新世界より
「麗奈さん、あなたは、あなたはどうして……?」
今から十七年前、私は当時報道ジャーナリストを生業としていた夫、松本新作のサポートとして、国際問題にまで発展してしまったある不正企業買収事件を取材していました。その事件の内容とは、世界の経済界でも五本の指に入り日本を代表する大財閥、奥井グループがモータースポーツ界に参戦している二輪車生産企業や部品生産工場を次々とその絶大な財力により強引に傘下に収めるといったものでした。
しかも、その買収行為に反対し抵抗した企業の社員やチームスタッフ等は労働条件の不遇や大量解雇などの憂き目に合わされ退職者や失業者が相次ぎ、それにより企業や工場も人材不足になり経営不振や資金運営に支障が発生し、車両の開発や部品の生産も追いつかなくなり競技参戦の目処が立たなくなってしまったのです。
そして遂には国際サイクリズム連盟こと略称『FIM』が主催をするロードレース世界選手権、通称『Moto GP』の開催が極めて困難となり、あわや当時四十年近くの歴史を残していたこの大会そのものが全面廃止され消滅する寸前まで追い込まれてしまったのです。
それまで主に宗教対立や社会問題等で国際紛争に陥った戦場の前線を取材の場として、戦争の愚かさと人命の尊さを『情報』と言う形で世界中の人々に訴え続けてきた夫の新作が、なぜこの様な良くありげな大財閥の強行買収劇程度の騒動に首を突っ込み取材をし始めたのか、私は当初いまいち理解出来ませんでした。
しかし、この事件の真相を調査し真実を知れば知るほど、私は身の毛のよだつ恐怖心と嘔吐をもよおす様な嫌悪感を覚えました。そこでは私が夫が世の中で最も忌み嫌う人間の蛮行である人権の無視や自由の剥奪などが横暴な力によって平然として行われ、そして悪銭と権力欲にまみれた澱んだ渇望と恐ろしく陰険な私怨が蜷局を巻き牙を剥いていたのです。
この騒動全ての始まりの原因とは、奥井グループの二代目総裁に君臨する奥井幹ノ介氏と、当時ロードレース世界選手権中型排気量クラスの歴代最強王者と呼ばれた渡瀬虎太郎氏との、互いの母親により運命づけられた複雑な出生の秘話と、互いが背負ってきたこれまでの波瀾万丈な人生経緯に関わる一つの遺恨がもたらしたものでした。
一個人同士のものだけであった怨恨は次第に熾烈を増し、いつしかお互いが身を置く生活や職場、その周囲の人間達をも巻き込む凄惨な集団対立へと発展、拡大していき、遂にはその騒動の中で失望の挙げ句に自ら命を絶つ者や、海外ではその対立が原因と思われる残忍な殺人事件までもが発生してしまったのです。
騒動の渦中の人々の道徳心と秩序に欠けた数々の行為が問題視され、世界中の経済事業にも悪影響を及ぼし、ただの企業買収騒動では済まなくなってしまったこの事件は今現在でも『日本を舞台にした二十世紀最大の大スキャンダル』として世界中の人々の脳裏にその醜名を深く刻み込まれています。
騒動の片方である渡瀬氏と幼少期から生活を共にし兄弟当然の様な深い交流があった夫は、正論を訴える彼を信頼して援助する為に当時まだ最新鋭だった様々なIT技術やメディア関係者との友好関係を駆使して情報戦の指揮を執り、世界屈指の情報網を展開する奥井グループに対抗しました。
私も夫の力になる為に自らの身の危険を承知の上でグループ内関係者との取材の密約を取り、それによって得る事が出来た貴重な情報を元にして、この騒動に隠された醜状な真実をまとめた告発本を執筆しました。そして、この本の世に出す為に協力して下さった勇敢な出版社とNGO団体が用意してくれた出版会の会場で、私は奥井グループが行った愚行の数々を改めて公の場に告発し彼らと共に戦ったのです。
私達夫婦を含めた反奥井支持者と被害を受けた各モーターサイクルスポーツ関係者達によるそれらの必死の活動と嘆訴に共感して下さった人々は私達と共に立ち上がり、当初この騒動に対して無関心だった人達まで一丸となって世論は一気に奥井グループ批判の声へと傾いていきました。
そして、国際裁判の場までもつれ込んだこの騒動の決着は、グループ内部からの告発や奥井幹ノ介氏直々に共謀を持ち掛けられた風間貴之氏の勇気ある証言が決定的な証拠となり、裁判所から正式に『奥井グループの不正買収における商業市場独占禁止法違反』いう判決が下され、私達は絶大な財力と権力を振るい悪道の限りを尽くしてきた巨大財閥から完全勝利をこの手に掴み取ったのです。
しかし、それでもまだこの因縁の対決が終焉を迎える事はありませんでした。改めて結束を固め体制を整え始めた奥井グループは、対モーターサイクルスポーツ界への参入計画を企業買収による強行侵略から、資金と開発技術を提供するスポンサー活動へと方向転換をして、奇しくも敵対していた渡瀬氏が所属していた参戦チームとの共同経営の商談を持ちかけてきたのです。
