ワルキューレの騎行
この作品は現在連載している『Be ambitious!!』からのスピンオフ作品となっております。
時期設定は本編の第49話から第55話までの間の頃で、主要キャラクターの一人である松本翼の母親、松本美香が仕事の為にある小学校に訪れた時に遭遇した出来事をまとめたお話になっております。
筆者自身が今までに書いた事のない難解な問題に足を踏み込んでしまった今作品、どうぞ寛大な温かい目線で読んで戴けると幸いです。
宜しくお願い致します。
鈴婆こと森川鈴子が波乱万丈の人生の末に大往生を遂げる。
その訃報を聞いた三人の中心的人物、渡瀬虎太郎はふと鈴婆との最後の思い出になったその五年前の出来事を振り返る……。
内容は酷く脱力した大バカコメディーになっておりますので、本編を知らない方でも楽しめるかと思います。
若干長い作品ですが宜しくお願い致します。
演説、それは観客を魅力し熱中させる人類史最古のパフォーマンスであり、地球上の生物で唯一言葉を操る人間だけが天から授かった意志の表現方法です。しかし、それは反論の余地すら与えないほどの圧倒的な言語力と確かな知識、豊富な経験、そして何より人々を感動させる熱い情熱がなければ、世間から拒絶されるどころかその演説の場に立つ事すら叶いません。世を悟り、人生を見極めた者のみこそが許された権力の象徴の場なのです。
これは私、松本美香が県立青少年センターで行われる教育問題に関する講演会に出席する為に茨城県を訪れた時のお話です。ゴールデンウイークの三連休の一日目に県内に入った私は少し観光をして英気を養い、二日目に予定の講演会場へと向かいました。
「……現在、日本の教育環境は崩壊寸前、非常に混沌とした暗黒の時代に突入しようとしています、学校内での生徒同士のいじめ、教育者のレベル低下、それに伴う近年の若者による異常犯罪の増加、そして家庭内では母親が自ら愛する子供の命を奪ってしまうといった痛ましい事件も頻繁に……」
大学で世界史を専攻していた私は、世界各国で常に問題視されている宗教・民族対立などを題材にした著書や諸外国でのボランティア活動等が国内の教育機関に認められ、四年前に四十代前半という若さで中央教育審議会委員に選出されました。
「……でも、考えてみて下さい、『教育』とは一体何の為に存在するのでしょうか? 一流企業に入社するのに有名大学に進学する為? 厳しい競争社会を勝ち抜くのに闘争心を養う為? それもあるでしょう、私はそれを否定しません、しかし……」
その活動の一環として、良く各地の講演会や大学の特別講師として招待される事がありまして、日本全国をあちらこちらと歩き回る忙しい毎日を送っています。
「……『教育』とは『命』を学ぶ場なのです、この世界で何よりも尊いもの、それは人の命です、動物、植物、昆虫、全ての命です、『命』を学んでこそ人は『一つのもの』に対し愛しむ心を学び、それに知りたい、近づきたいと思う気持ちから『学習』という行動を取る様になるのです……」
しかし、どんなに大変なスケジュールであろうとも、私は弱気を吐いている余裕などありません。これは私が自分自身で選んだ道であり、世界で今も起こっている対立や差別により苦しんでいる人々の為、そして何より『生きる』という素晴らしさを私に教えてくれた闘病中の夫と可愛い娘達を支えていく為なのですから、辛いなんて言ってられません。
「……勉強が好きな子供なんてほとんどいないのが当たり前なんです、思い出して下さい、皆さんもそうだったでしょう? それは、『教育』が子供達を愛していないからです、愛してくれないものに対して愛してくれと言われても無理なんです、これは国家レベルの教育機関だけの話ではありません、子供達と一番近い場所で接する教育者、そしてお父さんお母さん、皆さんの『愛』が必要なんです……」
もう四年近くも経つと、次第にこの生活にも随分て順応してきました。でも、私も主婦の一人です。自分にだって大切な家族がいます。特に病院で一人残され看護婦さんに鼻の下を伸ばしている新作くんの浮気……。
……うぅん、失礼しました。一人闘病生活を続ける夫や家に残した娘達が心配ですし、とても寂しい思いをさせてしまっていると自分でも承知していますが、これが私の生まれてきた使命なんだと理解して貰えています。
