レクイエム 〜怒りの日〜
『氷の女王』の突然の登場に硬直してしまった私の前を素通りし、何食わぬ顔で飄々と講壇に上がってしまった彼女。私が自我を取り戻し事の重大さに気づいた時にはもう時すでに遅し、初対面の人々を目上から見下ろすというその恐れ知らずなふてぶてしい態度に、会場の保護者達からは彼女に対しての苦情の罵声が一斉に上がり出しました。
「何だあの女は!? 相談会の開始時刻に遅刻してやって来たにも拘わらず、ろくな挨拶も謝罪も無しにいきなり講壇上から私達保護者を見下ろすなど失礼にも程があるぞ!!」
「何よあれ、何様のつもりなの!? どこからの関連でやって来た者なのかは知らないけど、こんな常識外れの人間を特別顧問として招待するなんて、学校側は一体全体何を考えているのよ!?」
「学校と保護者は平等の立場だなんて言ってたさっきまでの話はどこへ行ったんだ!? あの女の態度は完全に矛盾してるじゃないか!? やっぱり、お前達教育員は我々保護者や生徒達を馬鹿にして見下しているんだな!?」
「何アイツ、すっごいムカつく! 超ウザいんですけど〜!? 早くあの女を下に降ろせよ! メチャクチャ不愉快! 最悪!」
教育とは、子供達が自分以外の他の存在と積極的なコミュニケーションを図れる一人の文化人として成長する為に、世間の常識と礼儀を教わり差別や偏見を改め他を慈しむ事を学ぶ道徳の場でもあります。その一つの象徴として、教育者と保護者は同じ目線の高さから子供達を見守る存在として、お互いが平等の立場でならなくてはいけません。それは、私がこの役職に就いた時から心に決めた、私の教育概念の支柱となる一つのモットーだったのですが……。
「……れ、麗奈さん、それはダメです! その様な高圧的な態度で意見交換の場に望んでしまったら、交流どころか相手側から一方的に反感を買うだけ……!?」
しかし、彼女の辞書に『温和かつ円滑な意見交換』などと言うそんな温く生易しい思想なんて存在すらしていなかったのです。会場から次々と挙がる罵倒に対して、当人は顔色一つ変えずに全く講壇から降りようとする気配を見せません。それを見て焦った私は急いで彼女に駆け寄ろうとしたのですが、彼女はスッと片手をこちらにかざし私の動きを制止したのです。
「……心配御無用、最初から意見交換なんて高度な文化を備えた相手だとは思ってないわ、そんな事はやるだけ無駄よ」
「……えっ? む、無駄……!?」
彼女は静かにそう言うと、かざした手を下ろし静かに両手を目の前にある演説用の机の上に添えました。凛と身構え前方に鋭い目線を走らせるその姿からは、満ち溢れるほどの揺るぎない自信と末恐ろしいほどの冷静さをまとったオーラを放ち、その気迫に圧倒された私の足はガタガタと震え出し金縛りにあった様にそこからピクリとも動かなくなってしまったのです。
「この手の無能な連中にあれだこれだの説法を説いてやっても所詮は馬の耳、私は無意味な事に無駄な労力と時間を費やすのは嫌いなの、根本的な思考の改良が必要なのは学校や教育者より寧ろこのやかましい家畜どもの方ね」
「……ちょ、ちょっと麗奈さん! 何て酷い暴言を……!?」
この発言は一つ漏らさずマイクを通じてスピーカーから会場中に響き渡り、しっかりと会場中の人間の耳に伝わってしまいました。勿論、失礼な態度に加えて更には家畜呼ばわりまでされた保護者達は怒髪衝天し、彼らは怒号を上げながら彼女のいる壇上の真下まで一塊になって一気に詰め寄ってきました。あわよくば今にも壇上に上がり、彼女に対して掴みかかりそうになっている男性の姿すらも確認出来ました。
