~2014年 4月28日~ その③
「なぁ、どうだったよ?」
榊の質問に、雨宮が問い返す。
「何の話だ?」
「惚けるなよ。未羽ちゃんだよ。今日の昼前に、会いに行ったんだろう?」
未羽ちゃん、と言われても雨宮はピンと来なかった。しばらく考えて、今日から担当になった患者の名前を思い出した。
「病棟中の噂になっているぜ。すごい可愛い子なんだってな」
「知らん。患者の外見に興味はない」
雨宮は電子カルテに体を向けるとキーボードに手を伸ばす。雨宮は人の顔を覚えるのが苦手であった。顔で判断するよりも、CT画像やレントゲンのほうが患者の判別ができるほどだ。
……それでも雨宮の頭の中には、彼女の笑みが浮かんだままだった。
「だから、お前のそういうところが良くないと言っているんだ。たまには、いつもと違うものに目を向けろよ」
「そこまで言うのであれば、榊が担当になればいい。北部長には俺から話を通してやろう」
「はっはっは、冗談はやめてくれ。俺には荷が重過ぎる」
榊が軽快に笑いながら、イスの背もたれに体重を掛ける。
雨宮と榊がいるのは、ICUのナースセンターだった。
ナースセンター内には楕円形の机とイスが置かれており、その場所を囲むようにカウンターで仕切られている。ICUの全てのベッドを一望できる場所でもあった。
「それに俺は、自分の受け持ちの患者で手一杯だ」
榊が顎をしゃくりながら、ICUの8番ベッドを指す。そこには2日前の夜に緊急手術をした年配の女性が横たわっていた。今も多くの医療機器のおかげで、なんとか命を繋ぎとめている。だが、目を覚ますどころか、心臓が動き出す気配もない。
「外科部長の話じゃ、今夜一杯までは家族の希望に沿う予定だってさ」
「そうか」
雨宮は小さな声で呟く。
つまりそれは、明日になればICUを出て行ってもらうことを指している。
常にICUが満床状態であるこの病院では、回復の見込みのない患者をいつまでも置いてはおけない。新しい患者は、次から次に来るのだ。
「じゃあ、明日の朝までか」
「そうだな。そのときは俺が機械の電源を切ってやるさ」
「……辛い役回りだな」
「ははっ。俺は医者だぞ。同情は患者だけにしてやれ」
榊はいつもと変わらない、自信に満ち溢れた笑顔を浮かべる。そんな表情のまま立ち上がって、8番ベッドへと向かっていった。すぐ側にいる家族に頭を下げてから、患者の横に立つ。
痩せこけて、土色に変わってしまった患者に、榊は何を語りたかったのか。ここからでは分かるはずもないが、その表情からある程度は察することができる。……お疲れ様か、……あともう少しだ、だろう。
そんな榊が、患者の額に手を置いた。
そして労わるように、優しく触れていく。
たったそれだけ。
それだけの行為だった。
変わり果ててしまった患者を労わる医者の姿を見ただけで。家族は泣き出してしまった。周囲の視線など気にする素振りも見せず、わんわんと泣き続ける。
雨宮の知る限り、家族の初めての涙だった。
「……手術は患者のためにあるのではなく、家族のためにある」
いつしか酒に酔った榊が得意げに言っていた。
どんなに危険な状態でも、手術を選ぶには理由がある。
たとえ、手術後に目を覚まさなくても。
たとえ、死期を2日だけ遅らせただけであっても。
家族の前には、確かに患者は生きているのだ。
家族が患者と別れるための時間を作ってやる。それもまた、外科医の仕事なのだと。
「……同情は患者にしてやれ、か」
雨宮は、3階の特別個室にいる少女のことを思い出しながら呟く。
それから、10分後。
榊の手によって、患者に取り付けられた全ての機械のスイッチが切られた。
心電図を表示していたモニターがまっすぐになり、呼吸は音もなく止まる。
もう、動かない。
19時27分。
また1人、患者が死んだ。