「……どうか、子供達を愛してあげて下さい、子供達に精一杯の愛情を降り注いであげて下さい、そうすれば、子供達は必ずこちらに振り向き私達の話に耳を傾けてくれるはずです……、お時間が迫ってきた様なので、私の演説はこれで終わらせて戴きます……」
ふぅ、今回も何とか無事に講演会を終わらせる事が出来ました。慣れたものとはいえ、やはり毎回緊張します。会場から聞こえてくる拍手と客席の人々の笑顔が私の次の仕事場へと向かわせてくれる一番の栄養剤です。自分の思想に同意をして戴けるという事がどれだけ難しく大変な事なのか、これまでの人生経験で嫌というほど痛感させられてきましたからね。
「……それでは松本さん、お疲れのところを申し訳ありませんが、明日の特別顧問の件も宜しくお願い致します……」
今だから言える事ですが、私はこれまでも国交レベルの人道的保護の為の説得会議や、武装を固めた過激派の宗教団体と人質解放の交渉に望んだ事もありました。我が身の危険を感じた場面もたくさんありました。それでも、私は蓄えてきた知識と必死の交渉で何とかこれらの修羅場を潜り抜けてきたんです。
しかし、そんな場慣れした私でも、今回の件ばかりはどうにもこうにもなりませんでした。
講演会の翌日の三連休半ば、私は茨城に訪れる直前に急遽依頼を受けてある市立小学校の学校側特別顧問として保護者相談会に参加させて戴きました。この小学校では、全国区のニュースでも取り上げられた『ある問題』が勃発していたからです。
「……え〜、ご紹介致します、こちらは文部科学省の中央教育審議会の委員を務められていらっしゃってます松本……」
「そんな事はどうでもいいのよ! 私達は校長やあなた達先生方がどう思ってるから聞いているの!!」
「教育機関の偉い人を呼んだら私達保護者が怖がって黙り込むとでも思ったの!? 冗談じゃないわ、学校利用者をナメてんの!? 誰が学費払ってこの学校を支えてると思ってんの!?」
「部外者なんかに用は無い! 校長、謝りなさい! うちの息子ばかりに不利な成績や勉強内容を押し付けて! すぐに今の担任をクビにして新しい担任をつけなさいよ!?」
そうです、俗に言う『モンスターペアレント』と言うアレです。最近、様々な教育現場で多発している現代特有の社会問題なのですが、特にこの小学校ではそれにより女性教師が一人精神を病み病院送りにされ、初老の男性教頭に至っては先日に自殺未遂事件を起こし全国ニュースになってしまったのです。
「……あの、只今ご紹介に挙がりました松本美香と申します、今回は学校側と保護者様方々との亀裂を修復して親密な関係を築く為に、特別顧問として学校側から依頼を……」
「あんた誰? 何しに来たの? 特別顧問って何様のつもり!? よその人間が口挟む事なんかじゃないのよ、学校側が私達の言う事を利かないからみんな怒ってんのよ!!」
「……いや、ですから、教育の現場では保護者様が仰られる全てのご意見を承る事が出来ない様々な事情も抱えておりまして、それらを踏まえてお互いが納得出来る対話を進行出来る様に……」
「ねぇ、おばさん? こっちはせっかくの連休の時間を作ってわざわざここにやって来てんの、話し合いとか妥協とか有り得ないから!」
「つーか、マジでかったりぃ、早く終わらせて遊び行きてぇんですけど〜?」
「女なんか連れてきて話し合いが進むとでも思ってんのかよ!? 学校はどこまで俺達保護者をナメてるんだ!?」
集まった保護者側には母親と思しき女性が大多数。その世代は私と歳の近い四十代くらいの人から明らかに二十代前半、あるいはまさか十代ではないかと思えるギャル系メイクとファッションをしたヤンママも数人いました。男性の姿もちらちらといましたが、そのほとんどの人が髪の毛を染めた短気そうな怖い雰囲気を帯びていました。
しかしそれ以上に私がこの相談会の場に来て一番驚いたのは、この学校の危機感のかけらすら感じられないずさんな対応でした。
相談会と言う大切な意見交換の会場に用意したのはろくに整備や掃除もされていない廃れた体育館。そこへ無機質にパイプ椅子を並べ自分達は講壇の上から見下ろす朝礼スタイル。
