~2014年 10月13日~ その⑥
ひどく気分が悪かった。
雨宮はタクシーに揺られながら、絶え間なく襲ってくる頭痛や吐き気と戦っていた。自分がどこに向かっているのか。それすら考える余裕がなかった。
どれくらい走ったのだろうか。雨宮は遠くなりそうになる意識の中、運転手に促されてタクシーから降りた。タクシーが走り去ったあと、目の前にある建物を見て呆然とする。
古びた洋館のようで、壁の半分以上が蔦に覆われている。春先から、幾度となく見上げた風景にも関わらず、思わず見とれてしまう。
未羽と共に過ごした別荘、ダリオ宮だった。
帰ってきた、と自然と思ってしまう。それくらい雨宮にとって、この屋敷は居心地の良い場所となっていた。
雨宮は茫然とした頭のまま、ダリオ宮の玄関へと歩いていく。不思議と吐き気や頭痛は治まっていた。玄関を開けようと手を伸ばし、重厚なドアノブを引く。だが鍵が掛かっているのか、思うように開くことはない。仕方なくポケットに手を入れて鍵を探す。しかし見当たらない。鍵は愚か、財布もなかった。全て榊が悪いのだと決めつける。どうせタクシーに乗せるときに、スリ紛いの行為に及んだに違いない。
雨宮は途方に感じていると、玄関の明かりがついた。
そして、玄関の扉がゆっくりと開く。
「雨宮先生?」
そこには心配そうな顔で雨宮のことを見つめる、未羽の姿があった。白のワンピース姿がとても可憐に思えた。
「大丈夫? 何だが顔色が悪いよ」
「あぁ、大丈夫だ。問題ない」
雨宮は彼女に見とれながら答えた。
「すまないが、中に入れさせてくれないか。榊に鍵も財布も取られてしまったようだ」
「いいよ。入って」
未羽は少しも躊躇う様子もなく、雨宮を屋敷に招きいれる。長い黒髪が、ふわりと夜風に揺れた。
雨宮は玄関で靴を脱ぐと、未羽と一緒にリビングに入る。明かりのついていないリビングは、月明かりだけがぼんやりと照らしている。
「雨宮先生。なんだかお酒臭いよ。水でも持ってこようか」
彼女は雨宮が答える前に、台所へぱたぱたと歩いていく。車イスを使っていないが、もう怒る気などなかった。むしろ普通に歩いている姿を見て、安心したくらいだった。
「はい、お水」
未羽にコップ一杯の水を手渡されて、雨宮は一気に飲み干した。吐き気などは収まっていたが、酔いだけは回っていて、ほどよく頭がふわふわとしている。
「すまないな。こんな惨めな格好で」
雨宮は床に崩れながら、リビングの天井を仰ぎ見る。
すると、未羽は心配するように隣に膝をついて、雨宮のことを見つめてくる。
「どうしたの、雨宮先生? 何か辛いことでもあったの?」
「っ!」
雨宮は自分の目を覗く彼女の、その大きな瞳に吸い込まれそうになった。
よくない、と直感する。
自分の中で押さえつけていた想いが、溢れそうだった。
「なんでもない」
雨宮は逃げるように目をそらした。
「俺は大丈夫だから、未羽は部屋に戻ってくれ」
すぐにでも彼女から距離をとりたかった。心に蓋をした感情に、焼き尽くされそうだった。普段ならともかく、今の自分では何をしでかすかわからない。
だが、そんな雨宮の行動は逆効果となった。
「本当に大丈夫? どこか辛くないの?」
未羽は手を伸ばして雨宮の額に触れる。彼女の手はひんやりとして心地よかった。
そんな献身的な彼女を、雨宮は焦るように振り払った。
「大丈夫だと言っている。だから、離れてくれ」
劣情に身を焦がしそうになっていた。
この可憐な少女を穢したいという、黒い欲情に耐えられなくっていく。
「俺は大丈夫だ。何の問題もない」
「でも―」
「早く部屋に戻ってくれ!」
すでに限界だった。雨宮の声は悲痛な叫びとなってリビングに響く。未羽はびくりと肩を震わすが、それでもその場から離れようとはしなかった。
雨宮には理解できなかった。
どうして彼女は、自分から離れてくれないのだろうか。
「あ、雨宮先生。私ね」
恐る恐る伸ばされた未羽の手が、雨宮の肩に触れる。
そのときに、月明かりに照らされた未羽の顔が見えた。
……美しかった。
自分が心から欲しているものが、すぐ目の前にある。
もう、止めることなどできなかった。
「きゃ!」
リビングに響く、小さな悲鳴。
それと同時に、ぱたんと未羽が床に横たわった。未羽に上には雨宮が覆いかぶさっている。
「雨宮先生?」
戸惑いと不安。そんな感情が織り交ざった声色だった。
だが、雨宮の耳には届かなかった。
雨宮は手を伸ばすと、未羽の横顔に触れる。
「お前が悪いんだぞ」
未羽の横顔に触れていた手が、首筋を伝って降りていく。