勿論、散々奥井グループによって苦しめられてきた関係者達は誰一人その話に賛同する者はいませんでした。この商談の本当の目的は、奥井氏がグループ内の派閥分裂や自身の権力や地位から失脚するのを恐れて起こした茶番劇。最後の醜い悪あがきだという事はもう誰もがわかりきっていました。
そこで、私達はこの騒動の終焉と奥井氏の失脚、そしてこの忌まわしき因縁を後々の世代まで遺恨として残さぬよう完全なる終止符を打つ為に一世一代の大奇襲に打って出たのです。
それが、今から十七年前の夏至の頃に決行された『民間における国内史上最大のクーデター』と言われた大事件。都内の最高級ホテル内で行われていた奥井グループの株主総会に向けて、私達関係者や共に立ち上がった支持者達が集合し一斉に会場へと押しかけた『一万五千人』による大デモ行進です。
そして、その行進の先頭に立ち私達を率いた人物こそが彼女、当時まだ渡瀬氏と入籍する前の旧姓、滝沢麗奈その人だったのです。
彼女は女性、しかも二十代前半という若さながら渡瀬氏や風間氏が所属していたオフィシャルチームの代表兼開発エンジニアの中核を務め、長年その敏腕を振るってチームを何度も栄光に導いてきた脅威のキャリアウーマン。私が彼女の存在を知り初めて出逢ったのもその時の事でした。
奥井幹ノ介氏と腹違いの妹である伊織さんの実の娘であり一族の血が流れている彼女には、本家の当主である幹ノ介氏と同等のその莫大な財産を相続する権利を所有していました。この話は古くに先代の後妻と正式な後継者であった幹ノ介氏との対立により生まれた奥井家にまつわる遺恨の一つで、例の騒動により経営方針に相違点が見え出し亀裂が起こっていたグループ内では幹ノ介氏から彼女を支持をしようとする動きがあったそうです。
そこで、幹ノ介氏は伊織さんとその夫である滝沢氏の遺言を守り奥井家と距離を取っていた彼女に対して、渡瀬氏との完全和解と好条件の契約内容によって財閥の経営首脳陣の一員として改めて一族に迎え入れ、くすぶり出していた派閥分裂の危機回避と自らが持つ経営権の存続を実現させようと目論んだのです。
しかし、彼女はその場にいた一万五千人のデモ参加者と総会に訪れていた招待株主五百人、そして因縁の相手である幹ノ介氏の目の前で毅然とした態度で惜しみも無くその権利を破棄してみせたのです。その姿と発言は私の夫の情報で会場に詰めかけていた各報道陣により各地にリアルタイムで中継され、全世界の目撃者がその証人となったのです。
彼女のその勇ましい決意表明により、公然の前で名誉挽回の機会を失い遂に万策尽き果てた幹ノ介氏は還付無きまでに失意のどん底へと叩き落とされ、経営権を首脳陣に委譲して信頼を回復させ奥井グループ名誉会長として再び復帰するまでの十数年の間、華やかな表舞台からその姿を消したのです。事実上の失脚、日本経済を盛況させ牛耳ってきた風雲児の歴史はバブル経済の終焉と共にその最期を迎えたのです。
そして、続けて彼女は会場に詰めかけた人々やテレビ中継の画面も向こう側にいる全地球上の人類に対し、この様な惨劇を再び繰り返さない為に、飽食の時代に依存し大切なものを失いつつあった私達に人間としてのあるべき姿を取り戻させる為に、高らかと、そして堂々と、確かな理念と熱き意志を持ってこう言い放ったのです。
『頂に立ち人々を牽引する指導者達よ、集団を統治し人々の生活を保護する責任者達よ! 今こそ己自身の姿を見つめ直し、自我と自覚に目覚める時がやって来たのだ! 私欲や雑念を切り離し、他を尊重し尊敬し、そして自らも他から必要とされる孤高な存在を目標とせよ! その志こそが世界を平和と安泰の時代へと導き、今の我々が新たな世代を生きる子供達に与えてあげられる真の愛情なのだ!!』
彼女のこの言葉は世界中のメディアや学会の場でも話題の中心となり、各地で秩序に対する概念や人間の本能と理性についての熱い討論が交わされる様になりました。奇しくも、当時の日本経済はバブル崩壊により不況の嵐の真っ只中。株価暴落より弱体化した日本市場は次々と外資系巨大企業の財力に屈し侵攻され、『経済大国日本』の信頼と権威は地の底へと落ちてしまう寸前でした。
しかし、彼女のこの言葉をきっかけに財力を武器に株式を大量買収して強引に経営権を奪い取っていく大企業の利益最優先の戦略スタイルに対して世界中で様々な疑問の声が上がり始め、次第に経済界の流れは侵略を目的とした敵対的買収から、苦しむ者達へ救いの手を差し伸べ互いの共存を図る資本提携合併の流れへと変化していったのです。
また、先の未来を絶望視していた日本のビジネスマン達もあの彼女の言葉を聞いて自信を取り戻して立ち上がり、一時期は倒産、破綻寸前だった各企業は不況のどん底から次々と復活を遂げ、日本の経済界は最盛期とまではいかないものの再びその活気を取り戻したのです。