それどころか、保護者側に手渡すべき学校側の理念や改善策などをまとめた資料すら何も用意していない酷い有り様。もちろん、私はすぐに担当者を呼びいい加減過ぎるこの状況を厳重注意しました。
『……これは一体、どういう事ですか!?』
『……えっ? 何かマズい事でも?』
『当たり前じゃないですか!? これは大切な子供達を我々教育者に預けて下さってくれている保護者様を招待しての大切な相談会の場なんですよ!? それを無作為に椅子を並べただけ、資料も説明文も進行プログラムですら準備されていない! こんな粗末な扱い方をされて、あなたがもし保護者側の人間だとしたらあまりに失礼な話だとは思いませんか!?』
『……はぁ、いや、自分は独身なもので、保護者側になって考えてみろと言われてもいまいちピンと……』
『第一、なぜ学校側の人間達が講壇の上に陣取り保護者側を見下ろす様な配置をしているんですか!? 教育者と保護者は常に平等の立場で、同じ目線で子供達を見守ってあげなければならないのに、こんな状態でまともに相談会が出来ると思いますか!?』
『……はぁ、いつも朝礼では生徒をこの様に並べていましたから、同じ様にすればまあ無難かなと思いまして……』
『大至急、保護者がここに到着する前に配置を変更して下さい! 会場そのものを変更するのは流石に今からでは時間が無さ過ぎるでしょうから、せめて学校側の机と椅子を下に降ろして保護者側と同じ目線にして下さい!』
相談会が始まる前に何とか講壇上の机と椅子を保護者側と同じ高さの場所に移動させましたが、私はすっかり呆れてしまいました。保護者が学校に対して牙を剥き出して襲いかかる様になってしまう理由とは、大概のケース最初は学校側に問題があったりするものなのです。
この小学校の騒動も元は生徒同士で行われていた集団いじめを放置し、一人の生徒が登校拒否になってしまった事が発端でした。それでもまだいじめは収まらず、現在問題視されている『学校裏サイト』での陰湿な中傷、そして他の生徒へいじめが連鎖して悪化渦を辿り、最後はいじめ隠蔽をし続けた学校側が事実が公に晒され謝罪する結末になったのです。
『なぜ、うちの子供ばかりが悪い者呼ばわりされなきゃいけないのよ!? そもそもはいじめの温床を作ってそれを見抜けなかったあんた達学校側の責任でしょう!?』
『これでうちの娘までいじめられるようになったらどうしてくれるんだ!? 学校は暴力や差別を教える場なのかよ!? そっちで起こった問題なんだからな、お前らが全部責任取れよ!?』
『家庭内での教育が悪い!? 余計なお世話よ! 人の家庭にまでいちいち干渉する気なの!? うちは共働きだからいちいち子供に構ってる暇なんか無いのよ! 第一、そんな事を言う権限があんた達学校側にあるの!?』
こうなってしまうと、どんなに正論を述べても学校側の言葉に威厳などありません。次々と降りかかる苦情にひたすら頭を下げ続けるのみです。この時点で、平等でなくてはならないお互いの関係は完全にバランスが乱れ、信頼関係は脆くも崩壊してしまうのです。
後はもう雪崩の様に壊滅の道を辿ります。
保護者側の発言力はさらに勢いと横暴さを増し、学校側に注文する要望は次々とエスカレートしていきます。そこに、高額な授業料で高度の学問が学べる学習塾の存在や『お客様優先』という企業社会の風潮も相まって、いつの間にか教育の現場は『教え、育む』の精神から『サービス中心』のスタイルへと変貌してしまったのです。
「学校っていうのは子供達を預かって育てる為にあるんでしょ? その為に先生達がいるんでしょ? だったら子供達が楽しく勉強するのに必要な、保護者の要望を受け入れるのは当然の事じゃないの!? それが出来ないんだったら教育者失格よ、失格!!」
「……確かに、学校とは子供達に必要な教育の場を提供し、教育者は自らが学び蓄えた知識や教養で子供達を指導する為に存在します、しかしですね皆さん、教育の場と言うものは、様々な環境で暮らす子供全員が平等に教養を……」
「ただでさえ厳しい生活費の中からわざわざ学費払って学校行かせてるのよ!? そこからさらに給食費だの遠足費だの頼んでもいない有料サービスをしてお金払わせて、こんなの詐欺よ詐欺! 今まで払った学費全部返しなさいよ!?」