「オイ、てめぇ! さっきから聞いてりゃ散々人様をコケにしやがってよぉ! てめぇに家畜呼ばわりされる覚えなんて一つもねぇんだよ! 女だからって何言っても許されるなんて思うなよ!? こっち降りてこいよ、ぶっ殺してやる!!」
「アンタ、私達を誰だと思ってんの!? 私達はこの学校に学費を払ってあげている保護者、利用者! アンタ達に利益を与えて生活を支えている天下のお客様なのよ!? その神様の存在である私達向かって何よその暴言と偉そうな態度! 今すぐ発言を撤回して謝りなさい! 土下座しなさい! 私達全員一人一人に対して床に頭を擦りつけて許しを請いなさいよ!!」
「人を侮辱する事しか出来ないお前の方がよっぽど無能な家畜だろうが! こんな礼儀知らずの危険な人物が、子供達の通う教育の場に足を踏み入れるなど言語道断だ! 今すぐ我々の前から消え失せろ! 帰れ帰れ!!」
「そうだそうだー! ババアに用なんかねぇんだよ! 荷物まとめてさっさとかーえーれ!!」
「かーえーれ!! かーえーれ!!」
「……み、皆さん、どうか落ち着いて下さい! 皆さん……!」
会場の保護者達は異様な空気の連鎖で一丸となり、集団作用によって完全に理性を失い怒りの暴徒と化してしまいました。大音量の『帰れコール』が室内一体を支配してこちらの制止の声など全て綺麗にかき消されてしまいます。もう、とても相談会などと言う常識人同士の話し合いが交わせる状態などではありません。激昂の大津波になった保護者達は、私がいる学校側の人間達が陣取っているすぐ間近にまで迫ってきました。様々な修羅場を経験してきた私ですらも、この時ばかりは恐怖に駆られ自分の身に不安を感じてしまったほどでした。
「……言いたい事は、それだけか……?」
「……!?」
その時でした。私の耳にうっすらと、そして確かに会場中から湧き上がる怒号に紛れてマイク越しの彼女の声が聞こえてきたのです。それは、これからここで行われる驚愕の舞台の幕を開ける始まりへの序曲、嵐の前触れを知らせる合図だったのです。
そして遂に、神々の怒りは表現化され私達の前にその姿を現したのです。我ら愚かな人間達の奢りと愚行を裁く一筋の鉄槌の雷が、彼女の手によりこの地上に振り落とされたのです。
「いい加減に目を醒まさんか!! このクソ虫どもめがぁ!!!!」
「ひぃぃぃぃ!?」
体育館内全てのスピーカーを破壊しかねない突然の彼女の怒りの一喝に、会場中を占拠する罵倒の嵐は一瞬にしてかき消し飛ばされてしまいました。顔色を変えて一変に静まり返ってしまった保護者、そして私を含めた教育者、会場にいる一同が彼女の放ったその言葉に自らの耳を疑ったのです。
「……ク、クソ、虫
……?」
無能、家畜、それらを遥かに上回る強烈過ぎる下品な名称を名づけられた我々は、一体今何が目の前で起こったのか理解に苦しみその場に立ち竦み、ただ壇上にいる彼女の姿を茫然と見上げる事しか出来ませんでした。これほどの侮辱的な言葉に対して即座に反応出来なくなるほど、この時の彼女の気迫は鬼神の権化の様な恐ろしいものだったのです。
「あら、言えばちゃんと静かに出来るのね? それでいいわ、そのまま聞きなさい」
そして、彼女主演の壮大なる歌劇の前奏曲が、彼女自身が振るうタクトに指揮され奏でられていったのです。私達は彼女の彼女による全世界の人類へと向けた『無差別大量人生理念大改造』の舞台の観客の一員となり、それを目の当たりにする事なったのです。