勿論、日本の経済回復は政府の政策や各企業の運営改善、それに携わった人々の努力により達成されたのは確かです。しかし、この時の彼女の一喝と勇ましい佇まいは多くの人に自信と勇気をもたらし、復活を遂げる為のカンフル剤になったのも事実なのです。
平和と安泰を手にした人々は自然にその幸福が永遠に続く事を願います。世界情勢も長年緊迫状態が続いていた東西冷戦が終焉を迎え、人々は対立から共存、互いを支え合い共に生きていく平穏な環境を求めるようになりました。
各国が利益優先で技術を競い合っていた産業開発のあり方に対しても抜本的な見直しが施され、母なる大地である地球を愛しみ温暖化対策や環境汚染について世界中で積極的な会議が行われるようになりました。人々は自分自身の生活、人生を再度見直し、改めて命の大切さを学ぶ様になったのです。
しかし、平穏はいつの世も人の心に怠慢を生み出していまうものでもあります。時代は安泰の時からまたも人々の対立や差別により起こってしまった愚かな争いで混沌の渦に呑まれかけ、今まさに暗黒の時代へと突入しようとしています。
アメリカで起こったあの同時多発テロ事件をきっかけに資本主義国とイスラム教主義国による対立は激化して、今もアジア中東近辺では憎み合う必要の無いはずの人間同士が銃を取り、各地で戦争が繰り広げられ続けています。
毎日の様に何十人もの死者が出て、中には未来に無限の可能性が望まれる若い命達までもがその身を犠牲にして自爆テロ行為を行う。まるで地獄の様な惨状の中で人々は疲労し、苦悩し、銃弾と悲しみの涙の雨は一向に止む気配がありません。
そして、一度起こってしまった争いと過ちは限られた地域だけでは収まらず、世界中に悪の連鎖を引き起こします。一つの歪みはそこを中心にして世界の平和と秩序のバランスに亀裂を起こし、各地でも様々な不安と混乱を生み出してしまっているのです。
開発先進国と途上国との経済摩擦問題も解決せずに悪化の一途で、現在世界中では急激な産業発展により自然環境は破壊され、そして深刻的な資源不足に陥っています。それどころか、まだ地域によっては貧困で食糧難に苦しむ国や自由や教育でさえもまともに与えて貰えない人達もいます。そこに追い討ちをかける様に今日大問題視されているアメリカを中心とした経済大不況の大津波。
次々と世界に歪みを生み出していく悪しき螺旋の渦は空を覆い尽くし、人々から希望の光を奪い去ります。絶望した人々は人生の露頭に迷い、生きていく為に悪事に手を染めてしまう者、食べていく為に他から財産や命を奪い取る者、中には自ら生きる事を放棄して自殺という決断をする者も後を絶ちません。
かく言う私もこの混乱の世に対し、教育こそが未来への希望を切り開く術だと信じてあえて『教育審議委員』と言う荊の道を選びこの身を投じたものの、度重なる諸問題に両足はズタズタに切り裂かれ血まみれとなり、正直もう疲れ果ててこれ以上歩けなくなっていました。もう辞めよう、諦めよう、自分に出来る事など一つも無いんだと、何度も何度も心が折れかかっていたのです。
しかし、そこに私達の前へ再び彼女が現れたのです。露頭に迷い希望を失いかけた私達へ再び自信と勇気を与えてくれたのです。あの時と何一つ変わらない、気丈な姿と高き信念を持って。
「……あなたは、あなたはどうしてそんなに強くいられるんですか? どうしたら、あなたみたいな強い女性に……?」
世界を動かし、その足元に跪かさせた彼女の偉大な姿を見たあの日から、衝撃的な共感と感銘を受けた私はすっかり彼女に心を惹かれました。いつか私も彼女の様な人間になりたい、彼女の様に人々を正しい道へと導く高貴な存在でありたい、そう思ってこれまでの人生を歩んできたのです。
しかし、この時私はまだ自分の力が彼女の足元にも及ばないどころか、自らの思考そのものに欠陥的な甘さがあった事を再び思い知らされました。一体、どうしたら彼女の様な強く逞しい女性になれるのか、私はどうしても彼女の口からその答えを導き出して貰いたかったのです。
「……私が、強い? さぁ、それはどうかしら? 怖いとは人から良く言われるけど、これくらいは人間として当たり前、誰もが生まれつき持っている心の強さだと私は思うけど?」
私の問いかけに、彼女はコクリと首を傾げて飄々とした表情で答えてみせました。自らの強さを当然の様に振る舞う彼女の姿に、驚愕した私はその言葉が信じられず更に彼女に質問を重ねました。
「……そんな、そんな事ありません! 人間は誰しもその心に弱さを抱え恐怖に震える生き物です! 私も、ここにいる人達も、みんな自分に自信を持てなくて迷っている人達ばかりです! それが高き知能を持つと同時に様々な煩悩も抱える事になった人間と言う生き物の本性だと思います!」
「……本性、ねぇ? うーん、私は人間学とか人生論とか良くわからないしさっぱり興味も無いんだけど、まぁ、教育のお偉いさん務めてるあなたがそう言うんだからそうなのかもしれないわね?」
