい』をしてくれました。
そしてほおずり。
「お父さま、おひげちくちくする」
「わはははははは!」
「でもね、おとうさま。さきにご相談するまえに良いお返事をしちゃったのは、アイリスがいけなかったわ。ごめんなさい」
「良い良い。おまえが判断したことだろう。大金を動かす契約などは、独断でしてはいけないよ。今はまだ」
「いまは?」
「将来、アイリスはりっぱな商人になるとも! 大物だ!」
「お父さま、酔ってますね~?」
「これは祝杯だよ! これで我が家も安泰だ!」
「そんなおおげさな」
「大袈裟ではないよ、アイリス」
お師匠さまが、意外にも真面目な顔で、おっしゃった。
「アイリス・リデル・ティス・ラゼル。君なら、いますぐにでも、将来の『信用』で、取引を始められるとも。この私が保証する」
「えええええ?」
なんで、どこからそんな要素が!?
焦っている、あたしの耳に。
パチパチパチパチ。
拍手が聞こえて、まわりを見たら。
食堂で飲んで食べていた大勢の人たち……お母さまもエステリオ叔父さまも、エルナトさまのご家族……代父母になってくださったアンティグア家の方々も、ルビーさん、サファイアさんたちも。
そのうえ、会場を提供してくれた公立学院の生徒さんたちも、あたしやトミーさんたちのやりとりを見守っていてくれたことが、あきらかでした。
あたしは驚くやら焦るやらで、ぱにっくです!
そのままだったら、きっと頭から湯気が出て倒れていたかも!
そうならなかったのは……
その場の空気を読まない人物が、乱入してきたからだった。
「おおい! パーティ会場はここであってるよね!?」
飛び込んできた、一人の、金髪の、背の高い青年。
美形です。
声もイケボイス!
風のように大食堂に飛び込んできた美青年は、カルナックお師匠さまを見つけ、こう叫んだ。
「おお! マイハニー!」
まさに、空気が変わったわ。
さーっと、体感温度が凍り付きそうに下がったの。
……誰、これ?