~2014年 10月13日~ その④
……ここに来るのも久しぶりだな。
雨宮はため息まじりにそう思った。
群馬県立循環器センターの近くにあるアパート。間取りは六畳一間のワンルーム。雨宮の部屋だった。
未羽が退院してから一度も来ていないので、もう半年ぶりになるだろうか。
雨宮は鞄からアパートの鍵を取り出して扉を開けた。埃っぽい匂いがした。部屋に入ってみると、床からキッチンから、全てのものに薄く埃がかぶっている。とても人が生活していた場所には思えない。専門書がぎっしり詰まった本棚や、買ってからろくに電源も入れたことのない薄型テレビ。冷蔵庫が低い振動音を立てている。中を見ると、とうに賞味期限が切れたミネラルウォーターが入っていた。
雨宮は掃除をする気すら湧かず、そのままベッドに倒れこむ。布団が波を打ち、かすかに埃が舞い上がる。
……疲れた。
雨宮は声に出さず、心のなかで呟く。
医者になって六年。休む間もない日々だった。アパートと病院を行き来するだけの日常。毎日毎日、患者のために忙殺され、ゆっくりと休むことさえできなかった。辛いと思ったことはない。責任や義務、あとは一種の使命感のようなもので働いていた。患者のために自分を犠牲にすることが、崇高とさえ思えていた。
だが、去年の冬。事態は一変した。
自分が癌の末期と知らされ、余命が長くないと告げられた。
……恐れはなかった。
……絶望もしなかった。
ただ、自分の今まで生きてきた時間はなんだったのかと、思い返すようになった。患者のため、病院のため、働き続けてきた自分には果たして何が残っているのだろうか。
そして気づいてしまった。自分は他人のために生きてきただけで、自分のために何もしてこなかったのだと。
友達も、恋愛も、数少ない趣味でさえ、患者のために全て投げ出してきた。
……恐れはなかった。
……絶望もしなかった。
……ただ、空っぽだった。
何も持っていない自分が、酷く空虚だった。
なぜ、医者になったのか。
なぜ、自分は生きいたのか。
答えのない自問自答を繰り替えす日々が続いた。
そんなときに出会ったのが、……未羽だった。
残された余命が少なくても、自分らしく生きたいと語った可憐な少女。そんな彼女に心を打たれた。こんな自分でも何かできるのではないか。そう思えるようになった。
だからこそ自分は北部長に全てを話して、彼女のためにできる全てを探した。彼女と共に生活をして、彼女の幸せだけを願おう。手探りで始まった彼女との生活も、少しずつ安定を得るようになった。そして、いつしか自分も、彼女との時間を満ち足りたものに感じるようになっていた。
……だが、それももう終わりだ。
寝返りを打って天井を見つめる。空っぽの頭でこれからのことを考える。
未羽に拒絶されてしまった以上、自分は彼女の医者でいられないだろう。未羽のことは、信頼できる別の内科医に託すしかない。
終わったのだ。
もう何もすることがない。
このまま目を瞑って、二度と目覚めなければいい。
「もう、疲れたな」
雨宮は目を閉じて眠ろうとする。だが、意識ばかりがさえて、いっこうに眠くならない。医者としての不規則の生活を続けてきたせいか、必要以上の睡眠を拒んでいるようだ。まるで、もっと働けといわれているようで気分が悪くなった。
「何をしたらいいんだろう」
雨宮がひっそりと呟く。
何かしたいという願望すら沸いてこない。
趣味や好きなことなど、遠い昔に置いてきたような気分だった。好きなことを諦めて、休むことをやめて、最後には感情まで捨てた自分は、医師という肩書きだけを背負った機械のようだった。