「……なのに、それなのに、あなたはどんな時代であっても、どんなに世界が暗闇に包まれても、決して希望の光を見失ったりはしない! それどころか、あなた自身が光となって私達に未来への道を照らし出してくれている! どうして、どうしてあなたはいつまでも光輝き続ける存在でいられるんですか!? どうして……!?」
「……何か随分と大袈裟な話になってきたわね? どうなのかしら、他人から見ると私はそう見えるのかしら? うーん……」
「私もあなたの様に人々を導く強い存在になりたいんです! お願いです、教えて下さい! どうしたらあなたみたいな強い女性になれるんですか!? あなたをそこまで強くさせるものとは、一体何なんですか!?」
私の必死に懇願する姿を見て、彼女は困った様に肩をすくめて横にいる千春の顔に目をやりました。話を聞いていた千春の表情も何やら困惑した様子で、どうやらその時の私の姿は周りから見ると確かに大袈裟で不思議な人だと思われるほど異様だったみたいです。
しかし、私が彼女と会えたのはあの日以来の事。奥井グループの株主総会に乱入した大デモ隊は、突入の事前にある人物(故人ですので名誉の為に名前は伏せさせて戴きます)の首謀告白証言があり、それによって全員が懲罰を免れました。
しかし、このデモ隊を先頭に立ち引率した彼女は共謀者として一部の人達からその行為の責任を問われ、また彼女のあの発言に対しても賛否両論があった為、否定側の情報誌には非情なパッシング記事が書かれたのです。それにより彼女はこの騒動の沈着化させる為、周辺を執拗に嗅ぎ回るマスコミから身を隠す為に数年間を国外で生活する事を余儀なくされたのです。
私も騒動のほとぼりが冷めるまで長女をお腹に宿したまま夫と共に日本を出国して、それから五年後に夫の心臓の疾患の悪化に伴い療養の為に家族全員で帰国してくるまでの間をイタリアで過ごしていました。つまり、彼女と私はそれ以来の再会、憧れの人を前にして高揚し舞い上がってしまったのも仕方がなかったのです。
その長い間、私は一日たりとも彼女の事を忘れたりはしませんでした。イタリアと言う日本の裏側にある国から世界の情勢を眺めてみても、彼女の言葉は確かに全てにおいて正しかったのです。やはり、平和とは私達人間一人一人の心構え次第なのだと。それを確信し再び強い感銘を受けた私は、いつしか彼女の様な存在になりたい、少しでも近づきたいと思うようになりました。
イタリアに在住していた頃から、自らがこれまでに体験し目にしてきた人間同士による争い事の愚かさと悲惨な現状をまとめた著書を幾つも執筆して、世界中の人々に命の尊さと平和の大切さを訴え続けました。日本に帰国してからもなおそれらの活動に没頭し、次第にその努力が世間にも認めて貰える様になり、今日の私がいます。
全ては彼女に近づく為、彼女の様に人々の過ちを正して更なる高みへと導き、世界中に平和と安泰をもたらす強い女性になりたいが為だけに。
それでも、まだ何かが足らない。私に無くて彼女にあるもの。きっと、彼女にはその思想の礎となる教訓と経験があって、それが心の支えとなって屈強な精神力を保っているに違いない。その信念を少しでも垣間見る事が出来れば、私でも彼女と同じ様な強さを身につける事が出来るかもしれない。
『……その答えがここにある! 私が目指していたものが、彼女から直接授けて貰える事が出来るんだ……!』
本心からそう思っていた私は祈りにも似た想いで、彼女からの答えを待ちました。自らの思想と存在を子供達を導く教育者に相応しいものへと向上させる為に、両手を結び、目を閉じて彼女の箴言を求めたのです。
「……あぁ、そうそう、そういえばあのどスケベの女ったらし馬鹿男、松本新作は元気なの?」
「……えっ?」
しかし、そんな私に返ってきた彼女の言葉は、私の予想を遥かに超越した想定外のものだったのです。
「生きてんの? それとも、もう死んだ? しばらく会ってないし音沙汰も無いから全然こっちの事良く知らないのよ、どうなの? 死んだ?」
「……あ、あの、いや、入院してますけど、とりあえず今のところは元気です……」
「ハァ? 何よ、まだ生きてんの? しぶといわねぇ、もう死ぬ、今死ぬって言い出して一体何十年経つのよあの男? これ立派な詐欺よね、詐欺! あなた、死ぬ死ぬ詐欺にあってるわよ!? さっさと死んでくれれば世界中の女性があのセクハラの魔の手から逃れられるっていうのに、いい加減呆れるわね、全く……」
こちらが質問をしたはずなのに、逆に彼女から質問をされた私は軽く頭の中が混乱して会話の内容がさっぱりと理解出来なくなってしまいました。一体、彼女の強さの秘密と私の夫とどんな関係があるのだろうか。しかも、中傷にも近い強烈な毒舌も添えて。私の疑問の念は更に深く深く海峡の様に脳裏に刻まれていきます。
