~2015年 1月8日~
~2015年 1月8日~
年が明けた。
雪はさらに深くなり、榛名湖の近くにあるダリオ宮も真っ白に染まっている。周囲も一つの足跡も残っていないため、人が住んでいるかどうかさえわからないほどであった。唯一、時折揺れるカーテンが館内に人がいることを教えていた。
「……ねぇ、雨宮先生」
「なんだ?」
「私、死ぬのかな」
雨宮は彼女の頭を撫でながら、優しく答えた。
「あぁ」
雨宮が短く答えると、未羽は少しだけ笑った。彼女の胸元には、二つの指輪がついたネックレスが静かに揺れている。
「……そっか。ふふっ、残念だな。せっかく雨宮先生と仲良くなれたのに」
未羽は薄っすら目を開けると、そばにいるはずの雨宮を探す。視線だけを左右に動かして、しばらくしてようやく雨宮のことを見つけた。
「でも、しょうがないよね。このまま生きていても、雨宮先生の迷惑にしかならないもんね」
諦めたように呟く未羽に、雨宮はいつものように淡々と答えた。
「未羽。もうすぐお前はこの世を去るだろう。だが、安心しろ。その瞬間まで俺が一緒にいてやる。寂しいなんてこと、絶対に言わせない」
雨宮の力強い言葉に、今度こそ未羽ははっきりと笑った。
「……うん。ありがとう、雨宮先生」
それだけ言って、未羽は静かに目を閉じた。静寂に包まれた部屋に、彼女の小さな寝息だが耳を打つ。
クリスマスの夜が明けた翌日から、未羽の体調が日に日に悪くなっていった。まるで、糸の切れたマリオネットのように、全ての治療に対して反応が見られなくなった。もはや対症療法ですら選択肢にならなかった。顔色は一日中蒼白で、食事もこの一週間まともにとれていない。ベッドで横になっているだけなのに、ときおり苦しそう風を切るような咳をするのだ。
もう、打つ手はなかった。
静かに時が過ぎるのを待っているしかない。
やがて、死という誰に対しても平等な概念が、未羽に訪れるまで。
雨宮は未羽の寝顔を見ると、その場から立ち上がった。部屋を出て、壁に手を当てながら洗面台のある脱衣所へと向かう。そして、しっかりと扉を閉めると、洗面台へと倒れこんだ。
「ぐはっ。げほっ、げほっ!」
激しく咳き込む雨宮。
その瞬間、洗面台は真っ赤に染まっていた。
荒い息を吐きながら、血に染まった口元をぬぐう。額には大量の冷や汗をかきながら、雨宮は苦渋の表情を浮かべていた。
蛇口をおもいっきりひねる。洗面台を赤く染めていた血液が、大量の水の渦に消えていく。それでも鉄の生臭い匂いは消えず、雨宮の気分をいっそう不快なものとさせた。
「はぁはぁ、くそっ」
今週になって、五回目の喀血だった。明らかに頻度が増えている。だが、それだけでない。体中を締め付けるのような痛みが、雨宮の体を四六時中襲っているのだ。何もしていなくても体中が悲鳴を上げ、少しでも動こうものなら、それは激痛へと変わる。もう、歩くことさえ困難だった。
「大丈夫。まだ、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように何度も呟く。雨宮はゆっくりと体を起こして、鏡に映った自分を見る。生きている人間とは思えないほど青白く、異様に鋭い目つきが何かを威嚇しているようだ。雨宮はポケットに手を入れて、大量の薬を取り出す。抗癌剤、鎮痛剤、止血剤、吐き気止め。震える手で一つ一つ口に運び、辛そうな表情を浮かべながら何とか飲み干す。
「俺は死なない。未羽を置いて死ねない」
雨宮はぎゅっと目を閉じて、鏡から目を背けた。今にも死んでしまいそうな自分を見ていると、心が折れてしまいそうだった。
雨宮も、もう限界であった。
全身に飛んでいった癌細胞は、休むことなく雨宮の体を蝕んでいく。すでに、肝臓、すい臓、肺、胃、甲状腺は本来の機能を失いつつあった。
……それでも、と雨宮は呟く。
医者として、未羽のためにできることがまだある。
死が訪れる最後の時。その瞬間まで彼女のそばにいる。孤独や悲しみから、あの可憐な彼女を守ってやることが、雨宮に残されたの唯一のことだった。
「はぁぁ」
目を閉じたまま、軽く息をはく。背筋を正して、顔から険しい表情を消し去る。整然とした態度を作り上げる。未羽に自分の死期を悟られてはいけない。
彼女は優しすぎる。
今の雨宮の状態を知れば、きっといらぬ気を回すことだろう。もしかしたら、彼女自身が自分の死期を早めてしまうかもしれない。それだけは避けなくてはならない。
雨宮は姿勢を正したまま脱衣所を出る。もしかしたら、目を覚ましているかもしれない。朦朧とした意識の中で自分を探しているかもしれない。
そんなことを考えている時だった。
突然、自分の体ががくっと崩れ落ちた。
「え?」
何が起こったのか、雨宮自身にもわからなかった。
ただ、今まで自分を支えていた足に、急に力が入らなくなってしまったのだ。廊下に膝をつき、壁に手を当てようとする。だが、膝も腕も言うことをきかなかった。雨宮は驚いたように目を見開きながら、その場に倒れた。
「がっ、がぁっ!」
助けを呼ぼうにも声も出ない。言葉にならない。喉から搾り出した声は意味不明なかすれ声にしかならなかった。
その瞬間、雨宮の頭によぎったのは、自分の死であった。
このまま自分は死んでしまうのか。
未羽を残したまま、一人で死ぬのか。
……駄目だ。
それだけは、絶対に駄目だ。
死が逃れられないものだとしても、彼女に孤独を与えてはいけない。
俺が、させない。
薄れていく意識のなかで、ポケットにあるスマートフォンに手を伸ばす。指先が画面に触れ、電源がついた瞬間。
雨宮の意識は途絶えた。




