~2014年 5月5日~ その②
緊急のカテーテル治療は、大きな問題もなく進んでいた。
幸いなことに、患者の状態は安定している。X線診断装置のモニターを見ていると、左右ある心臓の血管のうち、左の血管が入口で狭くなっていた。典型的な心筋梗塞だった。
「順調ですね。このまま終わってくれればいいんですけど」
「そうですね」
雨宮は答えながらイスから腰を上げる。そして、放射線の防護衣を身に着け始めた。そんな雨宮のことを、女性の技士は首を傾げながら見ていた。
「……念のためですよ」
言い訳するように雨宮は答えた。
カテーテル室のほうでは、治療が重要な場面へと差し掛かっていた。北部長と若い二人が立ち位置を変えていて、今は新人の二人が中心になって治療が行われている。血管にカテーテルを導くための細いワイヤーのような器具、……ガイドワイヤーの進みが悪いのか、何度も首を傾げていた。
……何となく嫌な予感がしていた。
雨宮は自分の疑念を打ち消すように、モニターを見つめる。心臓の血管に入った細いワイヤーが、狭くなったところから先に進んでいなかった。
その瞬間。わずかな違和感を覚えた。
そして、それ見つけてしまった。
「っ!」
同時に、雨宮は叫びながらカテーテル室に走り出した。
「穿孔です! ガイドワイヤーが冠動脈を貫いています!」
突然の雨宮の闖入で、若い医師は目を見開いたまま立ち尽くす。
だが、すぐさま隣に立っていた北部長が、乱暴に二人を突き飛ばした。カテーテル治療の道標であるガイドワイヤーで、心臓の血管を傷つけてしまっていたのだ。
「……」
北部長が慎重に、手元のガイドワイヤーをゆっくりと引いていく。
緊張感に包まれた沈黙が、カテーテル室を包む。
そして、わずか数秒後。
警報のような音がカテーテル室に鳴り響いた。
雨宮は慌てて、画面に表示されている心電図を見る。一定間隔で刻まれていたはずの心電図が、のこぎりの刃のようになっていた。
……やばい!
「VT(心室性頻拍)です!」
「除細動を持ってきて! 早く!」
雨宮は看護師に指示を出しながら、棚にある滅菌ガウンを手に取る。
「IABPを準備! それから他の先生に応援を呼んで!」
看護師の手を借りて滅菌ガウンを着る間、北部長は心臓マッサージを続けていた。カテーテル台は高い位置にあるため、両手での心臓マッサージができない。齢60になるとは思えない、片手でのパワフルな心臓マッサージだった。
「サチュレーションが下がっています!」
「酸素10リットル! 誰か来たら挿管して人工呼吸器に繋いで!」
カテーテル室は騒然としていた。
浮き足立った空気が、カテーテル室のスタッフを焦らせようとしている。
だが、そんな状態でも。冷静を欠いている人間などいなかった。全員が、まるで訓練された軍人のように、無駄のない動きで対応してみせる。呆然と立ち尽しているのは、若い二人の医師だけだった。
「除細動、準備できました!」
「ショックするよ。皆、離れて!」
北部長が患者から手を離して、応援にきた医者が除細動装置のボタンを押す。
ばんっ、という音と共に、患者の体が一瞬だけ浮き上がった。
「心電図は!」
「戻りました! 心拍数40台、血圧85!」
「呼吸も大丈夫です。サチュレーション94%」
「このまま治療するのは危険だ。止血できたらICUに戻すよ!」
北部長が看護師たちに指示を出していく。
雨宮は迷いのない手技で、北部長の補助に入っていた。患者の体からカテーテルを引き抜いて、手早く止血してみせる。
「患者、移動できます」
「ICUに電話して。あと10分で移動するよ」
北部長は滅菌ガウンを脱ぎ捨てて、患者を移動のための準備に移る。全ての準備が完了し、ICUへの移動を開始したのが、その8分後。カテーテル室のスタッフ総出で、患者を移動させる。
ICUへ入ると、看護師たちが慌ただしく迎えにきた。
「場所は?」
「8番ベッドです」
ナースステーションの正面にあるベッドだけが空いていた。雨宮は患者を8番ベッドに移動させると、看護師たちに細々と指示を出す。頭のほうに置かれたモニターに、患者の心電図と血圧が表示するのを見てから、雨宮はようやく息をついた。