「でも、良かったじゃないあなたは? どスケベで変態なりにも自分を心から大切に想ってくれる男と結婚出来てずっと側にいてくれているんだもの、女として生まれてきて幸せよね? 実際に毎日幸せで幸せでたまんないでしょ? ねぇ?」
「……えっ、あの、まぁ、はい、幸せ、ですかね? はい……」
「そうそう、この前仕事で日本に来た時に地方のサーキット場であなたの娘、お姉ちゃんの方にも偶然会ったけどね、幾分身体の成長に支障があるみたいだけど性格や振る舞いは意外にしっかりしてたわ、忙しそうな割にちゃんと教育も出来てるのね? 優しい亭主にかわいい娘、しかも二人でしょ? 誰かどう見たって完璧な家庭環境じゃない?」
「……は、はぁ、そうですかね……?」
「だったら、あなたはこれ以上強くなる必要なんて一切無いわ、これまで通りに生きていけば問題無し、それだけよ」
「……えっ!?」
彼女に自分の家庭を褒めて貰えた事は正直とても嬉しくて、天にも昇る様な気持ちになりました。しかし、今一つ歓喜しきれなかったのはその後の言葉が気にかかってしまったからです。強くなる必要が無いなんて、そんな訳がない。私の力不足のせいでこの相談会は一度大混乱になりかけたのですから。しかし、彼女は言葉を返そうと前に乗り出しかけた私を制する様に、一足早くその会話の続きを語り始めました。
「どうやら見た感じ、あなたは一つ大きな誤解をしているみたいね、いい? 人の強さというものはみんな一緒の形とは限らないのよ? 人の顔、指紋、遺伝子がみんな違う様に強さも優しさも幸せと思う感覚もみんなそれぞれ違うものなの、誰もが私みたいな人間になれば良いって話ではないのよ?」
「……違うもの……?」
「そう、私には私の強さがあって、あなたにはあなたの強さがあるの、あなたは私みたいになりたいって言うけれど、逆に私は多分あなたみたいな豊富な知識と温厚な優しさを供え持った良妻になんてなれっこないわ、そういう事よ」
「……でも、あなたは先程、人間としてのあるべき姿を取り戻せと、自信と自覚を身につけろと……」
「それはね、何も人の真似をしろと言ってる訳ではないの、人にはそれぞれの環境がありそれぞれの事情を持っている、そして、それに適応した強さをそれぞれが生きる為に身につけていく、ここにいる保護者の連中がやらかした行為だって自分の子供を守る為にした一つの強さが起こさした行動だったのよ?」
「えっ!? でもそれも愚かな行為だとあなたは……?」
「そうよ、あまりに愚かで醜い行為、強さというものを見誤ってしまった挙げ句の結果よ、強さというのは正しい面とそうでない面を持ち合わせる危険な諸刃の剣なの、ある程度の強さが持っていなければ自分の欲望を制御出来ずに悪行に手を染めてしまう、でも、有り余り過ぎる強さは幸せをもたらすどころが周囲の人間を傷つけ、最後には自らも破滅の道へと陥ってしまう事になるのよ」
確かに、必要以上の自信と自覚は人を驕らせ暴走させて、自分の思想に属さない者達をその強さでもって力ずくに押さえ込み占領しようとしてしまいます。実際にも歴史上にはその高き思想と完璧な理論で絶対的な名声と権力を手にしながらも、自らの強さに陶酔して我を見失い多くの罪の無い人々を傷つけ苦しめてしまった者達が何人も存在しています。
「強さとは誰もがそれぞれ違う形として持ち、自分自身を制御する為に必要不可欠なもの、でも、それは決して肉眼では見えない曖昧なものでもあるの、それを見極める為に人間は常に人生において学習と経験を積み重ね、良識と道徳心で身につけた心眼でもってそれに向き合うのよ、だからこそ、教育というものは人間にとってとても大切な存在なの」
「……じゃあ、私達は一体どんな強さを身につければいいんですか? 私達に合った、私達それぞれの強さって……?」
私の度重なる質問の嵐に少し気疲れしたのか、彼女は肩をすくませ一つ溜め息を吐くと手に持った黒いノートファイルをポンと叩き、悩める私にとてもわかりやすい教えを説いてくれたのです。
「それは、あなた達が一番良くわかっている筈よ?」
「……私達が?」
「そう、本当は良くわかっているつもりなのについつい忘れてしまう本来なりたいと思っている自分の姿、それがあなた達が求めている自分達の強さよ? 周りの間違いに気づいているのに恥ずかしくてそれを指摘出来ない自分、目の前で立っている老人に席を譲るべきなのに面倒臭がって見て見ぬ振りをしてしまう自分、本当は仲良くなりたいのに周りがイジメているからそれに便乗してしまう自分、本当は愛しているのにその気持ちとは逆の行為をして家族や恋人を傷つけてしまう自分、それらの弱い自分を乗り越え、自分の信念をそのまま素直な気持ちで表に出せる様になった時、あなた達は真の強い人間へと成長する事が出来ると思うわ、たったそれだけ、それだけでいいのよ」
「……それだけ、ですか?」
