~2014年 4月28日~ その②
それからしばらくの間、北部長は未羽に話かけていた。
それは医療的なことよりも、ごくありふれた普通の会話だった。体調のことだったり、天気の話だったり、群馬県の名産についてだったり。しかし、いくら北部長が話しかけても、少女は小さく頷くだけだった。
柊未羽の病室に来てから十分ほどしただろうか。北部長の額からじんわりと脂汗が浮き出てきた頃、病室の扉がゆっくりと開いた。
「あぁ、先生。いらしていたのですね」
そこにいたのは初老の男性だった。
身なりをきちんと整えていて、ブランド物のスーツに身を包んでいる。北部長の前でも堂々とした態度で、わずかに威圧感のようなものを発していた。
一言で片付けると、厳しそうな印象を持つ男性だった。
「私は、柊ひいらぎ葉蔵ようぞうという者です。この子の祖父です」
「あっ、未羽さんのご家族ですか」
ほっ、とした顔で北部長がそちらを見る。
「ちょうど良かった。これから治療方針について、お話をしようかと思っていたところです」
「そうですか。それでは別の部屋で聞きましょう」
葉蔵はそれだけいうと、病室の扉を開いて部屋から出て行こうとする。
そんな彼を、北部長が慌てて引き止めた。
「ちょっと待ってください。ご本人と一緒に聞いてもらいたいのですが」
「必要ありません。孫のことは私が決めます」
葉蔵は冷たく言い放つ。
その目はまるで、睨みつけるような視線だった。
「これからも孫には何も言う必要はありません。病気のことも治療のことも、全て私が決めます」
「……それは本人の意思ですか?」
「私の意志です。何か問題でも?」
葉蔵はあからさまに不満そうな表情を浮かべる。訝しむような視線は、雨宮たちを警戒しているようにも見えた。
……お前たちのことを信用していていない。そう言われているような気がした。
「それでは部屋の外で待っています。なるべく無駄な時間をかけないでください。私は忙しい身なので」
北部長が何も答えられずにいると、そのまま部屋の外に出て行ってしまった。
なんともいえない重苦しい空気が病室を包む。
「……ふぅ」
雨宮の隣で北部長が静かに息を吐く。
頭をかきながら、葉蔵が出て行った扉をじっと見つめる。その表情から、面倒な患者が来た、といっているのが見て取れた。
「それじゃ、僕はご家族と話してくるから。雨宮君は問診をしてくれるかい」
「わかりました」
「くれぐれも失礼のないようにね」
「はい」
北部長は念を押してから、病室から出て行った。
雨宮はそんな北部長を見送ってから、これから自分の担当となる患者を見る。白いベッドの上で背中を丸めている、彼女のことを。
「柊さん。これから問診を始めます」
「……はい」
雨宮の声に、未羽はわずかに頷く。
「今日までに、胸が苦しくなったことはありますか?」
「……大丈夫です。ご心配をかけてすみません」
「息が苦しくなったり、眩暈や吐き気などは?」
「……大丈夫です。ご心配をかけてすみません」
雨宮の眉間に皺が寄る。
「何か希望などはありますか? 我々にできることがあるなら言ってください」
「……何もいりません。大丈夫です。ご心配をかけてすみません」
未羽は俯いたまま呟く。答えるときも常に下を向いたままだった。
雨宮は天井を仰ぎ見る。
そして、ひそりと溜息をついた。
……まるで人形だな。
今までも家族の言われた通りに生きてきたのだろう。一人で病室に閉じこもって、周りの人に迷惑をかけないようにして。自分の気持ちを言葉にすることなく、決してわがままを言うことなく。小さくうずくまって生きてきた。そうやって、時間が過ぎていくことに耐えてきたのか。
そんなことを、雨宮は思う。
この小さな少女には、特別個室のベッドは大きすぎる。白いシーツが彼女の全てを覆い隠しているようだ。それだけではない。人が生きているというのに、なぜこうも生活感がないのか。長期の入院だというのに、私物がなにも置いていない。このベッドの上だけが、彼女の居場所とさえ思えてくる。
「ん?」
そんなときだ。病室を見渡していた雨宮の目が、本棚の一箇所に止まった。
二段式の本棚にアクリル製の引き戸がついている。その中は、ほとんど空っぽになっているが、ひとつだけ明らかに私物とわかる本が入っていた。