「……ですから、教育と言うものは、学校の中で様々な人との出会いや交流、様々な学術や貴重な体験を得る機会を与える場であって、そこから子供達が人間の命の尊さや素晴らしさに気付き自らの意志で学習を……」
「雑巾ぐらいそっちで用意しろ! 何で雑巾ごときわざわざこっちが用意しなきゃいけねーんだよ!? 俺は女房がガキ置いて逃げちまって、仕事と遊びで忙しくてチマチマ裁縫なんかやってられる訳がねーだろうがよ!? 教科書代も値段が高いし、他の教材も買わせるだけ買わせて後は自発的に勉強しろだって!? 阿漕な商売しやがって、ふざけんじゃねーぞオイ!!」
「……商売だなんて、教育は損得勘定でやっている訳ではありません! その費用は経済的に恵まれていない子供達への援助や、新たな学習設備の設置などに使われるのであって、決して個人や団体の利益になるのではありません! 企業の資金運営とは全く違うものなんです! 教育の場とは、子供達の将来の飛躍への基盤を作る為に必要不可欠なものなんです!」
これくらいのモンスターペアレントなら、私は以前にも別の教育現場で何度か遭遇した事がありました。相手の言い分を認めてしまったら負けです。何しろ、決してへこたれずに説得するしか無いのです。その時は保護者の方々に私達の熱意が通じて、自らが幼き頃に受けた教育の有り難みを思い出して貰え、事態を収拾する事が出来たのですが……。
「ねぇ、おばさん? まだ続けんの? あたし達、もうウンザリなんだけど〜?」
世代交代の流れは思いのほか早いものです。私達が学び育ってきた頃からはすでに一時代が過ぎ去り、日本の教育が綻びが見え始めた飽食の世代を過ごした人間達が子供を産み、親となる時代がやって来たのです。
「つーかさ、うちのガキって学校から帰ってくるとギャーギャー騒いで超ウザいんだよね〜、もう面倒臭いから学校が一日中預かってくれたら良いのにな〜?」
「……えっ?」
「そうそうそう、ガキ持ちだとさ、せっかく合コンで捕まえた男がさっさと逃げちゃうんだよね、マジですっげえ迷惑〜」
「……迷、惑?」
「もうさ、学校も委託所みたいに二十四時間で預かってくんない? 最近、親もガキ預かってくれなくなっちゃってさ、マジ邪魔なんだよ、邪魔! こっちは金払ってんだからそれくらいサービスしろって!」
「マジ? アンタ金なんか払ってんの? バカじゃん!? あたしなんて一銭も金払ってないよ? 全部親持ち〜!」
「毎日仕事して疲れて帰ってきてんのに、休みの日まで子供がドタバタ暴れてこっちはゆっくり寝てもいられねーんだよ! ひっ叩いてやりゃあギャーギャー泣き喚きやがって、面倒臭ぇから日曜も学校で預かってくれよ!?」
この子達にどんなに一生懸命教育の真意を語っても効果などありません。一切の常識、道徳が通用しないのです。これではもう正常な対話を続行していくのは困難、ほぼ不可能です。悲しいですが、この『両親のモラルの低下』こそが今現在日本の教育界が一番頭を悩ます最大の問題なのです。
モンスターペアレント騒動、それは学校側の徹底的な改善と教育者それぞれの意識レベルの向上、そして保護者側『全員』の納得が得られない限り決着はつきません。一度狂いだしてしまったバランスはこの様な大きな勘違いなどさらなる歪みを生み出し、遂には取り返しのつかない最悪の状況に陥ってしまうのです。
「……迷惑とか、邪魔とか、あなた達はどうして自分達の子供達にそんな酷い事が言えるんですか!? 愛する人との間に授かり、自らのお腹を痛めて産んだ大切な宝物でしょう!? それをそんな……!」
「別に、好きで産んだ訳じゃないし〜、できちゃったんだからしょうがねーじゃん?」
「俺も俺も! 前に付き合ってた女がいきなりガキ連れてきて『お父さんよ〜』とか言い出しやがってよ、そんなの知らねーっつーの!」
「つーかさ、あのおばさん一人で勝手に熱くなって何か語っちゃってるよ? キモッ〜! 超ウケるんですけど〜!?」
「……ハァ……」