そして、胸の小さな膨らみへと触れた。
「んっ!」
未羽は恥ずかしがるように身をよじる。だが、雨宮が覆いかぶさっているのでうまく動けない。
「ね、ねぇ。雨宮先生」
未羽の不安そうな声にも雨宮は答えない。そのかわりに、ゆっくりと彼女の胸に触れていく。まるで壊れ物を触るかのような、優しい手つきだった。
「あっ!」
突然のことで理解できないのか。未羽は身をよじらせながら、驚いたような声を上げる。
「ちょっと、雨宮先生…」
雨宮は未羽の声に耳をかさず、黙って自身の行為に没頭する。
これまでも、このような劣情が沸き上がってきたことは何度もある。だが、その度に。雨宮は医者としての責任を自分に言い聞かせてきた。雨宮の人一倍強い責任感と精神力がそれを可能にしてきた。だが、医師としての信頼が揺らぎ、自分の残された時間が刻一刻と近づいてきたことで、全ては決壊した。雨宮は自身の欲情のまま、未羽を求める。
「あ、あっ」
雨宮の指先が優しく触り続けると、未羽の体がピクリと震えた。両手を握りしめて、恥ずかしそうに目を閉じて横を向いている。その頬は少しずつ桜色を帯びてきた。
「あぁ、はぁはぁ」
未羽の息が荒くなってくる。薄目を開けて、雨宮のことをそっと窺ってくる。何かに期待している様子はないが、逃げ出すこともなかった。
雨宮は胸に触れていた手を離し、下腹部へと伸ばしていった。
「いや、やめて」
何をされるのか察したのだろう。彼女も子供ではない。蚊のなくほどの小さな声で、未羽が拒絶する。
だが、雨宮の手は止まらなかった。
「あ、ああっ!」
雨宮の手がワンピース越しに局部に触れると、未羽が喘ぎ声のような声を漏らした。白い喉を鳴らして、背中がわずかに反りかえる。
「あ、雨宮先生、だめ」
きつく閉ざされた未羽の目から、じわりと涙があふれてくる。雨宮はワンピースの中に手を入れて、直接触れようとする。柔らかい太ももに指先を当てて、ゆっくりと局部を目指していく。
「あ、ああぁ」
背中を反らしながら、未羽は首をいやいやと振る。顔はすでに真っ赤にそまり、体全体がびくびくと震えている。長い黒髪が白のワンピースに映え、月明かりに照らされてよりいっそう魅惑を醸し出している。
「んっ! はぁはぁ」
「……未羽」
このまま彼女を穢してしまおう。自分の思うままに、黒い欲望をぶつけてしまおう。雨宮の手が、どんどん乱暴になっていく。
だが、その時だった。
強く閉じられていた目が開いて、雨宮のことを見つめてきた。涙に濡れた瞳が、より一層に官能的に見えた。
彼女はは自分に覆いかぶさる雨宮のことを見ながら、そっと口を開いた。
「いいよ。雨宮先生」
不安が滲み出ている表情で静かに言った。
「その、初めてだから。優しくしてください」
未羽は再び目をぎゅっと閉じて、両手を強く握り締める。抵抗をしないという、彼女の意思表示だった。
「っ!」
そんな彼女を見て、雨宮は言葉を失った。
両手の力が抜け、未羽に触れていた手が離れた。
そして、我に返ったかのように頭を抱える。目は虚ろになりながら、夢遊病者のように呟く。
「……お、俺は」
焦るように、そして脅えるような目で未羽のことを見る。
未羽は乱れた衣服を直そうともせず、黙って雨宮のことを見つめている。
「ち、違う。俺は、こんなことを」
雨宮は恐れるように未羽から離れた。雨宮は何に恐れたのか。未羽からの糾弾か。それとも、自分から離れていってしまうことか。
だが、彼女の答えはそのどれでもなかった。
未羽は目を開けると、ゆっくりと体を起こした。乱れた服のまま床に座りなおして、静かに口を開く。
そして、小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ。雨宮先生」
「えっ?」
思わぬ返答に、雨宮は返す言葉もなかった。
「私、知ってるから。雨宮先生の病気のこと」
「っ! なんで!」
なぜ、彼女がこんなことを言い出すのか。雨宮の理解をはるかに超えていた。困惑する雨宮に、未羽は静かに話す。
「榊先生に教えてもらったんだ。雨宮先生の病気のこと。そして、先生に残された時間がもう少ないこと」
雨宮は絶句する。よりによって、一番知られてはいけない人に知られてしまった。その事実が、雨宮の心を激しく揺らした。
そんな雨宮の手を、未羽は優しく手をとった。両手で握りしめて、そっと自分の胸元に近寄せる。
「辛いよね。寂しいよね。なんで自分ばっかりとか、そんなことばっかり考えちゃうよね」
