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~2014年 12月10日~


 ~2014年 12月10日~


 翌日、雨宮は自分の体調を見計らって、前橋市の市街地へと向かっていた。

 移動手段はタクシーである。榛名山の凍結した路面を走る気にはなれなかったし、もし運転中に自分に何かあったら対応できないからだ。街中まで来れば雪を見ることはない。乾いた空気と身の凍りそうになる寒風だけが、前橋市の街を包み込んでいる。

「本当にいいのですか?」

 頭の薄くなった不動産屋が、確認するように訊いてくる。

「えぇ、構いません。家具や電化製品なんかも適当に処分してください。もう自分には不要なものですから」

「はぁ。まぁ、ウチとしては構いませんが」

 何か釈然としない様子で首を傾げている。雨宮はそんな不動産屋に手を伸ばすと、キーホルダーのついた鍵を渡す。

「アパートの鍵です。長い間、お世話になりました」

「いえいえ。またのご来店をお待ちしています」

 不動産屋は残り少ない毛髪をかきながら頭を下げる。雨宮も一度だけ頭を下げると、小さな不動産から出て行った。空気が冷たい。刃物に切られるような風に身を強張らせながら、待たせておいたタクシーに乗り込む。

 これでアパートの解約は終わった。あとは病院に置いてある私物を片付ければ、身の回りの整理は終わる。雨宮は寒さに震えながら、タクシーの運転手に群馬県立循環器センターに行くように指示する。

 そんな時、雨宮のスマートフォンから着信を知らせる電子音が鳴り響いた。誰からだろうと考えながら見てみると、これから向かおうとしている病院の名前が表示されていた。

「はい。雨宮です」

 何の用だろうか。雨宮が思考を巡らせていると、電話口の向こう側から張りのある女性の声が聞こえてきた。

「もしもし、雨宮先生ですか? 相川です」

「あぁ、久しぶりですね。相川師長さん」

 電話の向こう側にいたのは、3階病棟の看護師長をしている相川京子であった。50歳になろうというベテラン看護師だが、その活力は留まることを知らない。

「相川師長さんから電話というのは珍しいというか、奇妙ですね」

「あら。随分な物言いですね」

「すみません。口が滑りました。何か用ですか?」

「……そうね。用事といえば、用事なんだけど」

 どうにも歯切れの悪い相川師長に、雨宮は黙って耳を傾ける。

「ねぇ、雨宮先生。これから病院に来られますか?」

「構いません。ちょうど、向かっている所です」

「助かるわ。じゃあ、こっちも待つように伝えておくから」

 それだけ言って相川京子は電話を切ってしまった。京子の言い方だと、誰かが自分に会いに来たような印象を受ける。今更、自分に会いに来る人などいるのだろうか。雨宮は小さな疑問を抱えながら、過ぎゆく前橋市の街並みを眺めていた。



「お世話になっています」

 群馬県立循環器センターの待合ロビーで、一人の年老いた男性が雨宮に頭を下げている。雨宮は曖昧に返事をしながら、この男性が誰なのかと、隣に立っている京子に目で問いかける。

「それでは柊葉蔵さん。こちらのイスに腰掛けてください」

 京子はさりげなく名前を呼びながら、そばにあったイスを年老いた男性に勧めた。男性は恐縮したまま、何度も頭を下げながら小さくなって腰掛ける。

「柊、葉蔵さん?」

 雨宮は驚きを隠せなかった。

 柊葉蔵は未羽の祖父だ。未羽がまだこの病院に入院していたときに何度か顔を合わせた程度だったが、それにしても外観があまりにも変わってしまっていた。凛々しく、どこか厳しそうな雰囲気を漂わせていた姿が、今や腰は曲がり頭の毛も真っ白になっている。身に着けている洋服もスーツではあるが、そこかしらに皺やほつれが目立つ。なにより威圧的な姿勢がなくなり、細められた目元は孫のことを心配する好々爺のような印象さえ受けた。

「それじゃ、私は病棟に戻るから。何かあったら連絡して」

 それだけ言って京子は姿を消した。気をつかわせたのか、それとも病棟業務が忙しいのか。恐らく後者だろう。

「お久しぶりです、雨宮先生」

 イスに座った葉蔵が深々と頭を下げる。

「いえ、こちらこそ」

 雨宮もそばにあったイスを近寄せて腰を下ろす。長時間立っていられるほどの体力が、今の雨宮にない。

「未羽さんが退院されて以来ですね」

「はい」

「……」

「……」

 葉蔵は雨宮の問いかけにわずかに頷いただけで、何も語ろうとしない。仕方なく、雨宮は自分から口を開くことにした。

「今日はどういった理由で来られたのですか?」

 幾分、突き放したような話し方になってしまったが仕方ない。雨宮自身も困惑しているのだ。葉蔵氏が会いにくる理由など、まったく検討がつかなったからだ。

 葉蔵氏は何か言い出そうと口を動かすが、しかし言葉にならず、しばらく黙り込むと再び頭を下げる。その行為を数回ほど繰り返したあと、意を決したように雨宮に視線を向けた。

