第4章 その24 システム・イリス、起動する。
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たった一つ、手の中に残った希望。
お守りだよと、カルナックお師匠さまが渡してくださった。
小さな銀の鈴を、あたしは振った。
「お師匠さまっ!」
思わず叫んだ。
その瞬間。
鈴が、奪われた。
四歳と八ヶ月の幼女アイリス、つまり、あたしは。
襟首をつかまれて身体が宙に浮いた。
銀髪にアクアマリンの瞳をした大柄な女神さまの、満面の笑みを浮かべた顔が間近に迫ってきた。
「カルナックを育てた精霊、ラト・ナ・ルアが与えた守り鈴か。カルナックが、ヒトの子にこんな大切なものを分け与えるとは、とうてい信じがたいが。ますます、興味深い……」
女神の声が、しだいに大きくなっていき、耳を塞ぐほどになる。
もはやそれはヒトの声ではなく、音ではなく、音波でもなく。
心臓を掴んで揺さぶる、振動、そのもの。
異質な、コード。コマンド。
『無垢な幼子なるアイリス・リデル・ティス・ラゼル。月宮アリス。イリス・マクギリス。そして……無意識の底で未だ覚めない魂。そちらが本体か……? そうか。おまえの名は。システム・イリスというのか……』
女神が、名前を紡ぎ終えた。
細い銀色の鎖が、幾重にも、網となって、覆い被さってくる。
とらえられてしまう!?
「やめて!」
『我のコレクションに加えてやろうぞ。光栄に浴するがいい』
銀色の檻に、閉じ込められる……
意識が、薄れていく……
(おねぼうさん、イリス。こんなところで、眠っていてはダメ。……モルグで眠ると、怖い夢に、とらわれてしまうわよ)
混濁していく意識の中で、とても、とても懐かしい声を、聞いた。
わかっている。
女神の《檻》に閉じ込められて、混濁する記憶の中から、浮かび上がってきた音声記録なのだろう。
でも、あたしがいちばん聞きたかった、声だ。
アイーダ。
あたしはまだ、転生してから、あなたに会ってない。
だけど、なぜだか、きっといつか、再会できるような気がしている。
そのためには、いま、ここで、檻に囚われるわけにいかない。
……起動条件が満たされた。
……深層意識の底から、起こされる。
システム・イリスの意識が。
アイリス・リデル・ティス・ラゼルの体の支配権を得る。
(起きて。……イリス……)
……あたしはシステム・イリス。
視点が上がる。
熱量が、ぐぅんと増える。
目を閉じた。そうしないと、目がくらむ。
全身全霊で、叩きつけるように声をあげる。
「あたしは、あたしの魂を、誰にも渡さない!」
叫んだ瞬間。
『よく言った、アイリス』
カルナックお師匠さまが、おっしゃってくれたような気がした。
優しい手が、ふわりと髪を撫でて。
……懐かしい誰かを、思い出す……あたし、システム・イリスは。
「お師匠さま?」
目を開ける。
銀色の檻を作り上げている鎖が、ふつふつと、切れて、落ちていくのが、見えた。
圧倒的存在だったはずの、《世界》は。女神さまの姿は、そこにはなかった。
ただ、銀色の、広大な海が。
茫漠と、たたずんでいた。
はああ。
吐く息が白く、周囲に漂う。
とても、寒い。
足もとには水面。
そこに映っている、あたしは。
豊かな金髪が波打って肩をすべり落ちて腰を包み、足首へと流れる。
ノースリーブで、ふくらはぎまで包み込む白いシルクサテンのドレス。
アクセサリーは、手首にはめた、カルナックさまに頂いたブレスレットだけ。
そして、素足で立っている。
カルナックさまの、ように。
あたしは手首を見る。
女神によって巻き付けられた銀色の布が、ブレスレットに嵌め込まれている『精霊石』と『黒竜の鱗』を、すっかり包んで覆い隠しているのだ。
銀の布に触れる。
包帯みたいにきっちり巻かれている。
「アーくん! アーテル・ドラコー! 応えて!」
呼びかけながら、手をあてて、撫でてみた。
すると……包帯の内側から、光が漏れてきた。
強く、青白い光だ。
やがて、銀色の布が、ほろりと崩れて。
溶け落ちた。
『やった! すごいぞアイリス! 《世界の大いなる意思》の束縛を、自力で解くなんて!』
アーテル・ドラコーの声がした。
続いて、手首から、まばゆい光が、あふれ出す。
透き通った光が、ブレスレットにはまっている『精霊石』から、流れ落ちているのだ。
やがて精霊火が周囲に集まってきた。
精霊火は渦を巻いて固まっていき……そこに姿を現したのは、一人の、少女だった。
年の頃は、十四、五歳。
銀色の長い髪、薄青い瞳。
まるで《世界の大いなる意思》そのものである女神にさえ、ひけをとらないような美貌の。
『あたしはグラウケー姉さまが選んだ、あなたを守護する『精霊石』よ。ふだんはこうやって姿を現すこともないのだけれど。ここは《この世界》のコア、深層部だから。あたしたちは、意識そのままの状態で、ここにいる。だから、あなたもアイリスではなく、システム・イリスの姿で出現している』
「そうだったの……」
『だけど、ここに長くいてはダメ。……モルグみたいな場所だから』
ふいに胸を突かれる、システム・イリス。
これはキーワードだ。
アイーダが、昔、言っていた。
『あたしがカルナックのところへ連れて帰ってあげるわ』
「あなたは、お師匠さまの居場所がわかるんですか」
『そうよ。あたしは、あの子がどこにいてもわかるの。さあ、帰りましょう。あなたのいるべき場所へ。そして、システム・イリス。安心していいわ、もうしばらくは、お休みなさい。アイリスの中で。いずれ、年月がたてば、あなたたちは自然に融合していくのだから。お眠りなさい……』
張り詰めていた緊張がほぐれ、あたしは、身体の力が抜けていくのが、わかった。
ただ、気にかかったことを、口にしていた。
「お礼を言いたい……精霊石さん、名前を教えて……」
『ああ。あたしは……』
精霊石が囁いた、その名前を。
記録したのは、システム・イリスだけだった。
アイリスにも、月宮アリスにも、イリス・マクギリスにも、覚えていることはできなかった。
世界の深層部から抜け出るために、アイリスは『精霊石』に宿る美少女と《壁》を通り抜ける。……それは転移魔法陣の働きに、とてもよく似ている……
その過程で、気圧の変化に晒され、記憶のいくらかは抜け落ちてしまう。
『お休みなさい、システム・イリス。成人を迎えるまでの間に、あなたが目覚めるときは、アイリスの身に危険が及ぶときだわ。だから、ゆっくり休んで、癒やしてね……』