医者なんて自動車工場の作業ロボットと大差ない。ベルトコンベアに乗せられた患者を、流れ作業のように診ていくだけだ。違いがあるとすれば、周りから人間を辞めろと言われることだけだ。何も考えず、何も求めず、体が壊れるまで働き続ける。ロボットが意識を持つことができなくても、医者が人間を捨てることはできるのだ。
「あぁ、そうだ」
雨宮はベッドに横になったまま、手探りでスマートフォンを探す。画面を操作して電話帳を開くと、さ行の一番上にある人物にメールを打つ。
……こんなときには酒を飲むに限る。
「まさか、今日のうちに連絡が来るとはな。何かあったのか?」
隣を歩く榊がにやりと笑う。
「別に。何でもないさ」
「あやしいな。さては、未羽ちゃんと喧嘩でもしたな」
妙なところで鋭い男だ、と雨宮は心の中で舌打ちをする。
「何を根拠のないことを。別に何もないと言っているだろうが」
「まぁ、いいさ。酔いつぶれたころに訊いてやるよ。今日は飲むんだろう?」
榊の問いに、雨宮は黙って頷く。
榊が指定してきた店は、前橋市の中心部からほどなく離れた場所にあった。一見すると開いているのかわからないほど閑散としている。隠れ家的な居酒屋ともいえなくはないが、雨宮には閑古鳥が鳴いているといったほうが正しいと思えた。
「さぁ、朝まで飲むぞ。雨宮、覚悟しておけよ」
「馬鹿を言うな。今、何時だと思っているんだ」
雨宮は西日を差している夕陽を睨みつける。今が午後五時を少し回ったところだ。この男はこれから十二時間以上飲み続けるらしい。
「そもそも病院のほうは大丈夫なのか。急患が来たらどうするつもりだ?」
「抜かりはないさ。待機の当番なら、岩隈さんに代わってもらった」
たしか岩隈医師とは、今年で50歳になるベテランの心外医だったはず。大先輩の医師を顎で使うとは、何と恐れ知らずな男だ。雨宮は呆れた目で榊のことを見る。
「まぁ、たまにはいいだろう。岩隈さんが当番のときだって、俺が手術室に入ることもあるんだから」
榊は人差し指をメスのように動かしながら、悪びれずに笑う。
「とにかく。そんな俗世間なことは忘れて、今日はとことん飲もうぜ。お前のその無表情が崩れるまで、俺が勺をしてやる」
「お前の勺なんぞで飲めるか。酒がまずくなる。手酌の方がまだマシだ」
「はは、雨宮のくせに言うじゃないか。これは今日の酒は美味そうだ」
何を勘違いしたらそうなるんだ。雨宮はそんな疑問を胸に抱えながら、榊と一緒に居酒屋の暖簾をくぐった。
店内はこじんまりとしていながら、思いのほか綺麗だった。カウンター席が5つにテーブル席が2つ。雨宮たちの他に客はいない。棚には様々な銘柄の日本酒が置かれている。中には入手困難とされているものまであった。
「いい店だな」
「そうだろ。本当はもっと遅くないといけないんだが、店の主人に開けてもらった」
榊は我がもの顔で店内に入っていくと、カウンター席の真ん中に座った。
「雨宮、何を飲む。この期に及んで梅酒とか言わないよな」
「はっ、まさか」
雨宮は鼻で笑いながら榊の隣に座る。体に気を使って強い酒を避けてきたが、それが今になっては馬鹿馬鹿しく思えてくる。今日は酔いつぶれるまで飲むとしよう。
しばらくすると、奥から店の主人らしき人物が出てきた。背が高く、肌は色黒い。強面で口数が少なそうな年齢不詳の男だった。
「よっ、マスター。悪いな、こんな時間から開けてもらって」
榊の声に軽く頷いた店の主人は、榊と雨宮の前に水を出すと何も言わず、奥へと引っ込んでしまった。
「他の客には挨拶をするんだが、俺には何も言わないんだよな。何でだろうか?」
「嫌われているんだろう」
雨宮は即答する。
