第6章 その2 クリスタ・アンブロジオの転生
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死にたくない!
すべてに絶望していた。生きるなんてどうでもよかった。車にぶつかったって。かまわなかった。
なのに、最期の瞬間に、あたしは《生》を手放せずにいた。
あきらめたと……思って、いたのに。
薄れていく意識のなかで、あたしは必死に手をのばして。
見えないつるつるの壁に爪を立てようと試みた。
爪痕をのこすことさえ、できないの。
だって、あたしはなにものにもなってない。
なにもかなえてない。
アイドルだったくせにって?
ごめん嘘ついてた。歌手を目指してレッスンしてオーディション受けてただけ。
本当の、本音を言えば。あたしはずっと、有栖と一緒に歌いたかった。
だけどママは、勝手に有栖をライバル視して。近くに寄れば嫌がらせくらいしかねなかった。
もはや妄想の域だったよ。
いくらあたしが否定しても、どうすることもできなくて。
だからパパは出て行ったのよ。
離婚して新天地で暮らすって。どこか知らないけれど。
養育費はきちんと振り込んでくれてた。
手紙もくれていたの。
ママの捨てたゴミのなかにあった……まさか、ほんとに握りつぶすなんてね。
暗い……空虚な世界。
ただただ、落ちていくの。
わずかに残った望みも消え果てたころ。
変化が、起こった。
誰かが、あたしの手を掴んでくれたのだ!
(だれ? たすけてくれるの?)
《いいや、助けるわけではないよ。きみは自分自身を、すくいあげるのさ。生きたいという、自分の意思で》
答えてくれた、だれかの声は。
まるで、森を吹き抜ける風のように。
あたしの中の、よどみを、吹き飛ばして……!
※
思い出す。
異世界転生して、生まれ変わったところで、あまり変わりばえはしなかった。
ものごころついた頃から、放置や虐待を受け続けていた。
未来に何の期待も持っていなかったあたし。
あげくに売られて、どこかに運ばれて。
大勢の子どもたちと一緒に暗いあなぐらに押し込められていた。
寒くておなかがすいて。
じきに死ぬのだと思った。
希望なんて持っていなかった。
そんなあたし、クリスタ・アンブロジオの運命は、あの日、大きく変わった。
軍隊と魔法使いさんたちの合同捜査だったか。
地下倉に突入してきた二人の若い魔法使いに助け出されたのだ。
一人は王子様みたいな金髪の美青年、エルナト・アル・フィリクス・アンティグア様。
このエルレーン公国の統治者フィリクス・レギオン・アル・エルレーン公の、とても近い親戚筋にあたる、えらい人で、でも公国立学院の大学院っていうところにいて、お医者さんをやっている。
そしてもう一人、レンガ色の髪をした人の良さそうな青年、エステリオ・アウル・ティス・ラゼル。
この国で一番大きな商会、建国時からあるラゼル商会の当主の弟さん。大学院の一番えらい老師という人の研究所で副所長をやっているとか。
それはぜんぶ、今あたしがお世話になっているアンティグア家のメイドさんたちが教えてくれた情報だ。
あたしは大規模な誘拐・人身売買組織の犯罪の証人として、アンティグア家で保護された。おおやけには、このおうちの、遠い親戚の子どもという設定で。
証人保護制度というものらしい。
気のせいかな。前世で日本人の女子高生だったときに見ていた海外の刑事ドラマにそういう制度が描かれていたような。まあ、異世界だって同じような発想があったって不思議はないよね。
そう、異世界。
ここは日本じゃないのよ!
