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~2014年 10月13日~ その⑤


「……雨宮先生の、……バカ」

 明かりもつけない薄暗い部屋で、未羽は小さく呟いた。

 雨宮がこの部屋から出て行ってから、彼女はずっとベッドの上で蹲っていた。両膝を抱えて、頭をその上に乗せている。不機嫌そうに尖った唇から出てくる言葉は、彼の名前ばかり。

「本当に。バカ、なんだから」

 時計の針が八時を示している。外は真っ暗になっていて、夕飯を作りに来た家政婦の有子もすでにいない。顔を合わせたときに気分でも悪いのかと聞かれたが、何でもないと誤魔化した。

 夕食はあまり喉を通らなかった。どうしても、あの無表情でぶっきら棒な自分の担当医のことが気になってしまった。

「言い過ぎたよね、やっぱり」

 はぁ、とため息が出てしまう。彼の前ではなるべく感情的にならないようにしているのだが、今日のことはどうしても我慢できなかった。今まで自分のことを守ってくれていた彼に、突然裏切られたような気分だった。

 だが、落ち着いて考えると、今日の彼は少し変だった。まるで不安に押しつぶされそうになっていた頃の自分を見ているようだった。

「仲直りしたいな」

 自然と零れてしまう自分の本心。

 この気持ちに気づいたのは、もうずっと前のような気がする。春頃に彼が自分の病室を訪れてからだ。それからずっと、未羽は一途な思いを胸に秘めていた。

 ……だけど、この気持ちを伝えることはないだろう。

 未羽は自分の残された時間が少ないことに気づいていた。自分が彼と人生を添い遂げることは絶対にない。ならば、この想いも口にする日は来ないだろう。

 いや、口にしてはいけない。

 自分が死んだ後、彼に足枷をかけるようなことをしてはいけない。彼は、雨宮紡人は優しい人だ。優秀な医者である彼の人生の邪魔だけはしたくなかった。

「はぁ、どうしようかな」

 本日、何度目になるかわからないため息をつく。 

 その時、未羽のスマートフォンから軽快な音が流れ出した。着信を知らせるメロディに、彼女は手探りで探す。少しの探した後、床に転がっている自分のスマートフォンを見つける。そういえば、あの時に雨宮に投げつけていたのだ。未羽はうつ伏せになりながら、鳴り続けている携帯電話に手を伸ばす。

 ……雨宮先生だったらどうしよう。

 そんな不安を抱えながら着信画面の名前を見ると、未羽は酷く呆れたような表情になった。画面を操作して耳元に当てる。

「もしもし、何か用ですか?」

 自分でもあからさまに不機嫌だとわかる声を出す。

「あー、もしもし。俺だよ。俺、俺」

「そんな詐欺のような話し方は止めてください。電話を切りますよ、榊先生」

「ごめんごめん。わかったから切らないで、未羽ちゃん」

 電話の主は榊だった。

 この軽薄で調子のいい男が、雨宮の同僚だというのだから驚きだ。それに彼の話では、医者としての腕はいいらしい。それについては彼が過大評価しているのではないかと疑っている。

