~2014年 10月13日~ その③
雨宮は医師当直室を出て、真っ直ぐ病院の玄関を目指した。ICUの前を通りすぎて、階段を下りようとしたところで足が止まり、エレベーターへと体の向きを変えた。今の雨宮に、階段を下りていくほどの余裕はなかった。
「あれ、雨宮先生ですか?」
エレベーターのボタンを押そうとしたとき、雨宮は後ろから声をかけられた。若い女性の声だった。
「病院で会えるなんて運がいいです。今日は仕事ですか?」
「いいや。検査の結果を受け取りに来ただけだ、下澤さん」
そこにいたのは4階病棟で勤務している下澤香織だった。最後に会ったのが二ヶ月ほど前だったが、さすがに雨宮も彼女の名前を覚えていた。
「お久しぶりですね。このあいだのお酒の席以来ですよね」
「あぁ、そうだな」
香織は少し派手な化粧と、髪を明るい茶色に染めていた。長く伸びた爪が、雨宮にはとても不思議だった。普段の業務に差し支えはないのだろうか。
「そうだ。よかったら、今晩どうですか? 二人で食事に行きませんか?」
「え?」
「私、今日は日勤なので夜は空いているんですよ。一人でご飯を食べるのも楽しくないので、どこかに食べに行きましょうよ」
香織は楽しそうに笑う。
それと対照的に、雨宮は渋い顔をしていた。業務中にするような会話でないと、頭のなかで思っていた。
「悪いな。今日は先約があるんだ」
「そうですか。残念です」
そう言いつつも、香織は落ち込んだような素振りは見せなかった。一度、頭を下げると、その場から立ち去ろうとする。だが、ふと思い出したかのように雨宮に声をかけた。
「雨宮先生。ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
香織は迷うことなく訊く。
「先約って、柊未羽さんのことですか?」
「は?」
思いがけない問いに、雨宮は一瞬だけ戸惑う。
それと同時に、思い出したような素振りは演技であったと確信した。きっと、言い出すタイミングを見計らっていたのだろう。
「雨宮先生も大変ですよね。一人の患者のためにそこまでしなくちゃいけないなんて」
香織には雨宮が動揺したように見えたのか、余裕のある微笑を浮かべている。
「それが医者の責任だからな」
そう答えながら、先ほど榊と交わした会話を思い出していた。
「そうですか。でも子供だからって、患者さんを甘やかすのはよくないと思います。雨宮先生にも、たまには休息が必要なんじゃないですか?」
雨宮は返答しようと口を開く。だが声にならなかった。自分自身、何を言いたいのかわからないのだと悟った。
「それに、あの子ばかり特別扱いなのも卑怯だと思います。患者さんは他にもたくさんいるのに」
香織は真剣な表情で見てくる。
雨宮は視線を逸らすと、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……俺の患者は、あいつだけだよ」
「え、何か言いました?」
「なんでもない」
雨宮の言葉に、香織は不思議そうな顔をする。そんな彼女から視線を外して、エレベーターのボタンを押した。
「下澤さんも仕事に戻ったほうがいい。ICUが忙しくなると、病棟だって忙しくなるだろう。油ばっかり売っていると、相川看護師長に怒られるぞ」
「そうですね。わかりました。また今度、誘いますね」
香織は頭を下げると、その場から去っていった。ちょうどエレベータが来たので、雨宮は黙って乗り込む。そして、扉が閉まると同時に枯れた咳をした。
「ごほっ、ごほっ。あぁ、面倒な人だ」
車を運転して1時間。
雨宮はダリオ宮に戻ってきた。駐車場に車を止めると、ポケットから咳止めを取り出して、無造作に口の中に放り込む。未羽には病気のことを悟られるわけにはいかなかった。
玄関に入ると一階の奥の部屋から、おかえり、と声がした。未羽の声だった。
未羽が車イスの生活になってから、彼女の部屋を二階から一階に移すことになった。おかげで車イスでの生活は楽になったが、窓から榛名湖が見えなくなってしまった。そのことを未羽は少しだけ残念そうにしていた。