「そんなわけないだろう。俺はこの店にもう二年も通っているんだ。ここは穴場なだけに、女の子を口説くのに丁度いいんだ」
「もういい。お前と話していると疲れる」
酔っ払って女性に手を出している榊の姿を思い浮かべて、店の主人に深く同情する。
雨宮は棚に並んでいる日本酒から新潟の名酒を頼むと、榊は群馬の地酒を注文する。
「じゃあ、乾杯しよう。えーと、何に乾杯するか…」
「この瞬間も働いている全ての医者に」
榊の言葉を遮って、雨宮がグラスを持ち上げて高らかに言う。
すると、榊もにやりと笑って、グラスを突き出した。
「この瞬間も働いている全ての医者に、乾杯!」
チンッ、とグラスの交わる音がする。雨宮はグラスを口に運ぶと、一気に全部を飲み干した。酒が腹に落ちて、体が一気に熱くなる。
「うまいな」
「おいおい。普通、一気に飲むか。夜は長いんだぜ」
「いいんだよ。今日は」
雨宮は店の主人におかわりを頼むと、カウンターに肘をついた。
「もう、疲れたんだ。いろいろとな」
「まっ、そうだよな」
榊は遠い目をしながらしみじみと答える。
そして榊もグラスを傾けると、群馬の地酒を一気に胃袋に納めた。
「かっー、美味い! このために生きてるよな!」
榊は空になったグラスをカウンターに勢いよく叩きつける。雨宮のおかわりをもってきた主人があからさまに嫌そうな顔をした。
「さぁ、雨宮。今日はとことん飲もう。嫌なことは全部忘れて、酒に溺れようぜ」
なんとも安易な言葉である。だが、雨宮は返事の代わりに酒の入ったグラスをつきだした。どうせ、もう守るものなどない。並々と注がれた酒を一気に煽りながら、焼きつくような喉で感嘆の声を上げていく。
「うまいな」
「あぁ、うまい!」
最初のグラスが空いてから三時間ほど経過した。店内には雨宮と榊のほかにも、数名の客が酒を飲んだり会話に興じたりしている。
雨宮は自分がどれほど飲んだのかわからなくなっていた。それでも、目の前に出される日本酒をひたすら飲み続けた。酔いもほどよく回って、頭がふわふわとしている。
「それで、未羽ちゃんと何があったんだよ」
「何もないと言っているだろうが。しつこいな、お前も」
酔っ払って顔を赤く染めた榊を、雨宮は目を細めて睨む。
「そもそも、なんで未羽と何かあったことが前提なんだよ」
「そりゃ、お前が落ち込むなんて、未羽ちゃんのことしか考えられないだろう?」
「ふん、くだらない」
不愉快と言わんばかりに、雨宮は空になったグラスに視線を移す。視界もぼやけてきて、グラスの輪郭が二重に見える。
「例え、未羽との間に何かあったとしても、お前に話す道理はない」
「……ということは何かあったんだな。喧嘩か? 喧嘩でもしたのか?」
げらげら笑う榊に、雨宮は心底気分が悪くなる。店の主人に水をバケツ一杯もらってこの男の頭に落としてやりたいとさえ思う。だが不運にも、色黒の主人は他の客の接客中だ。仕方なく、雨宮は耳を塞ぎたくなるような笑い声に黙って耐えるしかない。
「はぁ、はぁ。あー、腹が痛い」
一通り笑い終えた後、榊が雨宮のほうに振り向く。
「久しぶりだよな、こうやってお前と2人で飲むのは」
「そうだな」
確かに、過去には榊と2人で飲んだこともある。雨宮にとっては思い出したくもない昔話だった。
「いつ頃だっけ、最後に飲んだのは?」
「大学生の時だ。医学部の二年の秋」
「へぇ、よく覚えているじゃないか」
「当たり前だ。あの時、お前が何をしたかを覚えていないのか」
「俺が、じゃない。…俺達が、だろう」
榊が意味ありげに、にやりと笑う。
すると、雨宮は聞きたくないというように視線を逸らした。
「凄かったよな。泥酔した雨宮が暴れだしてな。イスやら机やら、みんなひっくり返して」
