~2014年 11月7日~
~2014年 11月7日~
「忘れ物はないな」
多くの人が行きかう成田空港の受付ロビーで、榊が重々しく口を開く。
「何かあったら連絡すること。発作が起きたり、気分が悪くなったり、夜な夜な雨宮が狼になって襲ったりしたら、すぐに連絡して。地球の裏側であっても駆けつけるから」
「何を言っているんだ、お前は」
雨宮は呆れた顔でため息をつく。その隣では、車イスに座った未羽が楽しそうに笑っていた。荷物はすでに預けてあるので、雨宮も未羽も身軽な格好だった。
「ふふっ。大丈夫だよ、榊先生。雨宮先生は紳士だから。狼になっても、きっと優しくしてくれるよ」
「それじゃあ、俺の気が済まないんだ。未羽ちゃんが雨宮の毒牙にかかっているなんて、考えるだけで虫唾が走る」
黒のスーツをきっちり着込んだ榊が子供のように地団駄を踏む。
十一月の上旬。
いよいよ木枯らしが吹き始めたこの季節に、雨宮と未羽。そして榊が成田空港に来ていた。これから2人は日本を経ち、海外へと渡る。準備に思いのほか時間がかかってしまったが、榊が海外の医療機関と連絡をとってくれたおかげで、緊急時にも対応できそうだった。
あの夜。酒を飲んで本音でぶつかり合った日から、榊が妙に協力的になっていた。未羽と旅行に行くことを話しても、茶化すことはあっても否定することはなかった。ただ、一度だけ謝るような態度をしたので、鼻で笑い飛ばしてやった。
「帰ってくるのは12月だな。それまで未羽ちゃんの健康と清らかな体を祈っているよ」
「ありがとう。でも、清らかな体はどうだろうね」
未羽は愉快そうに笑いながら、上目遣いで雨宮のことを見る。それを見た榊が、苦虫を噛んだような渋い顔をする。
「そろそろ時間だ。未羽、行くぞ」
雨宮は榊に手を上げるだけの軽い挨拶をして、未羽の乗る車イスを押して歩き出す。
「あ、ちょっと待て。雨宮」
その時、榊に声をかけられて雨宮は振り返る。榊は近づいてくると、何を言っていいのかわからないように頭をかいた。
「えーと、その、なんだ」
「何だ? はっきり言え、お前らしくもない」
雨宮がいつものように淡々と言うと、榊は言葉を濁しながら親友の肩を軽く小突いた。
「ちゃんと帰ってこいよ。旅先でくたばったりするんじゃねぇぞ」
純粋な心配を向ける榊。そんな彼に雨宮は少しだけ驚いた表情を見せる。だが、直ぐににやりと笑って、榊の肩を小突き返した。
「大丈夫だ。問題ない」
雨宮は自身満々に言うと、今度こそ搭乗口へと歩いていった。
雨宮は振り返らなかった。
榊もまた、振り返ることをしなかった。いらない心配をしたなと、榊は心の隅で反省をする。
もうじき冬が来る。
寒くて寂しい、別れの季節。
だが、それまでは実りの秋だ。食べ物はおいしく、空気も澄んでいる。旅行にはちょうどいい気候であろう。
せめて二人の旅路に幸多からんことを。
榊は人生で初めて、神様に祈った。