雨宮は玄関で靴を脱ぎ、彼女の部屋へと向かう。その途中で、姿見の鏡で自分の顔を見る。鏡に映った自分の顔色は、とてもじゃないが良好ではなかった。少しでも顔色がよく見えるように、顔面をごしごしと擦ってみる。だが、顔色は少しもよくならなかった。
「未羽、入るぞ」
雨宮はノックしてから扉を開ける。彼女は一人で動くことを禁止されてからは、ベッドで本を読んでいることが多くなった。きっと今も、ベッドの上で分厚い本を開いているに違いない。
「あ、遅かったね。お昼頃には帰ってくるんだと思ってた」
だが、未羽の姿を見て、雨宮は言葉を失っていた。
運動の制限をしているので、室内であっても車イスを使うと約束をしている。それなのに彼女は今、机の上に立って背伸びをしながら、本棚へと手を伸ばしているのだ。
「お昼なら先に食べちゃった。でも、雨宮先生の分も冷蔵庫にあるって、小林さんが言ってたよ」
未羽は笑いながら、机の上から勢いよく飛び降りる。とんっ、と軽い音をさせて、何事もなかったかのようにベッドに腰掛けた。
「ねぇ、雨宮先生。本棚を整理したんだけど、どう思う。綺麗になったでしょ?」
無邪気な笑顔を浮かべながら本棚を指差す。
その笑顔が、雨宮の神経を逆撫でした。
「未羽っ!」
突然、雨宮が大声を上げた。
その声に、未羽の体がびくりと震えた。
「えっ?」
雨宮の突然の怒声に、未羽はわけもわからず戸惑う。
だが、そんな彼女に気づくこともなく叫び続ける。
「何をしているんだ! 部屋の中でも車イスを使うように言っているだろう!」
「部屋の模様変えだよ。いいじゃない、それくらい」
雨宮の怒った表情を見て、未羽の顔も次第に不機嫌そうになる。
「駄目だ! 今度、発作が起きたら、ここには戻れないかもしれないんだぞ! それなのに、なんでお前はっ!」
頭に血が上った雨宮は、勢いに任せて怒鳴り散らす。
すると、未羽は渋々と頭を下げた。
「悪かったわよ。ごめんなさい」
そう言った未羽は横を向いて雨宮と目を合わせようとしない。
荒く肩で息をする雨宮。不機嫌そうにそっぽを向く彼女を見て、雨宮はようやくいつもの冷静さを取り戻していた。
「……悪い。言い過ぎた」
頭を抱えたくなった。なぜ、自分がこんなにも逆上してしまったのかわからない。まるで、何かに焦っているようだった。
……焦っている?
雨宮は眉間にしわを寄せて唇を噛む。そうだ。自分は焦っているのだ。未羽の病状が良くならないことに。心臓移植ができなくなったことに。自分の体調がどんどん悪くなっていくことに。
なにもかも上手くいかない。そんな自分に焦っているのだ。そんなこと榊に言われるまでもなくわかりきったことだ。
もし、未羽より先に自分が死んでしまったら。そんな不安が頭をよぎる。街中から離れたこの屋敷で一人ぼっちになる少女。自分の亡き後に、彼女の幸せを願える医師は現れるのだろうか。それとも、未羽もまた、一人寂しく死んでいくのか。
……吐き気がした。
そんなことを考えてしまう自分に吐き気がした。
きっと、抗癌剤の副作用のせいだけではないだろう。
雨宮は不快な気分を押し込んで、なるべく平静を装いながら未羽に声をかける。
「本当にすまなかった。こんなことで大声を出すなんて、俺もどうかしていた」
深々と頭を下げる雨宮。
すると、そっぽを向いていた未羽が雨宮のことを見て、静かに笑った。
「うん。大丈夫だよ。私も勝手なことをしてごめんなさい。模様替えも雨宮先生が来てからすればよかったんだよね」
彼女の笑顔を見て、雨宮は胸の奥が苦しくなる。本当に、この少女には頭が下がる。死の現実がそこまで迫ってきているのに、ここまで他人に気を配れるものだろうか。自分なんて、大人気もなく怒鳴り散らしてしまうのに。
「でも、雨宮先生が大声を出すなんて珍しいよね」
「ちょっと病院で色々あってな」
言葉を濁す雨宮に、未羽は口に手を当てて笑う。
「あはは。偉い先生に怒られちゃったとか?」
「まぁ、そんなところだ」
雨宮は穏やかに微笑みながら、未羽のことを見つめる。
自分はいつまで、彼女の隣にいることができるのだろうか。
あと、半年?