「机をなぎ倒したのはお前だ。イスを放り投げたのもお前だ。それに先にちょっかいを出してきたのもお前だ」
「そうだっけ?」
都合の悪いことは全部忘れているのか。雨宮は思わず顔をしかめる。
「そうだよ。俺が一人で静かに飲んでいるときに、横からお前が乱入してきて…」
「あー、そういわれればそうだったな。医学部の飲み会だっていうのに、一人で飲んでいる雨宮を見つけたんだったな」
「ふん、放っておけばいいものを」
「そうはいかない。学部一番の秀才が、一人で寂しく飲んでいるところを見たからにはな。からかいたくなるのが人情だ」
「それが余計なことだと言っている」
雨宮は榊のことを睨みながらグラスを持ち上げる。空だと思っていたグラスには、いつの間にか口いっぱいに注がれていた。店の主人が気をつかって水でも入れてくれたのだろう。
「酔っ払ったお前がわけのわからないことを言うから、俺はこの世の常識を説いてやったんだ。それなのにお前ときたら、突然怒り出して殴りかかってきたんだぞ」
グラスを傾けて一気にあおる。食道を通り、胃袋に落ちたところで、それが水でないことに気がついた。視界がぐらんと傾き、頭の中では打楽器ががんがん鳴り響く。雨宮はすぐに、店の主人に水を注文した。
「ははっ、そうだったな。医者とは患者に全てを捧げるものだ、とか言っていたんだ。そんなことを同じ学生に言われて、腹立たしかったんだよ。そしたらお前も殴り返してきて、そのまま店の中は乱闘騒ぎ。他の連中が止めなかったらどうなっていたか」
「思い出したくもない話だな。俺の人生において、最大の汚点だ」
主人から水の入ったグラスを受け取ると、今度は水であることを確認しながらゆっくりと飲む。
「そうでもないだろう。あの一件から、俺とお前は医学部のヒーローだ。他人に馴染めなかったお前が、飲み仲間ができるまでになったのは、あれからなんだぜ」
「お前と飲みに行くことは禁止されたがな。まぁ、例え止められなくても、行くことはなかっただろうが」
「ははっ、それは言えてる」
榊が高らかに笑う。その笑い声すら、雨宮の頭の中を激しく揺さぶらせる。いよいよ目の前がぐるぐる回りだし、吐き気さえこみ上げてくる。
「……まずい」
雨宮はぽつりと呟くと、頭を抱えながらカウンターに倒れこむ。
「おいおい、どうした。夜はこれからだぜ」
「うるさい。少し黙っててくれ」
「顔色が悪いな。青白くなっている。ちょっと酒が足りないんじゃないのか?」
「それで調子が良くなるのはお前くらいだ」
自分の声にも覇気がない。雨宮はゆっくりと立ち上がると、主人にトイレの場所をきく。
「席を外すぞ。ここの払いを俺に押しつけて逃げるなよ」
「わかってるって。ゆっくり便座と語り合ってこい」
榊はポケットからスマートフォンを取り出しながら、手をひらひらとさせる。どうやら誰かに連絡をとっているようだった。
雨宮は悪態を返すこともできず、ふらふらと店の奥へと歩いていく。
十分ほど便座と熱い談話をして、思いのたけを全て吐き出した。眩暈や頭痛は治らないが、気分だけはすっきりした。雨宮はふらふらと体を揺らしながらカウンター席に戻る。すると、隣に座っている榊が黙って水を差し出した。
「ほう、感心だな。お前にもそれくらいの気遣いが…」
そこまで言って雨宮は閉口してしまった。自分の隣に座っている人物が、どう見ても調子だけはいい軽薄な男に見えなかったからだ。
「こんばんは、雨宮先生」
その人物は明るい猫なで声で、雨宮の名前を呼ぶ。
「昼間に言っていた先約って、榊先生のことだったんですね。てっきり、柊未羽さんと食事なんだと思っていました」