「何から話したらいいのか。…とにかく今日はあなたに謝りに来たのです」

「謝りに?」

 雨宮は困惑した表情を浮かべる。

 はい、と葉蔵は擦れた小さな声で答えた。病院のロビーの雑踏にかき消されてしまうほどの声だった。

「本当に申し訳ありませんでした」

 頭を下げ続ける葉蔵を見て、雨宮は難しい表情をして眉をひそめる。

「未羽のことです。私はあの子に何もしてやれなかった。心臓の病気がわかったときも、手術が必要といわれたときも、私はあの子の言うことに何一つ耳を貸さなかった。それが、あの子の幸せだと思って…」

 葉蔵はますます背中を丸めていく。

「ですが、病院から離れてからは、入院中では見ることがなかった顔で笑うようになった聞きました。時々、あの子から電話やメールが届くんです。今日は何をしたとか。雨宮先生とどこに行ったとか。おじいちゃんにも見せてあげたいとか。そんな些細なことでも、あの子は本当に楽しそうに報告してくるのです」

 葉蔵は小さくなった肩を震わせた。

「私は情けない。あの子がこうして元気になったというのに、一度も見舞いに行けないなんて。電話でさえ怖くて出られないんです。私が今までしてきたことを、あの子は恨んでいるのではないか。そう思うと、体が竦んで動けない」

 今にも頭を抱えてしまいそうな葉蔵を見て、雨宮はかけるべき言葉を捜す。

「柊さん」

 問いかけて、なお探す。何が必要なのか。どんな言葉が大切なのか。

「会いに来てください」

「え?」

「未羽に会ってやってください。未羽はあなたのことを恨んでなんかいないし、会いにきた祖父を追い返すようなやつではありません。それは柊さんが一番よくわかっていることではありませんか」

 結局、口から出たのはあまりにもありふれた言葉だった。だが、雨宮は思う。こういった言葉こそ、最も大切なことではないのかと。

「わかっています。わかっているからこそ、私はあの子に会えない。会ってしまえば私は許されてしまう。優しいあの子は誰かを恨んだりはしない。病院に閉じ込めていた張本人である私でさえ、すぐに許してしまうでしょう。許されてしまったら、私とあの子の繋がりが完全に途絶えてしまう。それが、私は怖い」

 雨宮は返す言葉が見つからず、口を閉じてしまう。深く項垂れる葉蔵の後頭部を見つめながら、乾いた唇を開いた。

「それでも、会いに来るべきです」

 自分から発せられた力強い声に、雨宮自身が一番驚いた。

 顔を上げる葉蔵に、雨宮はあくまで静かに告げる。

「未羽の体は衰弱が始まり、いつ急変してもおかしくない状況です。あとどれくらいの時間が残されているのか、私にもわかりません。だから自分のためでなく、未羽のために会いに来てください」

「会って、何を言えばいいのですか?」

 葉蔵の問いに、雨宮は即答する。

「何も言う必要はありません。ただ彼女に向かって笑っていれば」

 雨宮は未羽のことを想う。口には出していないが、きっと自分の祖父のことを気にかけているはずだ。それでも自分から祖父に会いたいと言わないのは、叶わない望みを抱くのを諦めたからだろう。

 だからこそ、雨宮は彼女の望みを汲み取る。叶わぬと決め付けた願い事を一つ一つ拾い上げて、ベッドの上の彼女に差し出す。それが今の雨宮にできる唯一のことだった。

「私と未羽は、あなたが来ることを歓迎します。いつでも、気軽に会いに来てください」

 雨宮は席を立とうと腰を上げる。これは気持ちの問題だ。議論を介する余地はなく、ただ純粋に相手を思いやる気持ちだけが意味を持つ。孫を想う気持ちがどれほど重いのかわからないが、この男性がは自分可愛さに逃げ出すような人ではないと信じたい。

「わかりました」

 雨宮の言葉に、葉蔵はかすかに頷く。その震える肩と小さな背中を見て、雨宮は再び腰を下ろした。何を語るわけでもなく、何を問うわけでもない。ただ、目の前の年老いた男が一人で立ち上がるまで静かに待つ。

 やがて言葉少なめに立ち上がった葉蔵は、受付の人間に支えられてタクシー乗り場まで歩いていった。その途中で一度だけ振り返り、雨宮の方を見た。相も変わらず不確かな足取りだったが、その目には涙は浮かんでいなかった。


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