私がこんな状況でも何とか必死でお互いの歩み寄りの為に保護者側と対話を重ねてある間、学校側の人間達は全員一言も発する事無く沈黙を保ったままでした。数人の教師はこれ以上物事が大きくなるのが怖いのか下に俯き、校長に至っては無責任にも腕を組んで大あくびをしている始末です。
「……校長」
「……ファアァ〜……」
「校長!」
「……フェッ! は、はい?」
「学校側のこれからの対策として、先程までの保護者側の要望にどうお答えするおつもりですか? どうかこの場でこの学校が生まれ変わる為の新たな教育方針と環境改善の具体策案を皆さんに説明して下さい!」
「う〜ん、まあそうだね〜、どうしようかね〜?」
「……校長?」
「あぁ、そうだ、あなた中央教育なんたらの役員さんなんだっけ? 結構な美人さんだし、だったら全部あなたにこの学校の事を一任しますよ」
「……はぁ?」
「えっ? だって、何とかしてくれる為にあなたがここに来てくれたんじゃないのかい? 私はここで座って見てるだけでいいと聞いとるけどね? お〜い担当、違うのか? 対策ってのは私達がいちいち考えなきゃいけないのか?」
「……そんな、そこまで腐敗してるなんて……」
「しかしあなた、見れば見るほどスーツ姿が良く似合ういい女だね〜? 結婚はしてるのかい? お子さんはいるのかい? 旦那にはちゃんと満足出来てるのかい? エヘヘ」
「………………」
それでも、学校側に少しでもこれらの苦情に対して問題を解消しようとする行動や対策があれば何とか改善する事は出来たでしょうが、残念ながらこの学校にはその様な動きは全くと言ってありませんでした。学校そのものが教育現場として完全に『死に態』として化してしまっていたのです。
「うちの子が他の生徒に向かって椅子を投げたって言ってるけど、そんなの子供が持ち上げられるほど軽い椅子なんか使ってるから悪いんじゃない!? 家庭でストレスが溜まっていた反動とか勝手に理由つけて、何でもかんでもこっちのせいにしないで貰えます!?」
「うちの子は算数のテストで八十点以上取ったのに、何で通信簿の成績が悪くなっているんだ!? 授業態度が悪いくらいで成績を落とすなんておかしな話だろ!? 塾でしっかり勉強しているんだから、学校の授業くらい友達と喋ろうと立ち歩いたりしようと自由だろうが!? 担任は金でも貰って生徒を差別してるのか!?」
「給食にお米なんか出さないで下さい! 我が家では娘を外国人に育てたくて英会話教育に通わせているんです! だから三食全てパン食って決めているんですから、余計な真似しないで下さい!! こんな事じゃ給食費なんてとても払えません!!」
「うちの子は特等クラスで個別授業を受けさせてくれって言っているザマスのに、他のレベルの低い子供達と一緒のクラスにしないで戴けないザマスか!? うちの子は将来政治家になって国を動かす要人になる人材ザマスのよ!? もっと有能な教師を集めなさいザマス!!」
「あの子が引き籠もりになってパソコンに夢中になったのは、全部パソコン授業なんてものを始めた学校のせいよ! だから、責任取って家まで車で迎えに来て部屋から引きずり出してよ! ちなみにタクシーなんて呼んでもこっちは一銭も料金払わないわよ!!」
……もう、こうなってしまってはどうする事も出来ません。学校に通う生徒の親全員が完全にクレームの怪物と化してしまっていました。それはまるで、伝染した人達が次々とゾンビ化して襲いかかってくるホラー映画のワンシーンの様でした。
「部外者なんかに用は無い! 今すぐここから出てけ!!」
「そうだ! お前なんか誰も呼んでない! さっさと出てけー!!」
「出てけー!! 出てけー!!」
「……もう、この学校はダメ……」
私が唯一出来る事はこの絶望的な状況を中央教育審議会に報告して、議会の決定に基づき抜本的な学校内の環境改変を施す事ぐらいしか方法がありません。つまりそれは、最悪の場合にはこの学校の閉鎖、教育機関としての資格を剥奪するという絶望の結末を迎える可能性があるという事です。
今現在、他にも全国にはこの学校の様に崩壊寸前に追い詰められている教育現場がたくさんあります。実際に文部科学省や県教育審議会が直々に手を下さざるを得なかったケースもあったそうです。しかし、私達はこの様なやり方でしか日本の教育界を救う事が出来ないのでしょうか?