魔道士協会本部というところに連れて行かれた。
寄宿舎のある学校で、優しそうな女の人がつきっきりでお世話してくれて。
急におおぜいの人に囲まれなかったのは、気遣ってもらったのだろうな。
清潔な洋服に着替えさせてもらった。
アンティグア家に迎えられた、あたし。
エルナト様も、彼によく似た、ヴィーって呼ばれてる美人な妹さんも、エルナト様のご両親も、温かく迎え入れてくれた。なんとか公っていって、大公さまと同等のご身分だとか。
ど貧民だったあたしには、よく、わからない。
大歓迎をうけて、豪華なお風呂。メイドさんたちに寄ってたかって洗ってもらって。
清潔なお着替え、おいしいごちそう。
ふかふかベッド。
(もしかしたらあたしはもう死んでいて天国にいるんじゃないかしらって、しばらく、いいえ当分の間は疑心暗鬼になってたものです)
アンティグア家で暮らし始めて数日後のできごとについて、語ろうと思う。
あたしは爆睡していた。
これまでは眠ると必ず悪夢に陥っていたので、ろくに眠れない日々が続いていた。
おそらく生まれて初めての熟睡。
その夜、あたしは女神様に出会った。
※
何もない銀色のもやに包まれた世界。
しだいに銀色の靄は晴れていき、上も下もない真っ白は空間に自分が浮かんでいることに気づく。
『やっと会えましたね』
頭の中に直接、声が響いた。
「えっ! なにこれ!」
驚いてあたりを見回す。
『わたしはここにいます。あなたが見ようとしていなかったのよ』
「ひぃっ!」
あたりを見回したあげくに正面に向き直ったとたん、目の前に、人間離れした美少女が立っていた。
年齢は十五歳くらい。
青みを帯びた銀色の髪。まっすぐで艶やかで、滝のように身体に従って流れ落ち、純白のシルクドレスと共にくるぶしまでを覆っている。
アクアマリンみたいな淡いブルーの瞳だ。
とっても友好そうな微笑を浮かべている
『そんなに驚かないでくださいな。わたしはセレナンの女神のひとり、アエリア』
「はぁ? 女神? なにそれ。おいしいの?」
アエリアと名乗った少女は、盛大なため息をついた。
『これまで何度も呼びかけていたのに、あなたにはまったく届かなかった。聞く意志がなかったのよ。でも、重要なことなので、今回だけでも、ぜひ聞き入れていただくわ』
「はい?」
あたしに選択の余地はないらしい。
『あなたは前世の記憶を持っているでしょう』
「はい、ついさっき思い出しました」
『その記憶を持ったままで、あなたにとっては異世界であるこのセレナンに転生してもらったの。最初、生まれる前にコンタクトしようとしたのだけど、あなたの魂は殻の中に閉じこもって、何も聞き入れてくれなかったのよ』
「……そう、ね。そうだった、かも」
あたしの親友の月宮有栖を車で殺した犯人が、自分の母親だったことがショックで。
もう、有栖は生き返らせないのに。
『早速で悪いんだけど、わたしからのお願いよ。この世界を救って、お願い。滅亡が迫っているの。協力してくれたら、あなたを幸せにするわ』
「ほんとに?」
あたしは疑り深いのだ。
『ええそうよ。手始めに、あなたの環境は劇的に変わる。もう下層民ではない。大貴族の庇護を受け、魔法の才能を伸ばすこともできる。生活の苦労はないわ』
そこで言葉を切った女神は、
『あなたがもっと早くわたしの声を聞き届けてくれたら、生まれ出る瞬間から、恩寵を授けられたのに』
残念そうに言ったのだった。
「世界を救うなんて、あたしが前世で読んでたファンタジー小説みたい」
興奮してきたわ。
「エルフとかドワーフとかホビットとかユニコーンやドラゴン出てくる?」
あんまり食いつき過ぎた?
女神様が、くすくす笑ってる。
『そうね。エルフという名前ではないけれど。精霊族、またはセレナン族と呼ばれている種族が、近いわね。ドワーフねえ。エルフの近くに住んでいるわよ。。ホビット…森の種族が、近いかな?』
本気で考えてくれているようだ。いい人だな。
『ところで、転生する目的を伝えておくわね。あなたはそこで、大切な存在を取り戻すの。詳しくはまだ言えないけれど。ともかく、がんばって生きてね。それが世界を救うことになるのよ』
ではそろそろ、目覚めのときね、と、アエリア女神は、微笑んだ。
『また会いましょう。紗耶香。ものすごく困ったときは、わたしに呼びかけて。できるかぎり、助けてあげる』
にっこりと微笑んだ。
それは、あたしの心の中を、優しくあたためてくれた。