~2014年 12月25日~ その②
冬の日は短い。太陽は完全に浅間山の向こうに隠れてしまい、真っ暗な夜となっていた。雨宮は車のヘッドライトの照らされた道を走りながら、横の助手席に座っている未羽のことをそっと窺う。
「今日は楽しかったな」
「うん、そうだね」
未羽は両手を膝の上で組みながら俯いている。少し元気がないように思えた。帰るころになってから、ずっとこの調子だ。久々の外出で疲れたのかもしれない、と雨宮は思った。
「大丈夫か。疲れたのなら、寝ていてもいいんだぞ」
「ううん。大丈夫」
そうは言っているが、未羽は沈んだように元気がない。雨宮は何と声をかけたらいいのか考えていると、未羽が小さく、本当に小さく呟いた。
「ねぇ、雨宮先生」
「なんだ?」
雨宮が訊き返しても、未羽は何も答えない。じっと自分の手を見ながら、口を閉ざしている。その表情があまりにも辛そうで、悲痛な表情をしていた。
「私、帰りたくないよ」
未羽の声に、雨宮は驚いて目を見開いた。
それは春から口にすることがなくなった、未羽の弱音であった。
「だって家に帰ったら、また現実に戻っちゃう。ベッドで寝ているだけの日常に戻っちゃうんだよ。そんなの耐えられないよ」
未羽は今にも泣きそうな声で、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「今日は楽しかった。本当に楽しかった。雨宮先生と一緒に買い物をして映画を見て。何でもないことを話して、笑い合って。こんな日がずっと続いて欲しい。そんなことを本当に考えたりしちゃうんだよ。こんな普通なことを願ってるのに、私には手が届かない。すごく遠いの。それが、とても辛い」
「未羽」
雨宮は口を閉じたまま目を細める。
しばらく黙って、何と答えたらいいのか考える。
そして、アクセルを踏み足を緩めるとウインカーを点灯させた。その方向はダリオ宮とは全くの逆であった。だが、雨宮は迷うことなく、左のわき道に車を滑らせる。
「なぁ、未羽」
問いかけるが返事はない。
だが、雨宮は構うことなく言葉を続けた。
「ちょっと、寄り道していかないか?」
「え?」
ヘッドライトの頼りない明かりが夜道を照らす。街灯もなく、まだ真っ暗な暗闇だけが目の前に広がる。それでも雨宮は整然と暗い夜道を進む。
「ねぇ、雨宮先生。どこに行くの?」
「心配はいらない。すぐに着く。それとも、どこに連れて行かれるのか不安か?」
「ううん。雨宮先生と一緒なら、どこでもいいよ」
「それは光栄だな」
雨宮は淡々と答える。
それから車を進めること数分。雨宮と未羽が降りた場所は、何もない暗闇だった。辛うじて車のライトが照らしているだけで、それ以外の明かりは何もない。昼間はあれだけ晴天であったのに、厚い雲に覆われた夜空にも星一つない。
「寒いな」
「うん」
未羽を車イスに乗せて、雪が薄く積もっている道を歩く。はぁ、と息を吐いても、暗闇の中では白く濁ることさえない。二人のこれからを暗示しているような闇が、目の前を覆っている。
「真っ暗だね」
未羽が震える声で呟きながら、車イスを押す雨宮に手を伸ばす。雨宮はその手を掴みながら、いつものように淡々と答えた。
「そうだな。目の前は暗闇だし、足元もよく見えない。自分達がどこに向かっているのかすらわからなくなりそうだ」
車輪の軋む音を響かせながら、雨宮は優しく言葉を紡ぐ。
「だけど、俺のそばには未羽がいる。手を握れば握り返してくれる。それだけで俺はこうして立っていられる。前に向かって歩ける」
「雨宮先生―」
未羽は想い合うように、雨宮の手を握り返す。
「……ありがとう、未羽」
「え?」
「未羽がいたから、俺はここまで頑張れた。死の恐怖に逃げ出すこともなく、自分らしく生きることができた。本当に感謝している」
雨宮の言葉に、未羽は戸惑うように答えた
「どうしたの、雨宮先生?」
「今まで、ちゃんと言えていなかったからな。面と向かって言うのは恥ずかしいから、この暗闇に乗じて言ってしまおうかと思ったんだ」
雨宮の思わぬ答えに、未羽は声を上げて笑い出す。
「ふふ、何それ。そんなことのために寄り道をして、こんな真っ暗の中を歩いているの?」
「いや、これは事のついでだ。本当の目的はこれだ」
雨宮が一歩を踏み出す。
木々の陰から顔を出し、舗装された大きな歩道に出る。
その時だ。
「……うわぁ」
未羽が感嘆の声を漏らす。
空には厚い雲がかかっていて、星など見えるはずがない。だが、未羽の視線の先には、確かに煌びやかに輝く星々があった。いくつもの光が空から降り注ぐように、ゆっくりと落ちていく。