いや、三ヶ月くらいかもしれない。
自分の病状が悪化することは怖くはないが、未羽のことだけは気がかりだった
このままで本当にいいのだろうか。
自分が倒れる前に、彼女を入院させなくていいのだろうか?
ここにいることが、本当に彼女の幸せなのだろうか?
そんな疑問が、頭から離れない。
「……なぁ、未羽」
そんなことを考えていると、雨宮の口から自然と言葉が零れていた。
きっと、いつかは言おうと思っていたのだろう。
優しく諭すように、雨宮は告げた。
「病院に戻らないか?」
「え?」
雨宮の言葉に、未羽は目を見開く。
驚いたように見つめるが、雨宮も黙ったまま何も言わない。
「ごめん、雨宮先生。今、何て言ったの?」
未羽は明るい表情で、だけどどこか引きつったような笑顔で聞いてくる。
雨宮は答えた。
「もう一度、病院に戻る気はないか?」
「それって、検査の入院ってこと?」
「いや。検査入院よりも長くなるだろう」
「どれくらい?」
「たぶん、これからずっと」
雨宮の答えに、いよいよ言葉を詰まらせる未羽。
どうしていいかわからず、慌てるように、そして脅えるように言葉を紡ぐ。
「ど、どうして? なんでそんなことを言うの?」
未羽は雨宮の服を掴むと、自分の方に引き寄せた。
「雨宮先生が言ったんだよね。私の好きなようにすればいいって。自分の生きたいように生きろって。それなのに、なんで雨宮先生がそんなことを言うの!?」
彼女の声はだんだん震えて、最後のほうは聞き取れないくらい弱々しくなっていく。その小さな肩を震わしながら、雨宮の服をぎゅっと掴む。
「ねぇ、何か言ってよ。雨宮先生!」
未羽の問いに、雨宮は何も答えられなかった。雨宮が言ったことは、心の底にたまっていた嘘偽りのない言葉であった。自分の本音に嘘をつけられるほど、器用な人間ではなかった。
「私がいけないの? 雨宮先生の言いつけを守らなかったから? だったら、今度から先生の言ったことは守るから。絶対に守るから! だから、そんなことを言わないで!」
未羽の頭が雨宮の胸を打つ。
そんな彼女の頭に手を伸ばそうとして、途中で止まる。
そして、ただ一言だけ答えた。
「すまない」
未羽の手に力がこもる。
そして、突き飛ばすように雨宮のことを振り払った。
「やめて! そんなことを言わないで!」
大粒の涙をぼろぼろ零しながら、未羽は叫ぶ。
「なんで! ねぇ、なんでよ!」
流れる涙をぬぐうこともせず、未羽は雨宮のことを睨みつける。
「なんで、雨宮先生がそんなことを言うの! 私は雨宮先生のおかげで、ここで暮してこれたのに!」
「……っ」
雨宮は何も言うことができず、ただその場に立ち尽くす。
その様子に、いよいよ未羽の表情は怒りに満ちていく。
「出てって! もう、ここに来ないで!」
未羽は手元にあった枕を掴むと、雨宮に向かって投げつけた。その次に、時計、スマートフォン、小さな文庫本。手当たりしだいに投げつける。
「雨宮先生なんて、大嫌いっ!」
泣き叫ぶような声だった。
未羽の声が反響するように、頭の中で鳴り響く。
気がつくと、雨宮は部屋の外で座っていた。
扉越しに聞こえてくる彼女の泣き声が、雨宮の心を締め付ける。
立ち上がろうにも、そんな気力もない。
帰ろうにも、帰る場所がない。
ただ真っ暗な思考だけが、頭の中を包んでいた。