「そう、それだけ、あなたはすでに素直な気持ちで心から夫を愛し、娘達を愛し、家族を愛している、だから、もうこれ以上の強さを求める必要なんて無いの、あなたの強さは誰もか容易に真似の出来るものではない、あなたにしか備わっていない立派なものなのよ?」
「……でも、私は……」
「……ふぅ、まだいまいち理解出来てないみたいね? 人それぞれに違うそれぞれの強さ、その一例として丁度ピッタリなのが偶然にもここにいるわ、これよ、コイツ、この教育の場にちっとも相応しくないド派手な衣装の場違い女」
「ふぇっ? うぇ〜ん、ちょっと麗奈ぁ〜? そんなに頭をグリグリしないでよぉ〜?」
彼女は隣にいる千春の頭にポンと手をやると、まるで犬を撫で回す様にグルングルンと強引に回し始めました。彼女と千春は昔からの幼なじみと聞いてはいましたが、世界でも才能あるファッションデザイナーとして有名になったあの『チハル・ミシマ』が彼女の前では完全に手懐けられたワンちゃん状態になっていました。
「この娘ももう四十を超えたいいオバサンだっていうのにね、未だにこんな奇抜で目障りなファッションに身を包んでとても年相応とは思えないだらしない喋り方をして、普通のオバサンがこんな真似してたら間違いなく周囲から偏見の眼差しを受けるわよ? ところがこの娘の凄いところはそんな批評の声すらも上げさせないほど、実業家としても一家庭の主婦としても一人の女性としても全ての役目を完璧に成し遂げてしまっているって事、それはあなたもこの娘と付き合ってて良く知ってるでしょ?」
「……は、はい、確かに……」
「それどころか、事業が成功して手にした莫大な資産に傲りを見せる事も無く、積極的に教育法人団体への資金投資やNPO団体への寄付を続けているのも流石の一言よ、自分がやれる事を全部きっちりやってんだもん、誰にも文句なんか言われる筋合いなんか無いわよね? これが三島千春という一人の人間が持っている正しい心の強さ、人間としての理想的な姿と生き様の一つの見本よ」
「エッヘッヘ〜、麗奈に褒めて貰える何てスッゴい久し振りぃ〜! 超Happyな気分だわ! やっぱり人生は思いっ切りEnjoyしなくちゃNon,non!」
「……後はこの馬鹿な喋り方だけ直してくれれば何も言う事無いんだけどね、本当に残念な娘よ、全く……」
「だぁ〜かぁ〜らぁ〜! 何でそうやっていちいち首傾げんのよぉ〜!? ヒドいよぉ、アタシは残念な娘じゃないよぉ〜!」
「……あーあ、どこで教育間違えたのかしら、ほんっと残念な娘……」
「残念じゃないってばぁ〜!!」
千春を茶化して無邪気な笑顔を見せる彼女の姿を目にした時、私はやっとある一つの答えに辿り着きました。彼女だって一人の人間、ただの普通の一人の女性であるという事です。決して彼女の言葉は神の下した箴言でもなければ厳格な戒律が刻まれた跡石の一説でもなく、私達人間誰もが持ち合わせている他人を思いやる優しさと他人を許す寛大な心を、もう一度世界中のみんなが再確認して欲しいという切なる願いが隠ったものだったのです。
他人を思いやり許す行為は思った以上に勇気と力が必要です。だからこそ、人は常に道を外さぬ様に自らを厳しく戒め、学習を重ねて己を高め、それに必要な強さを身につけなければならないのです。どんな事に対しても、全力で受け止めてあげられる逞しい強さを誰もか持てば、きっと世界中の全ての争い事は終わりを迎える事が出来るでしょう。彼女の願いは、これまでの私達の先祖達が子孫達へ願い託してきた平和への祈りそのものだったのです。
「自分の強さを信じなさい、あなたは十分に強い、今、心に抱いているその気持ちを忘れさえしなければ、いつか必ずあなたの想いは周囲から賛同されて、その志は子供達の教材となり人々を正しい道へと導くはずよ、自信を持って胸を張りなさい」
「……はい、ありがとうございます……」
その言葉に感極まり人目もはばからずに涙を流す私に、彼女は優しく微笑み一枚のハンカチを渡してくれました。その温もりは、とても『氷の女王』などという別名が信じられないほど暖かく感じました。私の彼女に対する見方は少しその角度が変わったものの、憧憬の心は更に深く私の奥底に刻まれたのです。
彼女に憧れその姿を追い続けてきて、本当に良かったと……。
「……あっ、そうそう、そういえばまだあなたの最初の質問に何も答えていなかったわね? 私がなぜ、この強さをずっと持続していられるのかって話」
私が涙を拭っている間にも、彼女は自ら私がした質問の答えを語り続けてくれました。周りにいる他の保護者達もどうやら熱心に彼女の話を聞いていたらしいのですが、その時の私には周囲が目線に入っていませんでした。彼女の姿しかその目に写らなかったのです。次はどんな有り難い言葉をかけて貰えるのか、私は期待に胸を膨らませて彼女の言葉に耳を傾けました。
