~2014年 4月26日~ その②
結局、先ほど救急搬送された患者の家族が来たのは、それから一時間後のことだった。
時計の針は二時を指している。ICUの入口の灯りがついたと思ったら、看護師につれられた家族たちがぞろぞろと入ってきた。
「おい、見てみろよ」
榊がにやにや笑いながら、家族のほうを指差す。
雨宮もそちらへと視線を向ける。すると、明らかに不機嫌な表情を浮かべた。
「化粧をしてやがるぜ。あの厚化粧に、どれだけの時間をかけたんだろうな?」
榊が小声で嫌みたらしく言った。
家族は六人ほど。五十代と思われる男女。身なりをきちんと整えていて、女性のほうは厚すぎるほどの化粧で塗り固められている。そのあとを、若い二十代らしき人物が三人。迷惑そうな顔をしながら、黙って後ろをついて歩く。
家族たちは看護師に案内されて、患者のベッドの傍に立つ。だが、誰も悲しそうな顔をしていない。ただ黙って、自分たちの家族を見下ろしていた。
「不愉快だ」
はっきりと雨宮は言った。
「まぁ、そう言うなって。家族との最後の別れだ。化粧くらいしてもいいだろう」
榊はにやにや笑いながら腰を上げた。それからしばらくすると、ICUと医局からぞろぞろと心外の医師たちが集まってきた。彼らは家族が到着するまで、ずっと待機していたのだ。日中の激務で疲労が溜まっているのに、家に帰ることもできない。赴任したての研修医には酷な話だ。
心外の医者だけではない。患者の緊急搬送で呼び出された手術室のスタッフも、ずっと待っていたのだ。麻酔医、オペ看護師、臨床工学技士、放射線技師、臨床検査技師。彼らは、いつ手術になってもいいように準備をしていた。
「じゃあ、心臓血管外科の部長様のご高説でも聞いてくるかな。どうせ手術はしないんだ。最後を看取るくらいは家族にしてもらおう」
「…俺の前では何を言っても構わないが、家族の前でそんなことを言うなよ」
「わかってるさ。神妙な顔をして、部長の後ろに立っていればいいんだろう。いつものことだ」
榊は大げさに肩をすくめる。
そして、やれやれと言わんばかりに患者のベッドに向かっていった。
「おっと、そうだった」
だが、ナースステーションのカウンターをぐるりと回ったところで、榊は雨宮の方へと振り向いた。
「おい、雨宮。そういえば、お前に話すことがあったんだ。寝ずに待っていてくれ」
「なんだ? そろそろ寝ようと思っていたんだが」
「すぐ済むさ。ちょっと、そこで待ってろ」
榊はそれだけ言うと、白衣を翻して患者のベッドに歩いていく。
ベッドの周りには、患者の家族より多い心外の医師たちが集まっていた。研修医やレジデント(専門研修医)も多いが、家族から見たら違いなどないだろう。
その中心で患者の家族に話をしているのが、心臓血管外科の斉藤部長だ。県内ではゴッドハンドと呼ばれる心臓外科のスペシャリストで、榊がこの病院を選んだのも斉藤部長がいたからだそうだ。
患者や家族への説明は、時間がかかることが多い。
専門知識を噛み砕いて説明しなくてはいけないし、なにより今回は手術ができないということを告げる必要がある。遠まわしに、そして家族に不満を与えないように。細心の注意を払わなくてはいけない。榊が戻ってくるまでは少し時間がかかるだろう。
「はぁ…」
雨宮は眠たげなあくびをもらしつつ、電子カルテを操作していく。榊のことを待つつもりなどないが、明日の予定を確認する間はここにいてやってもいいだろう。
ちなみに明日といっているが、すでに日を跨いでしまっているので、実際のところ今日の予定である。あと5時間もしたらいつもの激務が待っているこの状況で、わざわざ榊のために起きていようなどと、雨宮はこれっぽっちも考えていない。
「ん?」
何か違和感を感じて、雨宮は頭を上げた。
ICUの看護師が慌てて走りだし、別の看護師はどこかに電話している。真っ暗なICUの一角に明かりがついた。そこは先ほどまで榊たちがいた患者のベッドだった。
「あー、くそっ。マジかよ」
頭をかきながら榊が歩いてくる。その様子は明らかに不機嫌そうで、いつもの人当たりのよさそうな笑顔はどこにもなかった。
「どうしたんだ?」
雨宮は目の前を通り過ぎようとしている榊に声をかける。
「手術だよ。これから、あの婆さんの緊急手術になった」
「は?」
これにはさすがの雨宮も首を傾げる。たしか、家族の希望で手術をしないはずだったのでは。
「突然、家族の希望が変わったんだよ。できる限りのことをして欲しい、だってさ」
「それで手術か?」
「あぁ。一応、部長も断ったんだが、家族の希望の前には俺達は無力だ。言いなりになって手術をするしかない」
榊は吐き捨てるように言った。そして、着ていた白衣をナースセンターに無造作に放り投げる。
「こうなったのは、全部お前のせいだからな。手術が終わるまで寝るなよ、雨宮」
それだけ言って、榊は走り去っていった。
「……俺は関係ないな」
雨宮は誰も聞いていない独り言を呟く。
しばらくすると、天井から吊るしてある大型のディスプレイに電源が入った。
映し出されたのは、慌しく準備を始める手術室だった。看護師が手術器具や記録用紙を用意する傍ら、麻酔医が麻酔器の電源を入れて動作確認をする。奥のほうでは臨床工学技士が人工心肺をスタンバイさせていた。誰もが余裕などなさそうに、だが慌てた様子などなく真剣な目つきをしている。あと十分もすれば、患者をあそこに連れていけるのだろう。
画面の端から、手術着に着替えた榊が何か指示を出している。声は聞こえないが、あの様子では穏やかではないはずだ。
「…寝るか」
雨宮は電子カルテの前から立つと、仮眠をとるために医局に向かう。早朝回診まで、あと五時間。今から寝れれば、四時間は寝られる計算だ。
結局、手術が始まったのは午前三時を過ぎた頃。
朝日が登って、寝起きの雨宮がICUに来ても、手術はまだ終わっていなかった。