「……きれい」
「そうだな。人の手で作られたとは思えないな」
雨宮は未羽の車イスを押しながら、舗装された道を歩き出す。道に沿って吊らされた大量のLEDが、雨宮と未羽の行く道を照らしていた。
榛名山の頂上にある榛名湖には、冬になると歩道と湖面に光の回廊が築かれる。無数の電球によるイルミネーションは、見ている人を現実から幻想の世界へと誘う。12月の上旬からクリスマスの今日まで、この催しは開催されていた。
「私、知らなかった。湖がこんな感じになっていたなんて」
「お前の寝室が一階に変わってから、湖が見えなくなったからな。昼間でも近寄らなければわからない」
雨宮は他のカップルとすれ違いながら、湖面にあるイルミネーションの中心を目指す。冷たい風が吹く冬の湖面とあって、他に人はいない。雨宮には好都合だった。
「まるで夢の世界にいるみたいだな」
「うん。本当にきれい…」
未羽はため息をこぼしながら、頭上の光の柱に見とれている。雨宮はポケットに手を当てて、確認するようにまさぐる。目的のものがあることを確かめてから、雨宮は再び歩き出した。
「未羽。今日は楽しかったな」
雨宮は車イスを押しながら、空を見上げている未羽を窺う。未羽は光の束から目を離して、雨宮のほうに振り返る。
「うん。今日は楽しかった」
「明日も楽しいと思うか?」
雨宮の問いに、未羽は視線を落とす。しばらく黙った後、小さな声で答えた。
「わからないよ。明日が楽しいかなんて。だって、明日もこうやって元気なのかわからないもん。もしかしたら明日にだって、…死んじゃうかもしれないのに」
「…そうだな」
雨宮は頷くだけで、多くは答えなかった。淡々と、そして整然と、彼女の目を見つめる。未羽も黙ったまま雨宮の目を見つめ返す。
励ましの言葉はなかった。
むしろ、言葉はいらなかった。
言葉は重ねるほど無粋となっていく。的外れな期待や、気休めの励ましなどいらない。ただこうやって心を寄り添っていればいい。言葉はなく、体の触れ合いもなく、雨宮と未羽は静かに互いのことを想い合う。
「怖いか、未羽」
「うん」
未羽がわずかに頷く。
「でも、大丈夫。怖いけど、怖くてたまらないけど。私のそばには安心できる人がいるから」
「そうか」
雨宮も空を見上げて、降り注ぐ光の柱を見つめる。
「俺もそうだ。怖くて逃げ出したいけど、そばには大切にしたい人がいる。それだけで、この場所に立っていられる。前を向いていられる」
「ふふっ。誰なんだろうね。雨宮先生から、そんなに想ってもらえる幸せな人は」
「さぁ。誰だろうな」
雨宮も苦笑しながら、未羽の頭を撫でる。未羽は頬を染めながら微笑む。
言葉は要らない。
わかりきったことを口にするのは無粋なことだ。
雨宮は心の中でそう呟く。そして、ポケットに手を入れて、中にあったものを取り出した。
「未羽」
「うん?」
雨宮は未羽が返事をするのを待って、それを首にかけた。
「そういえば、まだ言っていなかったな。誕生日、おめでとう」
「えっ」
未羽は少しだけ驚いた顔をする。だが、すぐに照れ笑いするように頬をかいた。
「はは。雨宮先生、覚えてくれていたんだ」
未羽は自分の首にかかったネックレスを手に取る。皮製の細い紐でできたシンプルな作りをしていた。その紐を通すように、銀色の指輪が二つ、イルミネーションの光に鈍く反射している。指輪の内側には名前が彫られている。一つには未羽の名前が。もう一つには雨宮の名前が、それぞれフルネームで刻まれていた。
「ははっ、これじゃまるで、結婚指輪だよ」
未羽は指輪に彫られた名前を見て、小さな声で笑う。
「深い意味はない。ただ、俺がそうしたかっただけだ」
雨宮は未羽の頭を撫でながら、もう一度だけ空を見上げる。気恥ずかしかったので、顔をそらしたかっただけだった。
「嬉しい。本当に嬉しい』
未羽が2つの指輪がつけられたネックレスを見つめる。
その目からは、じわりと涙が滲んでいた。
「ありがとう。雨宮先生」
「あぁ」
雨宮はもう一度、未羽の頭に手を置いた。軽く頭を撫でた後、慈しむように頬に当てる。未羽も雨宮の手に重ねるように、自分の手を頬に当てる。
言葉はいらない。
気休めや励ましはいらない。
やがて訪れる日まで、静かに想い合えばいい。
どんなに怖くても、不安でも。
一人ではないから。
孤独では、ないから。
「あっ、雪だよ。雨宮先生」
「そうだな」
それから雪が降り出すまで、雨宮と未羽は静かに煌びやかな夜空を見上げていた。