「クソ虫である貴様らにわざわざ言葉を選び説得を重ねたところで全ては無駄な努力、だからこそ敢えて貴様らでもわかる言葉で教えてやろう! 社会に寄生し反吐を撒き散らし腐敗させ、何一つその生存価値も存在意義も持たない愚かな害虫どもよ! 貴様ら如きの下等生物が我が物顔で寄ってたかって要望だの苦情だのサービスだの、偉そうな馴れ馴れしい口を叩くな! 恥を知れ、この俗物!!」
「……が、害虫!? 俗物!?」
「己の醜い姿すらも自分でわからんのか? そうだ、貴様らはこの世界に巣くい私欲を貪り、秩序を乱し人類史を混沌の渦へと陥れる存在、害虫以外の何物でもない! いや、例え害虫とでも屍はいずれ地上に還り次世代への肥やしぐらいの役には立とうが、貴様らにはその役目すらも務まらない生産性ゼロのゴミクズの集まり、害虫以下の存在、クソ虫だ!!」
「……!?」
「故に、貴様ら不要物と成り下がったクソ虫に権利や理想などを求める資格など一切無い! 身の程を弁えるのは貴様らの方だ、この俗物どもめが!!」
彼女の奏でる大音量オーケストラの前に学校側の関係者達は全員顔を真っ青にして凍り付き、中には頭を抱えて絶望する者もいました。本来ならこんな大それた暴言を公の場でする事など、どんな特別な立場にある人間だとしても許されるはずがありません。しかし、徹底的に侮辱された保護者達は怒り出すどころか未だに茫然と立ち尽くしたままでした。なぜなら、彼らは自分達よりも段違いの、想像を絶する凄まじいオーラを放つ彼女の怒涛の迫力に圧倒され、身動きすら取れなくなってしまっていたのです。
「良く聞けクソ虫ども! 貴様らは自らの誤った選択により人道から外れ、クソ虫の道へと転落していった事になぜ気づかん!? 短絡的な感情と欲望に身を任せ人間としての理性を見失い、本来持っていなければならない人類の本能のかけらすらも無くしたのだ! 暗黒の奈落の底へと落ちぶれた愚かな下僕どもよ、鏡に写る腐った己の姿を見るがいい! 互いに隣にいる哀れな低脳どもの姿を見るがいい! 己の欲望を制御出来ずに騒ぎ立て、それが叶わないと知るや更に激昂し周囲の迷惑も省みず強引に事を押し進める、これが高度な知能を持つ人類のあるべき姿だと思うか!? これが地球上全生物の中で唯一道徳を司る人間の本来あるべき姿だと思うのか!?」
「……自ら、人道から外れた……?」
「自らの欲望だけを理想への最優先として生きるだけなら、そんな事は猿でも犬でも、微小な単細胞生物ですらも出来る事だ! 思い出せ、我々は何者だ!? 我々は進化の頂点である霊長類の更に頂点の、生物の歴史において唯一この世界に社会文化と創作技術を発展させ繁栄を続けてきた地球上の支配者、人類なのだぞ! その我々人類が今の貴様らの様に人類たる自覚と理性を失った時、一体世界には何が生まれた!? 何を生み出した!? 平和か!? 安泰か!? それとも新たな進化へと導く光の一筋か!?」
「……えっ、いや、あの、それは……?」
「否!! それは全て断じて違う!! それにより生まれるのは世界を混沌の渦へと陥れる暗黒の闇!! 今、貴様らがやっている横暴極まりない言動の数々はいずれ社会の秩序に亀裂を生じ、世界中に大きな歪みを生み出しその代償は必ず我々の元に災いの豪雨として降りかかってくる! それは、これまでの人間が歩んできた歴史、人類史によって全てが証明されているのだ!!」
彼女の演説はこの国の教育のあり方とかそれに関わる関係者達の心構えとかそんな小さなレベルではない、私達の範疇を軽く凌駕した壮大なスケールの内容でした。
それは我々人間が各個人それぞれに持つ人生観や価値観、そしてこの先の新時代を生きる全人類に対し大いなる警鐘を促す重大なメッセージ。
