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~2015年 1月8日~  その②


「よぉ、調子はどうだ?」

 朦朧とする意識の中、雨宮は目を覚ました。だが、頭のなかに靄がかかっているようで、思考が定まらない。目を開いているのに、頭が視覚からの情報を拒絶しているようだった。

「答えられないか。まぁ、生きていて何よりだ」

 雨宮は視界の端で、にやにや笑っている男がいることを知る。そして、考えるより先に口が開いていた。

「……目の前に、お前がいなければ少しは良くなるはずだ。榊よ」

「ははっ、言うじゃねぇか」

 榊が乾いた笑い声を上げた。

「なんで、お前がここにいるんだ」

「なんでとは驚きだな。覚えていないのか?」

「何のことだ?」

「お前は倒れたんだよ。脱衣所を出た廊下でな。そんなお前を見つけたお手伝いさんが、直接俺に連絡をくれたってわけだ」

「……そうか」

 少しずつはっきりとしてきた頭で、記憶の断片を拾い上げていくように思い出していく。体を起こして辺りをみたところで、ここがダリオ宮のリビングであることを知る。

「ちなみに、お前の意識が朦朧としているのはモルヒネの副作用だ。呼吸抑制もあるようだったら、気合で息をしろ」

 そう言われて、雨宮は自分の右手を見る。そこには点滴の針が打たれた自分の腕と、吊らされた生理食塩水のバックが目に入った。

「随分と迷惑をかけたようだな」

「何を今さら。改まって言うことじゃねぇだろう」

 榊はにやりと笑うと、近くのソファにどかっと腰を下ろした。

「仕事はいいのか? 平日の真昼間からこんなところにいて」

「外科部長様とは話をつけてある。こんなときくらい自由にさせてもらうさ」

「後が怖そうだな」

「ははっ。それを言うなよ」

 榊は苦笑しながら、テーブルに置いてある缶ビールに手を伸ばす。見れば、誰が飲むのか疑問になるほどの大量の缶ビールが並んでいる。この屋敷には酒の類は置いてないので、きっと榊が持ち込んだのだろう。

「よくないのか?」

 僅かな沈黙の後、榊が口を開く。

「よくないな。未羽も、俺も」

「だろうな」

 榊はそれっきり黙り込んでしまう。

 プシュッ、と缶ビールを開けると一気にあおった。

「ぷはっー。昼間から飲む酒は美味いな。雨宮も一杯どうだ?」

「倒れて点滴をしている人間に向かって、酒類を勧めるとは。お前の外来での仕事が心配になってくるぞ」

「細かいことは気にすんな。酒は百薬の長ともいうだろう。お前には、薬なんかよりも酒のほうが体に良いかもしれないぜ」

「ふん。適当なことを言う」

 そう言いながら、雨宮は榊が差し出した缶ビールを黙ったまま手にとった。そして、何も言わず缶の蓋を開ける。

 プシュッ、と小さな音が立つ。それを合図に、榊とのささやかな酒宴が始まった。一方的に榊が話して、雨宮が淡々と返事をする。昔話に華が咲いた。研修医時代の苦労には互いに笑い合った。気分が良くなったのか、榊の酒のペースは上がり、周囲に空いた缶が1つ、また1つと増えていく。それに比べて、雨宮は最初に開けたビールをゆっくりと飲んでいる。もう、手の温度でぬるくなってしまっているが、そんなことは気にならなかった。

「正直なところさ。俺は考えられなかったんだよ」

「何を?」

「お前がここまですることをさ。去年の春に未羽ちゃんを退院させて、自分も病院を辞めちまった。それから半年が過ぎた。自分が癌に犯されていながら、よくも一人の患者にそこまで真摯になれたものだ。関心してるんだぜ」

「やめてくれ。お前の口から褒め言葉が出てるところ見ると、気持ち悪くて仕方ない」

 雨宮ははぐらかすように肩をすくめた。

 だが、榊は真剣な目をしながら雨宮のことを見る。

「もう、十分じゃないか?」

 ぴくりと雨宮の手が止まる。

「雨宮。お前はよくやった。本当に尊敬できるほどのことをやったんだ。だから、後のことは俺にまかせて、お前は手を引けよ」

 雨宮が返事をしようと口を開く。

 だが、榊の表情を見てしまうと、声を出せなかった。

 それほどまでに榊の顔は苦痛に溢れていた。

「もう、見てられねぇんだよ。お前が倒れたり、死にそうなったりするところなんて」

 手に持った缶を握り締めながら、榊は肩を震わせた。

「なんでだよ。なんでお前なんだよ。人なんて他にいっぱいいるじゃねぇか。それなのに、何でお前が死ななきゃなんねぇんだよ」

 ビールをボタボタと零しながら、榊は何度も何度も缶を強く握りしめる。

 そんな榊を見て、雨宮は淡々と冷静に口を開いた。

「俺なんか、中途半端な人間さ」

「そんなことねぇ! 誰がなんと言おうと、お前は立派な男だ! 中途半端な人間だなんて、誰にも言わせはしねぇ!」

 榊はあふれる涙をふくこともせず、うなだれたまま唸り声のような慟哭をあげる。

「お前は、俺のたった一人の誇りなんだ。急性期の医療現場から逃げることも、弱音を吐くこともしなかった! 同期の奴らが次々と脱落していくのに、お前はたった1人で頑張ってきたじゃねぇか!」