「……」
雨宮はいまだ黙ったままだ。驚いたように目を見開いて、隣に座る下澤香織のことをまじまじと見つめる。
「隣をいいですか?」
香織は得意げな笑顔を浮かべている。
「なぜ、ここに君がいるんだ。榊はどうした?」
「変なことを聞くんですね。別にどうだっていいじゃないですか」
香織は座り直しながら、雨宮のほうに体を近づける。病棟で働いているときのナース服とは異なり、当然ながら私服だった。両肩を出して、胸を強調するような露出の大きい服装。ぽっかりと開いた胸元から、豊満な胸の谷間と黒い下着が垣間見える。
まるで娼婦だな、と雨宮は心のなかで毒づく。
「さぁさぁ、雨宮先生も飲みましょう。私、まだ飲み足りないんですぅ」
酒気で頬を染めて、猫のように甘えた声を出す。これが猫であったらまだ可愛げがあったものを。
「すまないが、俺は―」
「はいはい。先生。私が勺をしてあげます。どんどん飲みましょう」
いつの間に注文してあったのか、目の前には徳利と御猪口が2つ並んでいる。半ば押し付けられるように持たされたお猪口に、香織は日本酒を並々と注いでいく。
「さぁ、ぐっといってください」
笑顔の香織に見つめられ、雨宮は終始困惑していた。ただ黙って、日本酒に映った自分の顔を見ている。酷い顔だな、と心の底から思った。
下澤香織に勺された酒を飲むのか。
そう思ったときに、なぜか未羽の顔が浮かんだ。あの可憐な少女は、今頃どうしているのだろうか。
「……っ」
そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしかった。未だに自分があの少女に未練を引きずっているのか。雨宮は苛立ちを隠すように、酒を一気に煽った。
「わー、すごい。雨宮先生って、お酒が強いんですね」
わざとらしく手を叩く香織。それに対して、雨宮は治まりかけていた酔いが再び回ってきた。銘柄はわからないが、とても強い酒を出されたような気がした。日本酒かどうかさえ怪しい。
激しくなる頭痛をおさえながら、雨宮は口を開く。
「君は飲まないのか?」
「いえ、私はビールを注文したので」
そう答えながら、再び日本酒の入った徳利に手を伸ばす。雨宮は眉間にしわを寄せた。こんな強い酒を飲まされては、すぐに前後不覚になってしまう。むしろ、それが香織の狙いであるような気さえしてきた。
「さぁ、雨宮先生。嫌なことなんてみんな忘れて、今日は羽を伸ばしましょう」
香織の言葉は悪魔の甘言のように響いて、雨宮の耳を打つ。責任や義務。それを捨てられたらどんなに気が楽になることか。
だけど、と雨宮は思った。もう自分には守るべき責任や、果たすべき義務もない。ただゆっくりと死が迫ってくるのを待つしかない。
そう思った瞬間。何か冷たいものが雨宮の背中を通っていった。今まで目を背けてきた死の恐怖が、現実となって襲いかかってくる。
「っ!」
雨宮は自分の恐怖を振り切るように、香織が注いだ酒を飲み干す。視界が不明瞭になり、周囲の音さえ遠く感じる。思わずカウンターに肘をついて頭を支えた。
「あらあら、大丈夫ですか?」
「あまり、よくないな」
「そうですか」
苦悶の表情を浮かべる雨宮を見て、下澤香織は顔をさらに近づいてきた。雨宮の腕に抱きついきながら、耳元で妖しく囁く。
「ねぇ、雨宮先生」
「……」
答えることもできない雨宮に、下澤は妖艶に微笑む。
「気分が優れないのでしたら、どこかでゆっくり休みませんか? 近くにホテルがありますし、私の部屋でも構いませんよ」
豊かな胸をこれでもかと押し付けて、指先で雨宮の頬を撫でる。香水でもつけているのか、それとも彼女自身の体臭なのか。むせ返りそうになるような甘い香りが鼻につく。上気した頬はそれなりに艶やかだった。