この時、熱弁を奮う彼女の佇まいは歴史上の名だたる政治家や指導者達を彷彿とさせる、聞く者達に一部の隙も与えない壮絶なものでした。
「よいか、人類の進化、繁栄の歴史とは、生まれながら天より授かった高度な知能により手にした知識と技術で創造された文明の歴史そのものである! 文明はそれまで各地を転々と放浪するだけであった人類の生活に平和と安定をもたらし、そこに集まった人々はお互いの共存と文明の繁栄と安泰の為に道徳と戒律を定め秩序を守る事により『国』と言うカテゴリーを誕生させたのだ! そして、人々は更なる文明の発展と平和の継続を願い、次世代を担う子孫達に『教育』と言う知識教養継承の場を与えたのだ! 文明により誕生した国と、そこから生まれた一つの文化である教育の場があったからこそ、この時代まで人類は絶滅する事なく全世界にこれだけの繁栄を続けてこれたのだ! 教育、それこそはこの地球上の生物で我々人類のみが持つ高度文明の象徴! 人間として生きていく上で絶対に受けなければならない最大の義務であり、人間ならば誰もが受ける事の出来る最高の権利なのである!」
太古の昔の時代にまで遡り『教育』と言う文化の偉大さを説明する彼女の言葉の前に、保護者達だけではなく学校側の関係者達、あの適当な発言ばかり並べていた無責任な校長ですらも放心状態となっていました。会場内はいつの間にか完全に彼女が繰り広げる圧倒的な世界観に支配されてしまったのです。
「人類は文明により国を造り上げ、国は人間の理性に基づいた常識と道徳により戒律と秩序を定め、戒律と秩序により生活の安泰と平和は保たれ、その安泰と平和の継続の為に造られた教育の場によって先駆者から知識と文化が次世代の子供達に継承されていく! こうして人類は祖先誕生から約一万五千年の時間をかけ文明の進化と人口の繁栄を続け、今現在ここに我々の生命と近代化を遂げたこの世界が存在するのだ! だが、しかし……」
それまで両手を広げ虚空を見上げたまま演説を続けていた彼女は何かを憐れむ様に下に俯くと、突然会場の保護者達に対し憤怒の表情でカッと目を見開き、握り締めた両拳を演説台に振り落として思い切りドスンと叩いたのです。
その瞬間、言葉では説明出来ない何か強烈な波動がビリビリと彼女を中心に周囲に広がり、会場内の緊張はピークに達しました。私は体感温度が一気に絶対零度まで下降したみたいな錯覚を感じ、校長に至っては恐怖のあまりか座っていた椅子から転げ落ちてしまう有り様でした。
「さっきの貴様らの醜態は一体何事だ!? 怒りと欲望に支配され、人間としての理性や抑止力すらも忘れ外道極まりない傍若無人な言動の数々! 一人が事を荒げれば易々とそれに便乗し、至高な思想と理念を育む教養の場に無礼にもズカズカと土足で踏み入り、若き有望な未来の担い手達の才能の樹が芽生える事すらも出来ない不毛の荒野へと変えてしまう! しかもそれだけでは飽き足らず、それらの愚行をまるで当然の様に振る舞い悪態を吐くこの哀れな有り様! 貴様らはこれで本当に我々の祖先が残してくれた貴重な文化や豊富な知識を自分の子供達へと継承する指導者に、未来の人類を更なる繁栄へと導く歴史の道標になる事が出来るとでも思っているのか!? これらの行為が己の血を分けた大切な子供達にしてやれる最大の愛情表現だと思っているのか!? 勘違いも甚だしい! 貴様らは自らの手で教育の場の秩序の乱し、子供達の無限の可能性を奪ってしまっている事を重々自覚せよ! 己自身はおろかその子供達の人生までも奈落の底へと堕落させ、世の中を混乱させ暗黒の闇へと陥れる諸悪の根源である貴様らクソ虫どもに保護者を名乗る資格など一切無い!!」