「さっき、子供達は厳しい目線で親の姿を見つめているって説明したでしょ? それと一緒、私にも私の姿や言動一つ一つを厳しく見張っている存在がいるって事、弱々しい姿や愚かな失態を見せる訳にはいかないから、そうならない様に常に自分自身をなお厳しく戒めている結果よ」
「……厳しい目線、それはやっぱり、娘さんの那奈ちゃんや優歌ちゃんの事ですか? 彼女達の人生の教材となる為に、麗奈さんは常に自分の言動に責任を持って……」
「うーん、まぁ、あの子達の存在も確かにそうよね、母親として情けない姿は見せられないわよね、でもね……」
「……でも?」
「それよりもっと厄介な存在がいるのよね、私の周りには」
「……厄介? まさかその存在って、あの奥井の関係者の誰かなんですか? それともゴシップを嗅ぎ回るマスコミ記者ですか? まだあの人達はそんな過ぎた昔の話を……!?」
彼女にとって厄介な存在と聞いて、私はすぐにあの因縁の一族の名前が出てきました。でも、あの事件はもう過去の出来事として忘れなければいけない話。それを自らが軽々と口にしてしまった事にハッと気づき後悔して申し訳なく俯くと、彼女はクスクスッと笑ってこう言ってみせたのです。
「奥井? 未だにあんなよぼよぼの爺さんに寄りすがっているコバンザメ集団、当初から私の眼中になんて入ってないわよ? 確かに以前一騒動あったとはいえ、今やあそこは私の研究開発資金を惜しげもなく出してくれる使い勝手の良いお得意さんだもの、あんなもん大したもんじゃないわ、チョロいもんよ」
「……コ、コバンザメ集団? チョロいもんって、奥井グループと言ったら現在でも泣く子が黙る世界屈指の大財閥……!」
「そんな甘ちゃん軍団なんかよりもね、もっと厄介で面倒で迷惑で失礼で常識を弁えない身勝手で理不尽で己の力に狂酔して自分が神か何かだと勘違いしてやりたい放題しまくっているクソ虫の中のクソ虫でクソ虫以下のヘドロ野郎がいちいち私の揚げ足を取ろうとその腐った目玉をギラギラと光らせている最悪最低の大馬鹿者が私の目の前を我が物顔してウロウロして目障りで仕方ない!! あの非道極まりない俗物ゲス男の息の根を完全に止めるまでは平和の日々など訪れない、私は奴に対して一切油断も隙も与える訳にはいかないのよ!!」
「……あのー、麗奈さん……?」
穏やかな空気は一瞬にして緊迫状態へ。先程まで私に優しい表情を見せてくれていた彼女はすっかり『氷の女王』の姿へと変貌し、その厄介と言う相手に向かって次から次へと凍てつく様な強烈な一言一言を辺り一面に撒き散らしていきます。体育館内の体感温度は再び絶対零度まで引き下がり、周りの人達は彼女によって氷柱を垂らして真っ白に凍りつかされてしまいました。
「あの男はいっつもそう!! 私の思想ややり方に対していつも否定的な態度をとっては理不尽なケチや難癖をつけては指示に従わず身勝手でいい加減で無責任な行動ばかり!! 多忙な研究時間と多額の開発費を重ねて苦労の末に完成した新型マシンをたった一回のテスト走行で跡形も無くぶっ壊してくれるし、私からわざわざ交流を絶っていた奥井との関係を公に引きずり出して更に悪化させてくれるし、バリバリ働き盛りだった私をたった一夜の関係だけで妊娠させて職場に行けない体にしてくれるし、それでやむなく世帯を構えてみれば仕事はしない、育児も適当、料理も掃除も洗濯もちっともしないし、いざやらせてみれば何一つまともに出来ない!! それどころか、私が外で仕事をしてる最中もあの男は夜の街に繰り出して酒にまみれて女遊び三昧!! こんな駄目の駄目の駄目三乗男が側にいて、私がやれ女だからだのやれ疲れたからだのと言い訳抜かして自分の弱さを露呈出来ると思う!? 私はどんな時も常に強く逞しくいなければ、私の生活も娘達の人生も全部あの男の餌になって根こそぎ喰い尽くされてしまうのよ!! 私は何も好きで強くなっている訳じゃないの、あの男より強い存在でい続けなければ、家庭も仕事も会社もチームも何一つ守ってあげる事が出来ないからなのよ!!」
「……麗奈さーん、物凄く寒いでーす、凍え死にそうでーす……」
「ほんっとにね、あなたや千春の家庭が心底羨ましいわよ!! って言うか恨めしい!! スケベで変態のクセに旦那はあなたの事を一番に想ってくれているんでしょ!? だったら、あなたは強さがどうのこうのだのこれ以上余計なものまで欲しがる必要なんか無いの!! どう、これで良くわかった!?」
「……は、はい……」
「千春、アンタもよアンタも!! あんな何の取り柄の無くて気持ち悪い見栄っ張りの若ハゲ男でも、ちゃんと素直にアンタの操縦通り動いてくれる都合の良い番犬に育ったんでしょ!? だったら、アンタももう少し人並みにしっかりとしてその変な言葉使いや馬鹿なガキみたいな立ち振る舞いを止めなさい!! もうほんっと見てていちいちイライラすんのよ!!」
「ひっどぉ〜い! いくらアタシでもぉ、虎太郎兄ぃ兄ぃに比べたら可愛いもん……」