私は夫、松本新作に出会って改めて人生の素晴らしさ、世界の広さ、そして教育の大切さを知る事が出来ました。その感動を少しでもたくさんの人と分かち合いたくて、著書執筆や援助活動などに全ての精力を振り絞り頑張ってきました。しかし、最近わからいんです。私の歩む道はこれで正しいのかどうか。この様な悲痛な光景を見る度に、自分の自信が失われていく気がするんです……。
「……やっぱり私みたいな人間ごときが未来の子供達の為に何かしてあげられるなんて、到底無理な話だったのかな、新作くん……?」
このまま、日本の教育の現場は滅亡の末路に向かって進んで行くのでしょうか? 日本の子供達の未来に果たして光の一筋は差し込んで来るのでしょうか? そんな憂鬱な気分に胸を締め付けられていました。
その時です、私は突然何やら妙な胸騒ぎと冷たい何かが背筋を走る感覚を覚えたのです。
「……何? これってまさか、あの時と同じ……?」
「……松本さん、どうされました? 顔色が宜しくないみたいですがご気分でも悪くなされましたか?」
昨日の講演会場から案内役をして下さっている学校の担当者が、私の顔を覗き込み心配そうな顔をしていました。それほどその時の私の様子は尋常に見えたのでしょう。しかし、この胸騒ぎは決して急病でもストレスによるものでもありません。私は以前にも、言葉では表し様のないこの不思議な胸騒ぎを感じた覚えがあったのです。
「……私の、他には……?」
「……はぁ?」
「……私の他に、誰かをここに呼んでいたりしていませんか!? 誰か他に、顧問として部外者を……!?」
「あっ、は、はい! 念には念をと思いまして、知り合いを通じて近年設立された有名中高一貫学校の出資者の一人である実業家の方を紹介して貰いまして……」
「……実業家?」
「はい、女性の方でファッションデザイナーとして大成功を収めた方と聞いております、そしてその方から偶然にもこの連休中に海外から日本に帰国してくる大物女性著名人がいらっしゃると聞き、是非ともご一緒にこちらの相談会の顧問を依頼したのですが、少し到着が遅れると連絡がありまして……」
「……あの、まさか、その女性デザイナーって、三島……?」
「あっ、はい、そうです! 三島千春さんと仰られてました! 松本さんもご存知でしたか!? どうも三島さんの言う著名人というのは、当人の昔からのご親友らしくて……」
「……ご親友? まさか、まさか……?」
「……松本さん?」
「……この感覚、あの人が、あの人がここに……」
「……あ、あの、松本さ……」
「どうしてそんな大切な事を事前に報告してくれなかったんですか!?」
「……は、はぃ!?」
その時、暴徒と化した保護者達が喚き立つ体育館の入り口の扉がガラガラと音を立てて開き、外から長く綺麗な髪をかきあげながら派手過ぎる真っ赤なレザージャケットと胸の谷間がパックリと開いた大胆へそ出し黒シャツ、ピッチピチフィットのローライズジーンズに身を包んだ場違いな女性が姿を現した。
「あ〜んもう、あっちこっちホコリ臭くってイヤイヤ! 何かもう会場内もギスギスした雰囲気で超Bat Feeling〜!? 地方の学校ってこんなボロボロの時代遅れなダッサいデザインしてるのね〜、もうNon sense! 最っ低! お化け屋敷みたい! こんなんじゃとても子供達のやる気向上は見込めないわよね〜!?」
「ちょ、ちょっとねぇねぇ!? もしかしてあの人って、あの三島千春じゃない!?」
「嘘っ!? あの『ミシマ』ブランドの三島千春!? マジでぇ!? 何で、何でこんな所にいるの〜!?」
ファッションにうるさいヤンママ世代や本人と年齢の近いアラフォー世代の女性達は、突然のファッション界のカリスマの登場にさっきまでの憤慨も忘れすっかり憧れの眼差しで一点凝視。数人いる男性陣も完全に鼻の下が伸びきり骨抜きになっていました。私も千春と会うのはお互いの娘達の高校の入学式以来でした。
「いや〜ん、痛いほどの視線が集中しているのをビンビン感じるわ〜! どう、綺麗でしょ? 素敵でしょ? セクシーでしょ? みんな、もっと見て見て〜!?」
「……ねぇ、千春? とりあえずここは学校だから、あまり場違いな行動は自粛してくれるかな……?」
