第4章 その18 into the dark ※ 流血注意 ※
18
月のない夜。
ひっそりと闇に沈む、とある中庭。
時が巡れば、その全貌が、真月の透き通った光に照らし出されるだろう。
だが今はただ、影の中。
しばらくして中空にのぼってきたのは、暗赤色の小さな月。
魔の月と、世間に恐れられる『魔天』である。
その光は赤みを帯びて、真月に比べれば光量は半分以下。
だが『魔天』の暗い光は、闇に潜んでいたものを照らし出す。
晩餐のさなかに中断されたかのように思われる、壮絶な光景を。
いくつものテーブルや椅子が倒れており、テーブルクロスが、銀の食器が、盛り付けられていた豪勢な料理ごと地面に落ちて、血飛沫に濡れていた。
テーブルと椅子のあいだに、転がっているものがある。
おびただしい、人間の死体だった。
年寄りも、男も、女性も、子供もいた。
どれも、おびただしい血でできた海に浸っていた。
いたるところに血だまりができて、ぬかるんでいた。
血まみれの死体が累々と転がっている。
どの死体も、まともな状態ではなかった。
切られ、突かれ、刻まれ、あるいは逃げ惑うところを追われて殺されたものか。
さまざまな体勢で倒れ伏していた。
その庭の中央の、池のほとり。
白い岩の上に、幼い子供の死体が横たわっていた。
手足は細く、やせている。
まっすぐな長い黒髪が、さらさらと岩の上にひろがっている。
整った美しい面差し。
血の気が失せた、透き通るような肌。もともとの白さに加えて、生まれてこのかた、外の日光を浴びたことは、ほとんどなかったからでもある。
子供は、何かを右手にしっかりと握っていた。
小さなぬいぐるみの、残骸だ。
焼け焦げていて、残っているのは白い毛に覆われた前足の片方だけ。
子供はそれを、アイちゃん、と呼んで、動物を飼うのを許されなかった代わりのように、かわいがっていた。
戯れに取り上げられて暖炉に投げ入れ焼かれていたのを、自らが火傷を負うのもかまわず飛び込んで救い出した。片方の前足だけでも残った、それを。愛おしんでいた。
それすらも、すべては水泡に帰すのだろう。
惨劇の館も、いずれは人の手が入り、あとかたもなく消されるのだろう。
しかし、そのとき奇跡は起きた。
どこからともなく、成人の頭ほどもある青白い光の球体……精霊火が出現したのだ。
精霊火の大群が子供を取り囲んで、埋め尽くしていく。
そして、ついには。
子供に群がっていた青白い精霊の火の中程に、銀色の光の粒が集まり、かたまって、形をなしていく。
銀色の渦の中から現れ出でたのは、二人の、人間の姿をかたどった、なにものか、だった。
長身の、美しい青年。人間の年齢にあてはめれば二十歳ほどであろう。
そして今一人は、十五、六歳と見える、可憐な美少女だ。
どちらも、光の滝を思わせるほどに青みを帯びた銀髪を長く垂らし、瞳は淡い水色をしていた。
青年が、固い声を出した。
『私はセレナンの、この世界の大いなる意思によって生み出された、新たなる精霊の眷属である。レフィス・トール・オムノ・エンバー』
少女が、ぎこちなく、言葉を紡ぐ。
『わたしは、ラト・ナ・ルア・オムノ・エンバー。世界の大いなる意思の代行者として、この地に存在を許されたものである』
そして、二人は、横たわる子供のそばに、屈み込んで。
少女は、
『なんて美しい魂の輝きだろう! 愛さずにいられようか』
『この子は、ヒトに殺され、捨てられたのだ。だから、もう、我々、セレナンのもの。世界の大いなる意思より委ねられた、われわれ兄妹の使命だ』
『そんな、使命なんて言われなくても関係ないわ、兄さん! あたし、この子を守りたい。かわいがるの。いとおしくてたまらない。残酷で醜いヒトの世界になんて帰さない。誰にも渡さないわ!』
ふしぎなことに、兄と妹と名乗った二人の精霊たちは、しだいに、流暢に言葉を紡ぐようになっていく。
まるで、黒髪の子供を愛するほどに、人間に近づいてでもいるように。
『さあ、行きましょう。あたしたちの、大切な弟』
『ヒトがつけた名前など、捨て置いていこう』
『きっと、この子は、自分で、名前をつけるわよ。新しい、生きていくための名前をね』
精霊の兄と妹は、黒髪の子供を抱き上げ、優しく微笑んだ。
『これからは、ずっと私達と一緒に、精霊の森で暮らすのだ』
※
「……私はまた、ここへ帰ってきてしまった」
闇の中に佇む長身の人物『影の呪術師』がつぶやく。
「全ての始まり、あるいは全ての終わりに」
※
「カルナック! それはただの、過去の記録だ。今更、変えられるもんじゃない。感傷に浸ってる場合じゃないぞ!」
傍らで声を上げるものがいた。
「おまえの弟子たちが、危機に陥っている。それぞれの、それなりの戦いに向き合っている」
声変わりもしていないような、幼い少年の声だ。
振り向かなくても、カルナックには、それが誰なのか、わかっていた。
「なぜ私に力を貸してくれるんだ。黒竜。おまえはイル・リリヤ直属の『色の竜』なのだから、私に肩入れする理由などないだろう」
「えー? わかんない。同じ黒髪で黒い目で、子供だし。それに」
くすすっ、と。
今は少年の姿をした、黒竜は、屈託なく笑う。
「ぼくは退屈だからさ。それは、カル坊も、いっしょだろ?」
「その呼び名はやめろ」
カルナックは、眉をしかめた。
「あっ、そうだったね。これは兄さんと姉さんの呼ぶ愛称だったもんね~♡ ……レニ。時には《世界》に、抗わないと。大事な弟子も、守れないよ?」