第4章 その33 フィリクスとグラウケー
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それは、至上の美だった。
資源に恵まれているエルレーン公国においても、とりわけ希少な未知の鉱物『精霊白銀』でつくられた腕輪の中央に、青い光を表面に浮き上がらせている『精霊石』があしらわれている。
「さあ、腕輪をはめてごらん、ルーナリシア。フィリクス」
カルナックが手ずから渡した腕輪を、フィリクスはいったん、頭上に高く掲げ、それからおもむろに、銀の腕輪を手首に通した。
ルーナリシア公女も同様にした。
二人が装着すると、腕輪にはめられた精霊石が、青白い光を放った。
光はあふれ、滝のようにこぼれ落ちる。
すると『精霊火』がどこからともなく出現して、光に浸かり、浮かび、ふよふよと漂い始める。
貴族達に動揺が広がった。しかし彼らは貴族である。自分を律することを知っていた。それでも『精霊火』が近づいてくれば、恐怖に足はがたがたと震え、立っているのがやっとのありさま。
「恐ろしい……なんと恐ろしい人を、我々の公嗣は、愛人としたというのか……」
大公の信頼する側近である、宰相でさえ。
思わず心の内を吐露してしまったのである。
この年の年末に開催されたフィリップ大公の晩餐会は、歴史に残る伝説となった。
※
恒例であった年越し宴は、形骸化して久しいと思われていた。
エルレーン公国は交易は盛んで産業も発展、大陸全土でも有数の繁栄を享受している国だが、レギオン王国から見れば、もともとは分家である。
フィリップ大公は凡愚で、お飾りの国首。
それが、貴族たちの共通認識だった。
しかしながら大公妃セシーリアは、一筋縄ではいかない。
エルレーン公国とレギオン王国に挟まれた場所に、完全なる自治権を有したエル・スール・アステルシアの領主でありながら、大公妃となった傑物。
彼女が嫁いでくるまではレギオン王国辺境伯という位置づけだったが、現在ではレギオン国王並びに諸国も彼女を一国の女王に等しい待遇で接する。それほどの才覚を持つ『女傑』であった。
側近、宰相、上級貴族ほか、他国から送り込まれ、あるいは有力貴族の出自である側妃たち、どの陣営も大公妃を取り込むことも操ることもできなかった。美辞麗句を並べ擦り寄ろうとも効果はない。
となれば。
彼女の怒りをかわないように留意するしかない。
さまざまな口実をもって行われる宴会のたびに、招待を受けて参加を許された貴族たちの多くは、保身のための情報収集、腹の探り合い、社交辞令に潜ませた悪意の応酬を繰り広げていた。
そんなおり、この年の年末の晩餐会は、これまでにないほど大規模に開催された。
貴族たちにとって、最も理解できなかったことの一つは、大公の庭園が一般大衆に開かれ、市井の民たちをもてなすために料理が用意されていたことだった。
実は、これは以前、カルナックが大公妃セシーリアに要求し、約束させたことだった。
カルナックの言葉を借りれば、街の片隅の貧民に至るまでみんなに「お腹いっぱい」になるように大規模な施しの宴会を行うこと。
その席でカルナックはフィリクス公嗣の公的な愛人として流布し、フィリクスの妹姫ルーナリシア公女に精霊石の腕輪を贈る形にするつもりだと。
約束通りに、大公主催の年越しの宴が大規模に開催されたとき、現れたカルナックは魔道士協会の長として公嗣の後ろ盾につくことを宣言し、さらに精霊石の腕輪を、ルーナリシア公女ばかりでなくフィリクス公嗣にも贈ったのである。
集まった貴族達は驚きの声をあげた。
エルレーン公国のみならず、大陸中を探しても、精霊石を与えられた人間は、前例がない。
前例がないといえば、カルナックが広間の高い天井に届くほどの、銀色に輝く『精霊の樹』、高貴なる鈴の音を響かせるシンギングツリーを出現させたことも、である。
これは世界の始まりのときに精霊と約束を交わした『始まりの千家族』にしか現れないものだ、ということを、誰もが知っている。その『千家族』は時代が下がるとともにしだいに数を減らしており、ここエルレーン公国首都シ・イル・リリヤにおいては、大陸全土に名高い豪商、ラゼル家のみであるという。
であるからラゼル家は、身分こそ平民でありながら、その存在の重要さは、各国の王族にもひけをとらないのだった。
※
ところで、その場の主役に躍り出てしまったフィリクス公嗣は、懸命に笑顔を保って、毅然と立っていた。
さすが公嗣である。
大公も大公妃も毅然としていた。
側妃とその公子公女たちが『精霊火』に脅えているさまとは、対照的だった。
貴族達も、大公夫妻と公嗣への評価を大いに上げたのだった。
しかし腕輪をはめて無邪気に笑っているルーナリシア公女をのぞいた大公一家が、このとき、内心では血も凍る思いを味わっているとは、誰が知ろう。
何しろ、かの有名な『漆黒の魔法使いカルナック』がフィリクス公嗣の公的な愛人になるという爆弾宣言が行われたのだ。
しかも宣言したのは、カルナック本人ではない。
郷里(精霊の森)のいちばん偉い人……第一世代の精霊であるグラウケーが、カルナックそっくりに姿を装い、代理で出席したのである。
見た目こそカルナックそのものだったが、中身がまるで違う。
側に立っているだけで冷気が伝わってきそうなのだ。
ルーナリシア公女に対しては、ずいぶん、優しげに接しているのであったが。
ヒトなど歯牙にもかけていない絶対的な君主。
至高の存在たる『精霊』。
ちょっとでも機嫌を損ねたら最後、その人物はこの世界から、文字通り、消滅する。
どうか貴族達が動揺のあまりに妙な言動をして、精霊グラウケーの怒りをかいませんようにと、フィリクスは祈るばかりだった。
(なんでこんなことに! カルナック様! 早く来てください~!)
※
「なんて、思ってるんでしょうね、彼は」
「ラゼル邸の宴が終わらないと来られないわ。それに今更よ……気の毒に」
ルーナリシア公女のお世話をしている精霊キュモトエーとガーレネーは、公女のよき兄、フィリクス公嗣に好感を持つようになっていたのだった。
「まあ、大丈夫よ……」
キュモトエーは、あやふやに呟いた。
「だって今夜は年末のカウントダウンっていうのでしょ。新しい年は、きっと、いい年になるわよ」
「……たぶん、ね」