「あっれ〜、美香? 美香じゃ〜ん!? うっそ〜、これって超偶然!? もしかして教育審議会のお仕事でここに来たの〜? お疲れちゃ〜ん!」
「……お、お疲れちゃーん……」
正直この時、千春に手を振る私の顔はかなり引きつった愛想笑いをしていただろうと思います。今の今までとりあえずは教育の第一人者として熱弁を奮っていた今までの努力が、一瞬の内に彼女にその場を奪われてしまった訳ですからね。いい気分ではありません。悔しいと言うより、ちょっと不甲斐ない自分が惨めになりました。
しかし、それよりも私が気になって仕方なかったのは、千春が連れてくると言った海外からの帰国者の存在。そしてその人物の存在こそが私の胸騒ぎの原因。千春の昔からの友人と言ったら、頭の脳裏に浮かぶ人物像はあの『氷の女王』以外に有り得なかったのです。
「……担当さん、あなたって人は……」
「えっ? 何かマズい事でもしましたか!? 私、何か松本さんの顔に泥を塗る様な事でも!?」
「……あなたは、とんでもない人物をここに呼び寄せてしまったんです、ここにいるモンスターペアレント達よりも何百倍も驚異的な、世界中の要人達すらも震え上がらせる本物の『怪物』、いや、『神』にも近い存在がここに降臨してしまったんです……」
「……本物の、怪物? 神の、降臨……?」
その会話の直後、あれだけ熱く騒ぎ立てていた会場全体は一気に氷点下になったみたいに強烈な寒気に包まれ、その空気を感じ取った保護者始め学校関係者の人間達は凍りづけにされた様に固まり静まり返ってしまいました。
「……千春、前座はそれまでで結構よ、アンタは下がって静かにしてなさい」
「Yes! じゃあ、後はお任せしちゃうよ〜ん!」
その人物は千春の後から静かに体育館の入り口から会場内に入ってくると、旅行用の大きなアタッシュケース二つを入り口付近に立て掛け、コツコツを震え上がりそうな冷たい足音を立ててこちらに向かって歩いて来ました。
必要以上に着飾らないスタイルはあの当時のまま。薄い化粧にトレードマークの真っ白な仕事着用の白衣、黒いフィットスカートにローヒールのレディーシューズ、そして片手には門外不出の謎の黒いノートファイル(それをデスノートと呼ぶ人もいます)。
会場全員の視線は千春からその女性に移り、何事かとその一挙一動に釘付けとなってしまいました。それは私とて例外ではありません。群集の中央を堂々と通って進むその姿は、正に『女王』の名称に相応しい圧倒的な存在感でした。
「……あぁ、そうそう、千春? 荷物の見張り役も忘れちゃ駄目よ、しっかりよろしくね」
「Don't worry! Leave it to me!」
「もし盗まれたりなんてしたら全額弁償して貰うから覚悟しなさい? 勿論、慰謝料もきっちり込み込みでね」
「Oh,my god! ふぇ〜ん、怖いよ〜!? 絶対に盗まれないように頑張って見張りま〜す!」
あの三島千春でさえも軽く手懐け雑用扱いさせる絶対的存在。私は良く知っていました。この人の怖さを。この人の力を。この人の偉大さを。そして、私の脳裏にあの時の記憶が蘇ります。この人の口から発せられただった一つの言葉により、世界中の人々の人生観と価値観が丸ごと塗り変えられてしまったあの日の記憶が……。
「……あ、あの、保護者の皆様、ご紹介致します、今回の相談会の特別顧問として松本さんと共に我々学校側がご招待致しました……」
彼女はすれ違い様に震え上がる私の姿を確認すると一瞬ニコッと笑いかけてくれました。しかし、刹那に再び冷たく険しい表情に戻ると担当者からマイクを取り上げ、一片の迷いも無く講壇に上がり眼下の群集に対して静かに語り始めたのです。
「……渡瀬麗奈です、どうぞよろしく」
正に嵐の前の静けさでした。まさかこの数分後、日本のこの茨城県の一つの小さな小学校の体育館から世界中に向けて、ホモ・サピエンス誕生から十五万年続く全人類の歴史とその歩みを紐解き、我々に人間の概念と意義を説く驚愕なメッセージを含んだ『世紀の大舞台』が彼女の手によって再び繰り広げられる事になろうとは、一体神以外に誰が想像出来ていたでしょうか……。