第5章 その12 過去の記憶(皇帝ガルデルの絶望と儚い希望1)
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……たすけて。
かぼそい声が、聞こえた。
幼くて愛くるしい……
この声に聞き覚えがある。
「おねがい、クイブロをころさないで。たすけて。なんでもするから」
待って待って!
ダメなんだから!
なんでもするなんて、言っちゃダメなの!
どこでだれが聞いているか知れないのよ!
ものすごく焦って、あたしは目を開けた。
あたしはアイリス・リデル・ティス・ラゼル。
どうなっているの?
確か、お正月の食卓に歳神さまとカルナックさま、コマラパ老師さまがいらしてて、そこへやってきたお客さまがあったの。
銀髪の美青年かと思ったんだけど、人間ではなかった。
ドラゴンだったのです。
ルミナリス山脈、白き女神の座レウコテアに住むと名乗った、銀竜さま。
ふしぎなことに、
初めてお目にかかったはずなのに、すごくよく知ってる気がして……
突然、忘れていた記憶がよみがえったのです。
一ヶ月くらい前。
魔道士協会から派遣されたトミーさんとニコラさんに、我が家に設置して貰った転移魔法陣を、あやまって起動させてしまった事件があった。
目的地が設定されてないまま起動した転移魔法陣に、トミーさんとニコラさんはもちろんのこと、居合わせたあたし、サファイアさんとルビーさん、カルナックお師匠さまが巻き込まれて、全員、なんだか奇妙なところへたどり着いてしまったらしい。
あたしの場合は、今にして思えばどこかの山の中腹にある村で、民族衣装を着た、感じのいい人たちが、ごきげんで宴会をしていた。村長の息子さんの披露宴だって。
その村は、精霊の森の中にあった。
精霊に許されたものだけが、入れる場所だった。
なのに……
※
「死なないでクイブロ」
金髪の男の子を抱きしめて、けんめいに叫んでる、幼い女の子。
あたしは知ってる。
三つ編みにした、長い黒髪。真っ黒な目、色が白くて妖精みたいに華奢で可愛い子なの。
以前、転移魔法陣の誤作動で、この村に迷い込んだあたしを「アイちゃん」って呼んで歓迎してくれて、行くところがなかったら養女にならないかって言ってくれた、優しい子。
ローサさんっていう村長さんの末っ子のクイブロくんと結婚披露宴だって、すごく幸せそうだった。
ルナちゃん!
いったいなにがあったの!?
どうして、あのきれいな民族衣装を着ていないの?
身につけているのは真っ白な、薄いワンピースだけ。それも、血に染まっていて。
「おねがい……ころさないで。クイブロを、村のみんなを」
炎が空高く噴き上がった。
地面が割れて、亀裂から真っ赤な溶岩が流れ出てる。
これが……あの、すてきな、楽しそうだった、村なの!?
暗い夜。空には青白い真月が、半分に割れたような姿で、さえざえと光ってる。
いっぱい、人が倒れてる。
だれも、動かない。
ルナちゃんだけが、かぼそい声をあげていた。
抱きしめているクイブロくんは……動かない。たくさん血を流しているのはわかった。
「おねがい。たすけてくれるなら、なんでも、するから」
必死の懇願をかき消したのは、誰かの、笑い声だった。
さも楽しそうな。
豪快な、哄笑だった。
「良い良い。確かに聞き届けたぞ。この村が滅んだのは愚かな人間のせいだというのに、それでもヒトを見捨てられんとはのう。さあ、レニ。戻ってこい。おまえがもともといるべきなのは、この、我のもとなのだ!」
立っているのは、大男だった。
体格がいい。肩まである金色の巻き毛が、黒光りのする甲冑の背中に降りかかっていた。
手にしているのは、巨大な剣。
男が、近づく。
どうしてなの!?
あたしは視ているだけで、ルナちゃんの側に行ってあげられない!
「……ひっ」
小さく、息を呑む、ルナちゃん。
「伴侶だと? 笑わせる。偽りの幸福、偽りの居場所など、棄ててしまえ。思い切れ。そなたは我のものなのだからな。こんな田舎での暮らしはうたかたの夢。さあ」
男が手をのばす。
「その少年を助けてほしいのだろう。いうことをきけ。昔のように」
男が剣をふるう。
ルナちゃんの白い衣が切り裂かれる。
肌も切れたのだろう、細い血の筋が、流れた。
青白い月の光に照らされた、ルナちゃんの白い肌には、無数の傷跡があった。
浅く切られたのだろう。白く浮き上がる傷跡は、新しいものではなかった。
うっすらと、けれど消えることなく残された、傷跡。
新しい傷からは、新しい血が流れ出ている。
「はははははは! そなたは美しい。その血も、傷も、涙も。我のものだ。これからもずっと、未来永劫に」
「ずっと?」
表情のない虚ろな黒い目で、ルナちゃんは、男を見上げた。
「我は不老不死。ともに永遠の命を生きようぞ。本来なら、この村はつぶしてやりたいところだが。そうだな、そなたへの人質として使えそうであるから、活かしておこう」
男は尊大に言って、ルナちゃんの、残った衣服に手をかけようとした。
吐き気がこみ上げた。身体じゅうが熱くなった!
『この変態クソおやじ! ルナちゃんから離れろっ!』
あたしは叫んだ。
自分でもびっくりするくらい大きな声で。
そうしたら、初めて、声が届いたみたい。
男は振り向いた。
そして、驚いたように目を大きく開いた。
ほんとうに、
残念な美形だわ。
整った顔立ちは、ハリウッドスターみたい。
なんか筋肉も裏切らない感じに鍛えてそう。
『初めて思ったけど、ムダな美形とかあるんだね』
あたし、すっごく腹が立ってる!
女の子の服を切るなんて!
変態!
「む? なんだ小娘。……影がうすいぞ。この『分岐』では、まだ存在を確定していないのだろう。我は忙しいのだ、邪魔をすれば幼児だろうが容赦せぬ」
『あーあ、残念なおっさんね』
そのときになって、足がようやく地についた。浮かんでいたんだって、やっと気づいた。
そして、あたしは。
子供の姿ではなかった。
大きい。少なくとも、ルナちゃんより大きくて、男の胸くらいまでは、目線が届くから、成人女性の体格だ。
……これってイリス・マクギリスだわ。
彼女は二十五歳で、けっこうジムに通って鍛えてたって言ってた。
まあ、転生前のことだけどね。
大きく息を吸って。
声の限りに叫んだ。
『その子は、あたしの大事な友だちなの! 離しなさい! ロリコン!』
あたしは拳を握る。
手首から、青い光があふれ出す。
「な! なんだそれは! 精霊石……!!! バカな、そんなものは、存在しないはずだあ!」
『ふふん。悪かったわね、あたしは、規格外なの!(いつでもじゃないけどね)』
きっとこういうときのために。
イリス・マクギリスは、拳を鍛えていたんだ。
ふしぎだけど拳のなかにエネルギーが集中してくことが、自分でも、わかったから。
ありったけの力を拳にこめて。
叩きつけた!