未羽の言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。雨宮は脅えるように、そして拒絶するように逃げようとする。
だが、未羽は手を離そうとしなかった。決して強く握っているわけでもないのに、雨宮は未羽の手を振り解くことができない。
「私もそうだったから、雨宮先生の気持ちはよくわかるよ」
未羽は静かに目を閉じる。そして思い出すように、とうとうと語りだした。
「私が初めて先生と出会った日のことを覚えてる? なんだが気難しそうな顔をして私のことを見てたよね。なんだか言葉使いも難しくって、距離感みたいなものを感じてたよ。でもね、私にはとても都合がよかった」
雨宮は脅えるような目で未羽のことをを見ている。
「こっちの病院に転院したときから、残された時間が少ないことには気づいていたから。おじいちゃんが無理やり転院させたのだって、意味のないことだってわかっていた。私はこのまま、いろんな人に振り回されながら生きていくんだな、って諦めてもいたよ」
未羽がゆっくりと目を開ける。
大きな黒い瞳が、脅える雨宮をとらえた。
「でもね。雨宮先生が病院から私を連れ出してくれた。自分のために生きろって言ってくれた。あの時、私がどれだけ嬉しかったか、きっと雨宮先生にもわからないよね。木漏れ日の爽やかな空気。真夏のじりじりとした日差し。夕方の寂しそうな秋風。それも全部、雨宮先生がくれたんだよ」
「俺は」
雨宮は俯きながら呟く。
そんな彼の手を、未羽は力強く握り締める。
「私はね、雨宮先生と出会えて幸せだった」
未羽の言葉に、雨宮がビクリと肩を揺らす。
「雨宮先生がいたから、私は私でいられた。病院の真っ白な部屋で、ただ死ぬのを待っているのではなく、柊未羽として、一人の人間として生きることができた」
未羽は静かに、そして力強く言葉を紡いでいく。
「雨宮先生と出会えて、…本当によかった」
未羽は雨宮の手を握り締めながら、にっこりと微笑んだ。
その笑顔を見て、雨宮は力なく項垂れた。
「違う」
雨宮は小さく呟く。
救われたのは未羽ではない。雨宮自身だ。
未羽がいたからこそ、雨宮は強くいられた。強くいようとした。医者だから。医者は患者の前では毅然としていなくてはいけない。不安を与えてはいけない。弱さを見せてはいけない。例え、自分が近い内に死ぬ運命だとしても、体中を癌細胞に蝕まれていても、日に日に強くなっていく全身の痛みに気が狂いそうになっても。雨宮は自我を保っていられた。
未羽という存在が、雨宮を救っていた。
「俺は、何もしていない。ただ怖かったんだ。今まで積み上げてきたものが全て無意味だと言われるような気がして。患者のために尽くしてきたことも、一人前の医者になるために必死に勉強してきたことも。全部が無駄に思えてきて。医者でなくなったら、俺の手には何も残らない。それが、すごく怖かったんだ」
ぽつりぽつりと呟く雨宮。そんな雨宮に未羽はそっと体を寄せた。
雨宮はすがりつくように未羽の両手を握り締める。まるで子供のように背中を丸め、小さくなった肩を震わせた。
「……なんで、だよ」
ぽたぽたと涙が溢れ、彼女のワンピースに染みを作っていく。
「なんでだよ。なんで俺なんだよ。なんで俺だけがこんな目に合わなくちゃいけないんだよ。医者になる、たったそれだけのことなのに。もう手が届いていたはずなのに。なんで…、なんで…」
雨宮は感情が決壊することを堪えるように、唇を強くかみ締める。だが、それでも涙は止まらない。まぶたを強く閉じようとも、僅かな隙間を縫って、とめどない涙が溢れてくる。
未羽は背中を振るわせる雨宮を、そっと抱きしめた。
「怖かったんだよね。寂しかったんだよね」
囁きながら雨宮の背中を撫でる。
「私もそうだったから。雨宮先生と出会うまで、私も独りぼっちだった。怖くて、寂しかった」
雨宮のことを抱きしめながら、そっと囁いく。
「でもね、私には雨宮先生がいた。先生が私を支えてくれた。だから今度は、私が雨宮先生を支える。先生が死ぬその時まで一緒にいるから」
「っ!」
「ずっと一緒にいよう」
未羽は背中に回した手に力を込めて、精一杯抱きしめた。
雨宮も自分よりはるかに小さい少女にしがみつく。
そして、泣いた。
泣いて泣いて、泣き続けた。
枯れることのない涙と、心の底に溜まっていた思いをぶちまけた。
世界を憎み、医者であることを憎み、そして自分自身を憎んだ。
その全てを、未羽は何度も頷いて受け止めていた。
やがて吐き出す言葉もなくなり、ただすすり泣くだけの雨宮に、未羽は優しく告げる。
「大好きだよ。雨宮先生」