 雨宮の肩が一瞬だけ揺れた。

 それまで黙って聞いていた雨宮だったが、不機嫌そうに眉間を寄せながら口を曲げる。

「ふん。勝手なことをいう」

 思わず語気が荒くなる。

「俺が必死になって急性期の医療にしがみついてきたことに、お前が関係ないと思っているのか? 年から年中、医師当直室で患者のそばから離れないお前を見て、僅かな焦りも感じていないと思ったのか。冗談ではない」

「え?」

 榊は驚いたように目を見開いて、雨宮のことを見る。

「友であるお前がいたから、俺はここまでやってこられたんだ。そうでなくては、あんな激務の中で正気なんて保っていられるか」

 そんな捨て台詞を吐きながら、雨宮は残っていたビールを一気に飲み干す。

「榊、お前は素晴らしい医者だ。俺も友人として誇らしい」

「…あ、雨宮ぁ」

 榊は涙を拭いながら、唇を噛み締める。

 やがて、感情が決壊したかのように大粒の涙をぼろぼろと溢れさせた。何か言おうとするが言葉にならず、涙でくしゃくしゃになった顔を手で覆い隠した。

「あっ、雨宮! お、俺は、俺は!」

「何も言うな。何も言う必要はないんだ」

 それだけ言って、雨宮はテーブルの缶ビールを手にとって榊のほうに投げる。だが榊は上手く掴むことができす、這い蹲りながら転がっていく缶ビールを追いかけた。やがてビールを両手で掴むと、慌しく蓋をあけて一気にあおる。口の端からぼたぼたと零しながらも、缶に入っていたビールを全て飲み干した。

「うむ、いい飲みっぷりだ」

 雨宮は最後に残った二本のビールを手に取ると、片方を榊に差し出した。

「ありがとうな。榊」

「雨宮?」

「この1年。お前に頼りっぱなしだったからな。せめて、礼くらい言わせてくれ」

 雨宮は榊の前に胡坐をかくと、自分の分と榊の分のビールを開ける。

「さぁ、これで最後だ。最後の酒宴の相手が、お前で良かったよ」

「さ、最後とか言うなよ! また、一緒に飲もうぜ!」

 泣きじゃぐる榊を見ながら、雨宮は困ったように苦笑した。

「……悪いな」

「雨宮」

 榊はそれ以上、何も言わなかった。雨宮が差し出したビールを手にとって、互いの缶を付き合わせる。コンッ、と鈍い音が響いた。二人は黙ったまま缶ビールを傾ける。やがて榊が飲み干して、その後を雨宮が続いた。空き缶が、カランと軽い音を立てて床の上に倒れた。

 それが二人の酒宴の終わりの合図となった。

「俺は帰る」

「あぁ」

 榊が言葉少なく立ち上がるのを見て、雨宮は視線だけで見送る。リビングの扉を開いて玄関に差し掛かったところで、榊の背中が止まった。

「後のことは俺にまかせろ。面倒なことは全部俺がやってやる。お前はただ、未羽ちゃんのことだけを考えていればいい」

 それだけ言って、榊はダリオ宮を出て行った。一人残された雨宮は、見えなくなった榊の背中を思い出しながら呟く。

「まったく、騒々しい男だ」

 ビールの空き缶が散乱した部屋を見ながら、こみ上げそうになる感傷をぐっと堪える。気を抜けば、雨宮も榊のように感情が決壊してしまいそうだった。

「榊。お前は最高の親友だったよ」

 結局、涙はこらえることはできなかった。


 雨宮はゆっくりとその場を立ち上がった。モルヒネが効いているのか、それほど痛みもない。ハンガーラックに吊るされている点滴のバックを手に取ると、リビングを出て未羽の部屋へと向かう。眠っているだろうか。ノックをして部屋に入ると、意外にも未羽は目を覚ましていた。両目を薄く開けて雨宮のことを見つめている。

「起きていたのか」

「……うん。誰か来てたの?」

「榊のバカだ。バカがバカ騒ぎをして帰っていった」

「ふふっ。そうなんだ」

 未羽が青白い顔で微笑む。

「ねぇ、雨宮先生。榊先生とは、どうやって知り合ったの?」

「唐突だな。榊のことなんて知りたいのか?」

「ううん。そうじゃなくて、雨宮先生のことを知りたいの」

「ふむ。そうだな」

 雨宮は未羽のベッドのそばに腰を下ろすと、適当なハンガーに点滴のバックをぶら下げる。点滴の滴下速度を自分で調節すると、改めて未羽と向かい合う。

「榊は大学時代の同期だということは言ったよな。あいつは学生の頃から騒がしくってな。今もあの頃と何もかわっていない」

「へぇー、そうなんだ」

「それが今では、一番付き合いの長い友人になってしまった。まったく、世の中はどう転ぶかわかったものではないな」

「ふふっ。そうだね」

 未羽は雨宮の他愛ない話にも熱心に頷いた。他愛ない話にものめり込めるほど、2人は共有していた時間が短すぎた。十分ほど話をした頃だろうか。未羽の瞼が眠そうに閉じようとしていた。

「未羽。眠いのなら寝るといい」

「いやだ。せっかく、雨宮先生とお話しているのに」

 そうは言っているが、未羽は眠そうに何度も瞼を擦っている。

「目が覚めたら続きを話してやるから。今は寝ろ」

「むぅ、いじわる」

 未羽が愛らしく頬を膨らませる。それでも宥めるように頭を撫でてやると、満足そうに目を閉じた。しばらくすると規則正しい寝息を立てて静かに眠った。

 その姿をみながら、雨宮もベッドに寄りかかって目を閉じる。

 部屋には二人の寝息が交互に響いていた。

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