このまま落ちるところまで落ちてしまおうか。下澤香織の誘いにのって、ホテルでも彼女の部屋にでも行ってしまうか。
雨宮はもう一度、下澤の顔を見る。すると何を勘違いしたのか、下澤は目を閉じて、唇を上向きにしてくる。まるでキスをされるのを待っているかのように。
「……」
雨宮は何も考えなかった。
考えることをやめた。
何一つとしてうまくいかない現実から、少しでも目を逸らしたかったのかもしれない。それとも、忍び寄る死の恐怖から逃げ出したかったのかもしれない。
雨宮は引き寄せられるように、香織の唇へと近づける。口紅をつけた赤い唇は、少しも魅力的には見えない。むしろ醜いとさえ思えてしまう。だが、それでも雨宮はやめようとしなかった。この不安を紛らわせてくれるなら何でもよかった。
だが、その瞬間。
脳裏に彼女の笑顔が横切った。
「……っ!」
雨宮は顔を背けた。
そして、香織から強引に距離をとった。
「え?」
香織は何が起きたのかわからなかったような表情で、雨宮のことをじっと見ている。
「どうしたんですか、雨宮先生?」
「やめよう」
雨宮はぼそりと呟く。
「もう、やめよう。君も少し離れてくれ」
雨宮は俯きながら香織に言う。しばらく待っても離れようとしなかったので、少し乱暴に手を振り解いた。
「悪いが、一人にしてくれないか」
眉間にしわを寄せて手を当てる。雨宮のそんな様子に、下澤は何を勘違いしたのか、再び体を寄せてきた。
生暖かい吐息が耳元に触れる。
気持ち悪くて鳥肌が立った。
「雨宮先生は疲れているんですよ。だって、たった一人の患者のために、医者としての人生を棒に振ろうとしているんですよ」
「君には、そう見えるのか?」
雨宮はうっすら目を開けて、香織のほうをじろりと見る。
すると、何も知らないような笑みを浮かべた。
「はい。雨宮先生のように優秀なお医者さんは、これからも多くの患者さんを助けていくんです。だから、あんな子のことなんて忘れて、今はゆっくりと休んでください」
香織の手が雨宮の頬に伸びてくる。
だが、その手を乱暴に払いのけた。
「お前に何がわかる」
小さく、それいて明らかに怒りのこもった声だった。
「え?」
「お前に何がわかる! お前は俺の何を知っているというんだ!」
雨宮は頭を押さえながら、苦痛の表情を浮かべる。
「これからも多くの患者を助ける? バカを言うな! それができるのであれば、俺はこんな不安でいることはないんだよ!」
「雨宮先生?」
香織が怯えたような声を上げる。
だが、雨宮の耳には届かない。
「お前にわかるのか、この気持ちが! 医者になる。ただそれだけを目指していたのに、それが目の前から根こそぎ持っていかれたんだぞ!」
雨宮は叫びながら立ち上がる。頭痛と吐き気で、意識が飛びそうなった。それでも声を荒らげることをやめない。店内にいた他の客や店の主人が怪訝そうな視線で見つめた。
「医者じゃなかったら、俺には何も残らないんだよ!」
「あ、雨宮先生。ちょっと落ち着いて」
「うるさい、黙ってくれ!」
ぐらん、と頭が宙を浮く感じがした。これ以上、感情的になっていると本当に意識を失いそうだった。
「なんのために、今まで頑張ってきたと思っているんだ。休みも祝日も関係なく働き続けて、患者のために尽くして。その結果がこれか?」
「雨宮先生?」
何のことを言っていることが理解できないのだろう。香織は戸惑った様子で、雨宮のことを見ている。
「本当に、いい加減にしろよ」
雨宮は座ったままの下澤香織を見下ろす。茶色に染めた髪と、重ね塗りされた化粧が目障りなほど照明に反射している。
