~2014年 10月14日~
~2014年 10月14日~
風が吹いている。
どこからか金木犀の香りがする。
秋の気配が強くなり、空気もどんどん冷たくなっていく。
「ん」
雨宮はリビングにあるソファーの上で目を覚ました。頭は二日酔いのように重たかった。
「雨宮先生、おはよ」
頭上から鈴の音のような声が聞こえる。雨宮は泣きはらした目をぬぐいながら、声のするほうへ視線を向ける。
そこには、車イスに座った未羽がいた。
「もう、お昼だよ。早く起きて」
ふんわりと柔らかい笑顔を浮かべながら、彼女は雨宮が起きるのをじっと見つめている。
「今、何時だ?」
「12時半。せっかく小林さんが朝ごはんを作ったのに、雨宮先生ったら全然起きないんだもん」
「そうか。それは悪いことをしたな」
雨宮はむくりと体を起こすと、ソファーに腰掛けて両手を膝のあたりで組む。そして、未羽に向かって頭を下げた。
「昨日はすまなかった」
「いいよ、気にしないで」
未羽は静かに微笑む。
「私たちは似ているんだよ。生き方も、不器用なところも。あと、どうしようもなく神様に嫌われているところも。だから私達はこうして一緒にいられるんだと思う」
「神様に嫌われているか。そうかもな」
雨宮は頭を上げて彼女のほうを見る。
未羽は開いていたハードカバーの本をぱたんと閉じると、自分の膝の上に置いた。
「ねぇ、雨宮先生」
「なんだ?」
「これからどうしようか?」
優しく微笑みながら雨宮に問う。
雨宮はしばらく考えたあと、静かに答えた。
「やりたいことを、すればいいんじゃないか?」
そんな曖昧な返答を聞いて、未羽は両手で口元を覆いながらおかしそうに笑った。
「ふふっ。何それ。雨宮先生らしくもない」
「そうだな。俺らしくない言葉だな」
雨宮は目を細めて天井を仰ぎ見る。これからなにをしたらいいのか、雨宮自身にもわからなかった。
だが、妙に清々しい気分だった。人生に迷い、時間を持て余していることが、雨宮にとって初めて手にした自由だった。
「未羽は何かしたいことはないのか?」
「私? 私は別にないよ。こうやって雨宮先生と一緒にいられれば、あとは何もいらない」
はにかみながら未羽が答える。頬を少し赤くさせているが、雨宮を映すその瞳に揺らぎはない。
そんな未羽を見て、雨宮は自問自答をする。果たして、自分は何がしたいのか。何をすれば、自分は満たされるのか。
雨宮はそっと未羽のことを見る。
そして、気がつく。
「あぁ、そうか」
彼女の笑顔が見られるのであれば、他には何もいらない。
例え、わずかに命を引き伸ばせる方法があったとしても、未羽と一緒にいられなければ意味がない。白い病室に囲まれた場所で、少しずつ老衰していく未来など、どれくらいの価値があるというのだ。自分は病人である前に、一人の人間だ。ならば人間らしく、欲しいものには手を伸ばそう。欲深く、強欲に、生きていることを実感しよう。わずかばかりの寿命をさらに縮めることになろうとも、その一瞬を生きることに意味があるはずだ。生きる価値とはそういうものと信じたい。
雨宮は未羽から視線を離し、彼女の手にしてるハードカバーの背表紙を見る。何か重厚な小説だと思っていたが、背表紙に記されたタイトルを見て、思わず懐かしさに苦笑する。
背表紙には、世界の風景と書かれていた。
「それにしよう」
雨宮は未羽の持っている本を指差した。
「いつか言っていただろう。海外旅行がしたいって。未羽の行きたかったところへ行こう」
雨宮の言葉に、未羽は驚いたように目を丸くした。手に持った世界遺産の写真集をじっと見ながら、おずおずと尋ねる。
「いいの? 旅行なんかに行ったりしても。向こうで何かあったらどうするの?」
「その時は、まぁ、なんとかなるだろう」
雨宮は曖昧に答えながら、頭の中では海外の医療機関と連絡をとる方法を考えていた。旅行先で未羽に必要な医療を行えるのか。簡単ではないが、不可能でもない。
「今更、無理して我慢をする必要はない。やりたいことをしよう。それくらいの自由は俺達にもあるはずだ」
雨宮が静かに言うと、未羽の表情がすぐに華やいだ。急いで世界遺産の写真集を開くと、折り癖がついてしまっているページを雨宮に見せる。
「私、ここに行きたい!」
未羽が提示したページは北イタリアにあるベネツィアだった。沿岸部に作られた海の都。いくつもの船が行きかう海の都。
「あぁ、そこに行こう」
「あとね、ここにも行きたいの」
未羽が別のページをめくれば、そこには荘厳に佇む宮殿があった。南フランスのバッキンガム宮殿。
「ならば、そこにも行こう」
「やった! ここはね、子供のころから行ってみたかったんだ」
「よかったな。夢が叶うじゃないか」
「うん! それとね、ここにも―」
雨宮が頷き、その度に未羽は満面の笑みで答えていく。久しぶりに見る、彼女の心の底からの笑顔だった。




