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~2014年 5月5日~

~2014年 5月5日~ 


「それでは、変わったことはありませんね」

「……はい。大丈夫です」

 火曜日の朝9時。

 雨宮は回診するために3階の特別個室に来ていた。個室の患者である柊未羽は、雨宮の質問に小さく頷きながら答えている。

 未羽がこの病院に来てから、1週間が経っていた。それまでに大きな変化はなく、検査データも安定していた。

 だが、良くなっているわけではない。レントゲンやCT画像で見た心臓は相変わらず異常な形をしており、血液検査も心不全の程度を示すBNP値が異常値を示していた。

「以前も言いましたが、院内であれば自由にしてもらって構いません。ですが、激しい運動や重いものは持たないように」

「……はい。わかっています」

 未羽が小さく頷く。

 だが、この少女を病室以外で見たことは一度もなかった。他人の迷惑になることを恐れているのか、部屋から出てこようとはしない。雨宮は未羽の膝の上にある写真集を見ながら、彼女について考えていた。

 何か楽しい話題はないものか、と。


「柊さんは、どこか行きたい場所があるのですか?」

「えっ?」

 未羽が驚いたように雨宮のことを見上げた。

「写真集ですよ。その本に載っている場所で、どこか行きたいところはないのですか?」

 そんな雨宮の質問に、未羽の表情は一転する。

 暗く沈んでいた顔色が、ぱっと笑顔になった。大きな目をさらに大きくさせて、身を乗り出すように体を近づける。

「わ、私は」

 しかし、そこまで言いかけて、未羽は止まってしまう。

 そのまま小さく肩を落としながら、何かに耐えるように俯いた。

「……別にありません。私は、何もいりません」

 未羽が感情を押し殺したような声で答えた。

「そうですか」

 雨宮も淡々と答える。

 ……どこまでも自分の意見を言わないんだな。

 思わず溜息をつきそうになる。その時だった。雨宮の白衣のポケットが小刻みに震えだした。マナーモードになっている院内用のPHSをポケットから取り出すと、耳元に当てる。

「はい、循環器内科の雨宮です」

「北だ。忙しいところ悪いね、雨宮君」

 電話の相手は北部長だった。

「これから胸痛の患者が緊急搬送されてくるのだけど、手を貸せるかい?」

「大丈夫です。すぐ向かいます」

 断る理由などない。そのために雨宮は病院に勤めているのだから。

 通話を切って、PHSをポケットにしまう。そして、こちらを見上げている未羽に軽く頭を下げた。

「すみません。急用が入りました。これで失礼します」

「……お仕事ですか?」

「そうです。回診は、また後で来ます」

 未羽に断りを入れてから、雨宮は特別個室を飛び出した。

 白衣のボタンを外しながらICUの脇を通り過ぎて、カテーテル室を目指す。

 ICUは急患の対応に追われていた。ベッド移動。点滴台の用意。病棟スタッフとの連絡。時には厳しい声をまき散らしながら、看護師たちが準備を進めていく。

 そんな彼らの声を背中に感じながら、雨宮はカテーテル室へと入っていった。


「おう、悪いね。雨宮君」

 既にカテーテル室には多くのスタッフが集まっていた。看護師、放射線技師、臨床工学技士。部屋の真ん中にいるのは、術着を着た北部長。そして、同じように術着を着た2人の若い男。去年、入職したばかりの新人の医者たちだった。

「今日はこの2人に、僕のサポートをやってもらおうと思っているんだ。雨宮君は、何かあったときの保険だ。急がせたのに悪いね」

「いえ、大丈夫です」

 雨宮は若い2人の医者を見る。今年で2年目なので、年齢的には雨宮とさして変わらない。だが、医療的な技術では、経験を積んでいる雨宮のほうが格段に高い。雨宮は自分の防護衣を手に取ると、近くのイスの背もたれにかけた。

 カテーテル治療は血管の状態を見るために、X線診断装置と造影剤を使用する。そのため、カテーテル室に勤務するスタッフは全員、放射線の防護衣を身に着けなければならない。防護衣には鉛が編みこまれていて、これがかなり重い。初めて着たときは1時間ほどで足が震えてしまったほどだ。雨宮はいつ呼ばれてもいいように、防護服をかけたイスに腰掛ける。

「患者、来ました!」

「通るよ! 道を空けて!」

 10分後。ストレッチャーに乗せられた患者がカテーテル室に運ばれてきた。緊急搬送のためか、患者は私服のままだった。ストレッチャーは雨宮の前を通り過ぎて、カテーテル台に横付けさせる。かなり高齢の男性だった。カテーテル台に移された患者は、声にならない呻き声を上げている。すぐさま、患者の服はハサミで着られて、足の付け根を消毒。その上に滅菌シーツをかけられた。

「AMI(心筋梗塞)ですか?」

「さぁね。心電図では疑わしいけど、こればっかりは見てみないとね」

 防護衣に身を包んだ北部長は腕を組んで、若い医者の2人を見守っていた。

 心筋梗塞とは、心臓の周りにある血管が詰まってしまう病気のこと。一刻も早く血流を再開させないと、患者の命に関わる危険なものだ。

 雨宮はカテーテル室の外に出ると、天井から吊るされているディスプレイを見つめる。そこには心筋梗塞特有の心電図が表示されていた。

「……落ち着かない」

 イスに浅く腰掛けながら、雨宮が呟く。自分が優れているという自惚れはないが、少なくとも目の前の新人たちよりは手早く準備できる自信があった。

「雨宮先生。少しは落ち着いたらどうですか?」

 隣に座っている女性の臨床工学技士が声をかけてくる。心電図のモニターをじっと見つめて、変化があると機械を操作して記録していた。

「先生が全部やってしまったら、新しい人は育ちませんよ」

「俺はそこまで優秀じゃないですよ」

 雨宮は答えながら、カテーテル台に立つ若い2人の医者を見る。急患の対応は初めてなのだろうか。妙に浮き足だっているように見えた。こればっかりは経験が必要だ。

「そういえば、臨床工学技士の新人はどうですか? そろそろ1人でも仕事を任せられそうですか?」

「あぁ、あの新人なら辞めましたよ」

「……2人いたと思いましたが」

「2人ともですよ。1人は体を壊して先月の始めに退職。もう1人は、実家に戻ったきり帰ってきませんでした」

「……そうですか。人手がいなくなって、臨床工学課も忙しくなりますね」

「新人が辞めていくのはいつものことですよ。そういう私も、この緊急カテーテルが終わったら長野の実家に戻らないと」

「何か用事でも?」

「昨日、祖父が死にました。とりあえず通夜だけは顔を出して、明日には病院に戻ってくる予定です」

 女性の技士は表情を変えることなく、モニターに表示させている心電図を凝視している。

「……なるほど。忙しそうですね」

「えぇ。忙しいです」

 それっきり、2人は黙ってしまう。

 今、この場に必要なのは、家族のことを想う人間ではない。機械のように正確に仕事をこなしていく人間だ。人の心を残しているうちは、ここでの仕事は務まらない。趣味を捨て、休日を諦め、人生さえ見知らぬ患者のために捧げる。

 人である必要はない。

 むしろ、人であってはいけない。

 休むことを考えてはいけない。

 楽をすることを考えてはいけない。

 機械のように、壊れるまで働き続ければいい。

 ……それが求められる場所だ。

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