「シャラッープ!!!!」
なぜか突然怒り狂った彼女は手に持ったノートファイルを首刈り釜の様に振りかざすと、千春の脳天目掛けて容赦なくバシバシと何発もの鉄槌制裁を加えました。先程の自分を厳しく戒める等の発言は何だったのか、明らかにこの行為は人間の醜い一面をありのままに表現していました。
「私の目前でその名前は禁句!! 禁句、禁句、禁句!! 何が兄ぃ兄ぃだって!? いつからアンタは私に向かってそんな生意気な口を叩く様になったのよ!? そんな悪い娘は制裁、制裁、鉄拳制裁の刑に処す!! 今度はお尻よ、抵抗せずに突き出しなさい!! 真っ赤になるまでひっぱたいてやる!!」
「痛い痛い痛ぁ〜い!! ごめんなさ〜い、もう二度と言わないから許して下さ〜い! ホントに痛いってばぁ〜!!」
ちなみに千春は気に入った年上や同い年の男性に対してお兄ちゃんと呼ぶのが小さい頃からの一つの癖なんだそうです。実際に血が繋がっている兄妹という訳ではないのであしからず。虎太郎氏以外に風間貴之氏も兄ぃ兄ぃと呼ばれていたとかいないとか。
しかし意外でした。彼女のこの強さを維持する為の秘訣とは、まさかあの人への対抗心と敵対心によるものだったとは。確かに、あの人の妻として生きてしていくには相当な強さと逞しさが必要になるでしょう。言われてみれば、十七年前のあの時も彼女の傍らにはあの人の姿がありました。互いを常に意識をしてその強さを競い合う、この広い世界にはこんな不思議な夫婦もいたりするのです。
「あーあ、何か一気にスゴい気分が悪くなったわ、もうさっさと帰るわよ! 千春、この後の私の凱旋帰国を祝った記念パーティーの準備はちゃんと出来てるんでしょうね!?」
「Don't worry,baby! 今回は歌舞伎町一の人気ホストクラブ店を麗奈様の為だけに完成貸切にしちゃいましたぁ〜! もう美少年系からセクシーワイルド系まで選り取り見取りよぉ〜!? お気に召したら一人でも二人でも何だったら全員Take outしちゃったって全然OK〜!」
「あら、なかなか上出来じゃない? 所詮男なんて女を悦ばす事しか出来ない役立たずのお荷物、この私が世間知らずの坊ちゃん達を一人残らず根本から教育し直してさしあげるわよ?」
「ねぇねぇ、美香も一緒にどぉ? たまにはダーリンの事を忘れてハメ外しちゃうのも楽しいよぉ〜? やっぱり仕事で溜まったストレスは、外でバァ〜と思いっ切り発散しないと体に毒よぉ?」
「……いや、あの、私まだ、こっちに用が残ってるから……」
「そおなのぉ? んもぉ、せっかく会えたのにざんね〜ん! 教育審議委員ってのも大変なお仕事なのねぇ? お疲れちゃ〜ん、それじゃいっぱい頑張ってねぇ〜?」
すみません。実はこの時、私は嘘をついてしまいました。本当はこの学校での相談会を最後にこちらでの全予定が終了してその後はフリーだったのですが、流石にこの二人と一緒にお酒を嗜む勇気は私には無かったのです。何か、命と肝臓が幾つあっても足りなくなりそうな気がしましたし、それならまだ早く帰って夫と一緒に時を過ごした方がいいかな、と思いまして……。
「さぁ、今宵は徹底的に朝まで飲み明かすわよ!? 店内全てのアルコールを底まで飲み干してやるから、千春も最後まできっちり付き合いなさいよ!?」
「Rogerでごさいま〜す! この三島千春、精魂尽き果てるまで麗奈様にお付き合い致しますぞぉ〜!? ささっ、外に車を待たせております、どうぞごゆるりと心ゆくまでご休暇を満喫して下さいませませっ!?」
会場を立ち去ろうとする彼女に対して、周囲の保護者や学校関係者から歓声や拍手が上がる事はありませんでした。しかし、その理由は反発や軽蔑の心からではなく、彼女の演出した壮絶な大歌劇に完全に圧巻され、それ故に声を失い拍手をする事すらも忘れ去ってしまっていたからなのです。
その証拠に、彼らは背中を向け会場から立ち去ろうとする彼女に対し、誰もが最後まで尊敬の眼差しでその姿を見送っていました。ある意味大喝采よりも衝撃的な光景、私を含めこの場に遭遇した人々はすっかり彼女に心を奪われてしまったのです。
きっと、この後のホストクラブの人々も、彼女の振るうタクトに指揮された大協奏曲より『誰も寝てはならぬ』状態にされてしまったでしょう。彼女が通ったその道の後には、あらゆる全てが浄化され雑草一つすら残らない。私が人から聞いた言い伝えはどうやら真の話だったみたいです。
『……人類よ、今こそ失ってしまった自信と自覚を取り戻せ……!』
しかし、私はやはり思うのです。彼女の行き着く先にこそ、人類が到達すべき真の世界があるのではないかと。彼女が導く先にこそ、私達に約束された平和な楽園が待っているのではないかと。彼女こそが『新世界』への扉を開ける運命の鍵なのだと、私は今も本心から信じてならないのです。
五月某日 松本美香
ー完ー