彼女のこの言葉に対して、『自分勝手? そんな事は世界中で誰もがみんなやっているじゃないか?』と反論したい人達はたくさんいらっしゃるでしょう。正直者は馬鹿を見る、いつの世もそんな嘆きが叫ばれているのは事実です。
しかし、人間達による自分勝手な行動の数々は次第に一つの巨大な悪意の塊へと増幅し、いつしかそれは世界中に黒い連鎖を起こして秩序のバランスは崩壊への道へと辿り、そして人類は大きな代償を払わなくてはならなくなる愚かな過ちを繰り返し犯してきてしまったのです。
この警告はどんな物的証拠や難解な参考書などよりも、私達が学校で学んだこれまでの人類の歴史が全てを証明し、その悲劇を物語っていたのです。彼女の演説は更に人間の本能の奥底を深くえぐっていきます。
「自我を司る理性と道徳心を見失い、教養と良識の追求を怠り、私欲に走り身も心も悪意に支配されてしまった過去の人間達の末路を見るがいい! 秩序が乱れ集合体としての統一を無くした歴史名高い大国のほとんどの最後は暗黒の時代へと突入し、国民の生活の安定は経済難と食糧難でいとも簡単に崩壊し、それにより国内には犯罪と不満が増加して国勢は一気に衰退して人々は露頭に迷い更なる混乱を呼び起こす! それでも過ちに気づかない愚かな人間達は生存の為になりふり構わずその手から書物を投げ捨て武器を取り、他の国への侵略と横領を開始し同じ人類同士でなりより尊い存在であるはずの互いの命を奪い合ったのだ! その争いは真っ赤な血が地上を覆い尽くすまで果てしなく続き、華やかな繁栄を極めた無数の大国は滅亡し歴史の闇に葬られてきた! その全ての始まりは『自分だけなら』と言う人間の身勝手な言動から生まれた僅かなバランスの歪み、それは刹那に修復不可能な亀裂となって各国を巻き込み世界中へと広がっていく! 悪しき邪念は甘えと油断から出来た心の隙間へと入り込み人から人に次々と感染し、それまで世界に平和と安泰をもたしてきた文明の進化はいつしか自らや地球そのものを滅ぼしかねない人工有害物質や恐ろしい大量殺戮兵器をこの世に生み出してしまったのだ! この先、もし我々が過去の人間達の様に同じ愚かな過ちを犯してしまった時こそが、これまで続いた人類史が遂に終焉を迎えてしまう最期の時と覚悟せよ! 我々は今こそ先駆者達が経験から得て残してきた知識と教養を改めて再学習し、今一度本来あるべき人間の理想像と地球上の他の生物や自然との共存の道を追求しなければならないのだ!!」
人類滅亡の時。
予言者を名乗り悪戯に世間を不安に陥れる不可思議な発言や著書を発表する人物はこれまでも世界中にたくさんいましたが、彼女の言葉には彼らのものとは違う重みと凄み、そして過去の人類が実際に体験きた『戦争』と言う名の悲劇の歴史の物証に裏打ちされた強烈な説得力がありました。宗教対立により起こってしまった武力衝突の現場をこの目にした過去を持つ私には、あまりにリアルで身の毛のよだつ恐怖の警告でした。
「事実、一部の人間達の私欲のみを求めた行動により世の秩序のバランスは次第に乱れ歪みが生じ、その綻びが慢性的な世界全体の金融不安や先進国ですらも無視出来なくなった食料難問題を起こし目に見える形として表面化されてきている! そこに石油等のエネルギー問題や発展途上国との格差問題が重なり現在の国際状況は悪化の一途を辿っている! その綻びはこの日本の教育の場においても悪影響を及ぼし、この学校と同様に全国の教育機関は本来の存在意義や尊厳を失いつつある! 日本の教育がここまで崩壊寸前に追いやられたのは各教育機関に属する教師や生徒達の保護者、そしてこの国の全ての教育に携わる関係者達の醜い慢心と浅はかな見通しに原因があるのだ! 