「久しぶりだね、未羽ちゃん」

「そうですね。それで用件は何ですか?」

「相変わらずつれないね。もっと愛想が欲しいな」

「榊先生に向ける愛想なんて、この世にありません。用がないのであれば切りますよ」

「まあまま落ち着いて。そんなんじゃ、雨宮に嫌われるよ」

 びくっ、を体が反応してしまう。

 思いもしない言葉に、うまく返答できなかった。

「べ、べつに関係ないでしょう!」

「あはは。焦ってるんだ。未羽ちゃんはわかりやすいな」

「むぅ」

 未羽は顔を赤く染めながら小さく唸る。このまま本当に通話を切ってしまおうか。そう考えていると、通話口から榊の声が聞こえてきた。

「いやぁ、未羽ちゃんは元気そうだね。雨宮に元気がなかったんで、心配していたんだよ」

「雨宮先生と会ったんですか?」

 未羽は自分の動揺を隠しながら、なるべく平然を装う。

「まぁね。さっきまで一緒に居酒屋にいたんだ。未羽ちゃんも呼べばよかったかな」

「私は、まだ未成年です」

「知っているよ。あと二ヶ月。今年の十二月で二十歳だよね」

「なんで知っているんですか!」

「医者をなめちゃいけないよ。電子カルテに未羽ちゃんの誕生日は記載されているんだから」

 未羽は思わず口を閉じてしまう。雨宮ならともかく、他の人間に自分のプライベートを知られたくなかった。

「忘れてください。今すぐに」

「あはは。ごめん、ごめん。ちょっとからかい過ぎたね」

 未羽が強い口調で話すと、榊は少しだけ神妙な口調になる。

「まぁ、冗談はおいといて。雨宮のことなんだけど、未羽ちゃん喧嘩でもした?」

「榊先生には関係ないでしょう」

 呟くように答えると、電話口から納得したような声がした。

「あー、やっぱり喧嘩したんだ。そんなことだと思ったんだよね」

「もういいですか。電話を切りますよ」

「待って、待って。最後に1つだけ」

「なんですか。いいかげんにしてください」

 榊との通話に嫌気が差していた。頭の中は、雨宮が何をしているのか気になってしょうがなかった。

「未羽ちゃんってさ、雨宮のことが好きでしょ?」

「っ!」

 不意打ちだった。

 未羽は誤魔化すこともできずに、呆然としてしまう。

「え、えーと、その」

「隠さなくてもいいよ。ずっと前から気づいていたから」

「っ!」

 顔から火が吹きそうだった。

 未羽は真っ赤に染まった顔を隠しながら、ベッドの上で悶絶する。スマートフォンを持ったままゴロゴロと転がりながら、声にならない叫びが口から零れ出る。

「未羽ちゃん、大丈夫? なんだか変な音が聞こえてくるんだけど」

「き、気にしないでください!」

 息を整えて、ベッドの上に正座をする。ゆっくり息を吸って、ゆっくりと吐く。

「落ち着いた?」

「……はい」

 本当は落ち着いてなどいなかった。今も、心臓の高鳴りが胸の奥から響いている。

「そう、よかった。じゃあ、ちょっとだけ大事な話をしていいかな」

「これ以上、何があるんですか?」

 早く電話を切ってしまいたい。そんなことを考えていた未羽に、思いもしなかった問いがかけられる。

「雨宮の病気のこと。未羽ちゃんはどこまで知っているの?」

「え? ごめんなさい、今なんて言いました?」

 聞き間違いだと思った。

「病気? 雨宮先生が?」

「あー、その様子だと、何も知らないのか」

「ちょっと待ってください。雨宮先生が病気って、どういうことですか?」

 未羽が問いただすと、榊はいつになく真剣な口調を語りだした。

「とにかく、落ち着いて聞いて欲しい」

 榊から聞かされたことは、未羽にとって驚愕の事実だった。雨宮が末期の癌で、残された寿命が数カ月もないこと。それでも彼は、医者としての責任を果たそうとしていること。……たった一人の、患者のために。

 頭が真っ白になっていた。

 理解が追いつかなかった。

 だたわかったことは、雨宮自身も残された時間が少ないということ。

「じゃあ、雨宮先生は。自分が病気なのに、私のために」

「あぁ、そうだな」

 榊が短く答える。

 少しの間、沈黙が続いた。

 未羽は何も言えなかったし、榊も何も言おうとしなかった。

「なぁ、未羽ちゃん。もう一度だけ聞いてもいいかな?」

「なにを、です?」

「未羽ちゃんは、雨宮のことが好きかい?」

「……」

 何も考えられない。

 だが、それでも。答えは自然と口から零れていた。

「……はい」

 熱いものが胸からこみ上げてくる。

「……好きです。大好きです」

「そうか。よかった」

 電話口の榊も安堵したような口調だった。

「なぁ、未羽ちゃん」

「なんですか?」

「雨宮のことを頼むな」

 榊はどこか寂しそうに言う。

「あいつを支えてやってくれ。不器用で、無愛想だけれども、俺のたった一人の親友なんだ」

「はい」

 未羽は口元に手を当てて、嗚咽を堪える。いつの間にか流れ出した涙が、留まることを知らず流れ続けた。


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