~2014年 4月28日~
~2014年 4月28日~
翌日。
雨宮は手早く身支度を整えると、足早にアパートを出た。
病院まで歩いて十五分。以前は歩いて通勤していたが、最近は車を使っていた。親の知人から買った中古の軽自動車だ。駐車場についた後は、病院の脇にある職員用玄関まで歩いていく。
病院の敷地に植えられた桜の木は、とうに花びらを散らして、青々と茂っていた。それでも遠くの山には桜が点々と咲いていて、茶褐色の山肌を色鮮やかに染めている。
群馬という土地は、山に囲まれていた。
赤城、榛名、妙義といった山々が、住宅地を囲うように連なっている。そこから吹いてくる風が、春という季節を運んでくるのだ。
明け方の空気は、まだ少しだけ肌寒い。
だけど、不快な寒さではなく、爽やかな風が吹き抜ける。
四月も終わろうとしていた。
すぐそこまで来ている五月の風に背中を押されて、雨宮は迷うことなく歩いていく。病院の職員玄関を通るころには、雨宮の頑固な眠気も覚めていた。
群馬県立循環器センターは五階建ての病院だった。
一階には受付と外来患者の診察所があり、二階には事務所が並んでいる。患者が入院している病棟は三階から五階だ。その中でも、三階には様々な医療設備が設置されていた。ICU、手術室、カテーテル室。手術室は三つあり、カテーテル室にいたっては四つもある。中小規模の病院で、ここまで設備が充実した病院は少ない。心臓専門の病院だからこその設備であった。
「それじゃあ、行こうか」
声をかけられると同時に、雨宮は腰を上げた。
雨宮の上司、循環器内科部長の北昭文はずんぐりむっくりとした大男だ。その体格に似合わない愛嬌のある顔つきをしていて、患者からの信頼も厚い。
「雨宮君。患者の情報には目を通したかい?」
「はい。レントゲンとCT画像はまだですが、これまでの経過などは頭に入っています」
「そうかい。まぁ、粗相のないようにね」
「はい」
北部長が苦笑いを浮かべるのを見て、雨宮はわずかに頷いた。雨宮が患者に人気がないことは、上司である北部長もよく知るところだった。
「そういえば、雨宮君は『特別個室』の患者を受け持つのは初めてだったかな?」
「いえ。去年、心房中隔欠損の患者を担当したので、これが二回目になります」
「あぁ、そうだったね」
雨宮の答えに、北部長が頷く。
今、二人が向かっているのは、三階病棟にある特別個室だった。
特別個室とは、普通の個室に比べてかなり豪華な造りになっている病室である。個人用のトイレにシャワールーム。見舞い客を迎えるためのソファが二つあって、まるで応接間のようになっている。他にも、大きなテレビに本棚や冷蔵庫、専用のナースコールなど。
そして、なにより広い。まるでホテルのような内装だが、その使用料も実はホテル並みだった。
北部長と雨宮が、特別個室の扉の前に立つ。
患者の名前が書かれるはずのネームプレートが空欄になっていた。面会謝絶の意味合いとプライバシーの関係で、特別個室にはたいてい名前を出さない。
雨宮は北部長の後ろに立ちながら、この個室にいる患者のことを考えていた。
……柊未羽。
本日、都内の大学病院から転院してきた、重い心臓病を持っている十九歳の少女。これから雨宮が担当する患者だ。
こんこん、と北部長が扉をノックする。
しばらくすると中から返事があった。
「……はい」
鈴の音のような声だった。
ほんのわずかな雑音にも消えてしまいそうなほどの小さな音色。
明らかに、少女然としたものだった。
「失礼します」
北部長が扉を開ける。いつもの愛嬌のある笑顔を浮かべながら、部屋の中に入っていく。その後を、雨宮が黙ってついていった。
「初めまして。北昭文と言います。ここで循環器内科の部長をしていて、君の主治医になります。こちらが担当医の雨宮君です」
「……どうも、雨宮です」
雨宮は自己紹介をするために、北部長の後ろから前に出る。
そこで初めて、これから自分が受け持つ患者を見ることになった。
「……え?」
雨宮は思わず声を漏らしていた。患者の情報を知っていた上で、それでも驚きを隠せない。
それほどにまでに、少女の体は幼かった。
細い腕に、病的なまでに白い肌。
長い黒髪がベッドのシーツに波打っている。
整った小さな顔は憂いを帯びており、まるで何かに脅えるかのようにシーツを握り締めていた。
可憐だった。
可愛いとか、綺麗とか。そんな言葉は当てはまらない。
消える直前の一瞬の美。
散りゆく桜や、真夏の線香花火。
それに近いものがあった。
「雨宮君?」
「え? あ、はい」
北部長に小突かれて、ようやく雨宮は自分のするべきことを思い出した。
「じゅ、循環器内科の雨宮です。よろしくお願いします」
軽く会釈して、北部長のななめ後ろに下がる。
彼女はちらりと雨宮のことを見るが、すぐに視線を手元に落とした。
「……柊、未羽です。よろしくお願いします」
未羽はおどおどしながら、自分の名前を口にする。これから自分の担当になる医者に目を合わせることもせず、顔をそらしながら背中を丸める。
「さぁて。自己紹介も済んだので、これから君の治療方針について話をしようかな。えーと、保護者の方は、どちらにいるのかな?」
「……おじ、……祖父は部屋を出ています。もう少ししたら帰ってくると思います」
未羽は小さな声で答える。
やはり目を伏せたままで、北部長とも目を合わせない。
「じゃあ、少しここで待たせてもらってもいいかな?」
「……大丈夫、……だと、思います」
雨宮は未羽を見ていた目をさらに細めた。
……まるで他人事みたいに言うんだな。
口に出さないように、雨宮は心の中で呟いた。