各自それぞれが良識と道徳を司る選ばれた教育者としての、次世代を担う子供達に自らが学び経験した知識や教養を継承する指導者としての責任と自覚を再確認せよ! 教育において最も大切なステータスは学歴でも成績でも点数でも無い、人間一個人としての精神と人格の完成度である! 自我を制御し社会の秩序を守り、他の存在を認識し互いに共存し合う事によって初めて世界全体のバランスは保たれ、平和と安泰の時代がやって来るのだ!!」
彼女の口から発せられるその言葉一つ一つには、太古の昔に神が私達人類に定め授けた戒律の一文をも彷彿とさせる神秘的な重厚感に満ち溢れていました。
各派宗教学に精通し数ある聖書を熟読した私ですらも完全に圧巻されてしまい、自らの論理を勇敢な態度で展開する彼女の姿は私の目にとても力強く、そして美しく映り、まるで神により遣わされ地上に降り立った新世界の預言者の様でした。
それは私自身が以前から彼女の生き様に憧れ尊敬している人間の一つだったからという事もありましたが、それくらいこの時の彼女の姿は眩く輝いて見えたのです。
「この世界は各地で隣接する、或いは国交を契ったそれぞれ国々が平安と秩序を守り、一つの集合体としての微妙なバランスを維持している事を決して忘れてはならない! どこか一つが身勝手な行動を起こせば保たれていたバランスは脆くも崩れ、そこから生じた歪みは我々の脅威と化し、平和の時代は確実に終焉を迎え世界は混沌の渦へと呑み込まれてしまうだろう! 各個人一人一人の思考や行動がどれだけ周囲に対し重大な影響を及ぼすか、我々人類はいよいよ思い知らなければならない! 過去の教訓に習い同じ愚かな過ちを繰り返さない為にも! 先駆者達が祈り託しやっと手にしたこの平和と安泰を次世代にも継承し、未来永劫まで人類の繁栄を願う為にも! 各自が今一度、人間としてあるべき理想の姿を取り戻さなければいけない時代がやって来たのだ!!」
そして、私がこれまで人生の中で一番強烈な感銘を受けたあの『箴言』が彼女の口から発せられたのです。私がこれまでに学習し蓄えてきた知識や教養、それにより完成されたはずの人生概念すらも全て塗り替えてしまった、あの言葉が……。
「国も政治も教育も、経済も物流も生活も、どんなに近代化が進もうと全ては人が動かし人が支えているのだ! それ故に、国家レベルにおける急速な人材の育成強化と個人一人一人の徹底的な思想改善の努力が今現在の国際社会に必要不可欠なのだ!!」
「……思想、改善? それは一体、何? 教えて、私達はこれからの時代をどうやって生きていけばいいの……?」
私の問いかけに応える様に彼女がスッと右手を掲げ天井を指差した時、偶然か或いは必然だったのか、外からの暮れかかった夕日の明かりの帯が窓から彼女に差し込み、その姿を煌々と照らしました。それはまるで後光が差した様に眩く光り輝き、私は目の前で繰り広げられている光景が果たして現実なのか夢なのか、はっきりと判断出来なくなるほど感情が高揚してしまいました。
「良く聞け人類達よ! この世の生を受けた人間は誰もがその生まれてきた役目を全うしなければならないのだ! 『一個人こそは、一国家』である!!」
「……一個人が、一国家……?」
彼女が主演を務め全ての演出を手がけた驚愕の歌劇の舞台はいよいよ佳境を迎え、迷走する日本の教育の在り方と人間の存在意義の核心に迫る最大の見せ場を迎えます。私を始め、会場内の人間達はすっかりそれを今か今かと待ちわびる観客と化していました。まるで、主に教えを乞う迷える羊達の様に。