……ピラミッド。
……モン・サン・ミシュル。
……ヴェネツィア。
背表紙に書かれた文字を、1行ずつ読んでいく。
本棚に入っていたのは、1冊の写真集だった。ハードカバーの装丁の中に、世界の風景が切り取られている。入院中の暇を潰すには、少しばかり風変わりであった。
「……世界遺産?」
「えっ?」
目の前で小さな声がした。
雨宮が視線を戻すと、そこには驚いた顔で見上げてくる彼女がいた。
初めて、雨宮と未羽の視線が重なり合う。
吸い寄せられるような、黒い大きな瞳だった。
俯いていた少女はこんな顔をしていたのか。
長い睫毛に、小さな唇。
不安そうな瞳は、今もわずかに揺れている。
「……どうして」
未羽の震える声が、雨宮の耳を打つ。
「……どうしてって、言われても」
突然のことに、少しだけ面食らってしまう。雨宮は本棚の中の写真集を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「本棚の、……世界遺産の写真集。柊さんの私物ですよね?」
「え? あっ、……そうです」
彼女は今更になって気づいたのか、本棚のほうを見て頷く。
そして何かを呟きながら、雨宮を見上げてきた。
「あ、あの……」
「なんですか?」
未羽は雨宮の目を見つめながら、小さな声で問いかける。
「せ、先生は、外国に行ったことがありますか?」
「外国?」
「そ、そうです。旅行でも、お仕事でも、遠い海の向こうに行ったことはありますか?」
彼女は真剣な目で雨宮を見つめる。
その真摯な目を向けられながら、雨宮は少しだけ黙り込んでしまう。
そもそも医者という仕事をしている人間で、海外に旅行にいけるほど暇な人間は少ない。特に、雨宮のように急性期の病院に勤めていればなおのこと。
「……」
それでも。
雨宮は静かに考える。自分が思っていることをそのまま口にしてよいのか、と。
その疑問は、雨宮にとって非常に珍しいことだった。
「……」
考えた末に、雨宮はようやく閉じていた唇を開いた。
「外国に行ったことはありません。……ですが、機会があれば一度は行ってみたいと思っています」
嘘にならない程度に言葉を濁らせる。
果たしてこんな返答でよかったのか。
雨宮の中に、自分でもよくわからない不安が募っていく。
「そ、そうですか」
雨宮の答えに、未羽の表情が少しだけ緩む。
嬉しいような、安心したような。そんな表情だった。彼女の様子を見ていると、雨宮も気が軽くなっていくのを感じた。
「先生は、どこに行きたいですか?」
「どこといっても。……別に深く考えたことなどないので」
「……そ、そうですよね」
今度は肩を落とし、俯いてしまう。
この時、普段の雨宮なら感じるはずのない感覚に襲われていた。医者として働いて五年間。それまで患者に対して浮かんだことのない感情だった。
目の前の少女を悲しませたくない。
そんなことを、雨宮は真剣に考えていた。
「……ですが」
雨宮は使わず鈍らせていた脳の言語野を、これまでにないくらい働かせる。
なにか。
なにか、彼女の喜びそうな言葉を。
「……どこか綺麗な景色を見てみたいですね。日本から遠く離れて、本当に美しいものを見てみたい。今はそう思っています」
雨宮の答えに、未羽は顔を上げる。
そして、そっと笑みを咲かした。
それはまるで春を彩る淡い撫子色。この部屋から見える、榛名山の山桜のようだった。
「……はい。私も、そう思います」
未羽の言葉に、雨宮は無表情のまま頭をかく。
自分らしくない、と我ながら自覚していた。
この妙な感覚から逃げるために、雨宮は自分の腕時計を見下ろす。そろそろ午後のカテーテル検査の準備をしなくてはいけない時間だった。
「それでは、私はこれで失礼します。何かあったらナースコールを押してください」
雨宮は無表情のまま、未羽に告げる。
すると、彼女は引き止めるように声をかけた。
「あっ、待ってください」
雨宮が振り向くと、未羽はベッドの上できちんと正座をしていた。
「まだ、ちゃんと挨拶をしていなかったので。私の名前は柊未羽といいます。これから、よろしくお願いします」
白いパジャマを着た少女、……未羽がぺこりと小さな頭を下げた。
桜のような、可憐な笑顔を浮かべて。