一瞬でも、こんな女に惹かれそうになった自分を恥じた。
「俺は帰る」
「ちょっと、雨宮先生」
「勘定は俺が持つ。君は一人で好きなだけ飲んでいればいい」
上着のポケットから財布を取り出すと、そのまま店の主人に放り投げる。
雨宮は店から出ていった。背後から何か聞こえたような気がする。雨宮を呼び止める店の主人か、それとも下澤香織の未練がましい声なのか。雨宮にとってはどうでもよかった。とにかく一人になりたかった。頭痛と眩暈と吐き気に苛まれながら、誰もいない場所を探す。
だが、それすら叶わなかった。
「一人か。まぁ、予想通りだな」
店から出たところで、壁に寄りかかった男に声をかけられる。その声の主を見て、雨宮はこれ以上にないほど不快な顔をした。
「お前の仕業か、榊」
そこには店内からいなくなったはずの榊が、腕を組んだまま飄々と笑みを浮かべていた。
「なんだ。今頃になって気づいたのか。俺と下澤ちゃんが入れ替わっていた時点で気づけよ」
「……っ」
榊に悪態をつこうにも、頭の中がぐるぐる回っていて言葉にならない。
そんな雨宮を見て、榊はにやりと笑う。
「その様子じゃあ、ずいぶんと飲まされたようだな。なんだったら、今からでも下澤ちゃんと一緒に夜の街へと消えてもいいんだぜ」
「何のつもりだ?」
雨宮が額を押さえながら声を絞り出す。
「なぜ彼女をここに呼んだ。お前は何をしたいんだ」
「何でと言われてもな。理由は特にないんだが。まぁ、しいて言うなら、あまりにもお前が惨めに見えたからだな」
「……なんだと?」
店の壁に手を突きながら、雨宮は榊のことを睨みつける。
「惨めだと。俺が?」
「あぁ、そうだな」
榊が答えながら、嫌味な笑みを浮かべる。
「全身を癌細胞に侵されて、惚れた女に拒絶されて。生きる気さえなくなったお前には、別の女を宛がうくらいが丁度いいと思ったのさ」
カッ、と雨宮の頭が熱くなった。怒りに身を任せて、榊の胸座を掴む。
そして、今にも殴りかかりそうなほどの剣幕で、怒鳴り声を上げた。
「榊! お前は!」
「なんだよ、雨宮。本当のことを言われて怒るなんて、お前らしくないな」
雨宮につかまれている榊は笑みを浮かべている。
「なんだったら、このまま大学生だったころの続きでもするか。今日は止める奴もいないぞ」
余裕のある姿勢を崩さない榊。
そんな榊の態度が、雨宮の神経を逆撫でにした。
「っ!」
「おっと」
拳を振り上げ、榊の顔面へと殴りつける。
だが、次の瞬間。榊は雨宮の拳を難なくかわす。空を切っていく拳を見ながら、榊は雨宮の足を引っ掛けた。
「ぐっ!」
バランスを崩した雨宮はそのまま地面へと倒れてしまう。
ただでさえこみ上げてきた吐き気が、さらに深刻なものになる。目に映るものが全てぐにゃぐにゃに歪み、どこが地面なのかもわかならい。
「バカ野郎。そんな泥酔状態で俺に勝てるわけがないだろう」
「くそっ」
悪態をつく雨宮を、榊は呆れたように見下ろす。
「それに、もう喧嘩をするような歳でもないんだよ。わかったなら、さっさと帰って仲直りをしてこい。女に謝れるのは、男の特権なんだぜ」
「うるさい。お前に何がわかる」
「わからねぇよ。というか知りたくもねぇ」
榊はポケットから携帯を取り出すとタクシーを呼び出した。数分後に来たタクシーに、雨宮は押し込まれる。
「ほらっ、乗れ。自分のことを知ってほしければ、自分の口で言うしかないんだよ。ガキじゃないんだから、それくらい知っているだろう!」
朦朧とする意識の中で雨宮が見たものは、運転手に1万円を渡しながら、ひどく聞き覚えのある場所を指示している榊の姿だった。




