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~2014年 10月13日~ その②

 雨宮は目を覚ますと、手探りでいつも持ち歩いている薬袋を探した。

 鈍い頭痛と、こみ上げるような吐き気で気分は最悪だった。たしか吐き気止めが残っていたはずだ。あと、今日の薬も飲んでおいたほうがいいかもしれない。全身の軋むような痛みに、雨宮はぼんやりとした意識で考えていた。

 その時、視界の端で動く人影があった。雨宮はぼやけてしまっている焦点でその人物を見る。やがて視界は明瞭となり、不機嫌そうな顔をした白衣の男であることがわかった。榊であることは言うまでもない。

「いつからだ?」

 雨宮が口を開く前に、榊のほうから声をかけてきた。抑揚の効いた、それでいて有無を言わせないような口調だった。

 雨宮はゆっくりと体を起こそうとする。だが、頭痛が激しくなったので起き上がるのを諦めた。ごほ、ごほと軽く咳をしながら右手を額に乗せる。

「何がだ?」

 喉からひどく掠れた声が出る。質問の意味がわからないので訊き返しただけなのだが、榊は表情を険しくさせながらもう一度、同じ言葉を言った。

「いつからだ、と聞いている?」

「だから、何のことだ?」

 雨宮の問いに、榊は何も答えない。厳しい表情を浮かべたまま、黙って雨宮のことを見下ろしている。

 そんな榊を見て、雨宮は小さく笑った。

 自嘲めいた笑顔だった。

「喀血のことか。喉の腫瘍のことか。それとも全身に飛び散った癌細胞のことか。悪いが、俺には心当たりが多すぎるな」

 その言葉に、榊は静かに息をのんだ。

 眉間にしわを寄せて、悔しそうに唇を噛む。

「……いつ、わかったんだ?」

「去年の冬だ。定期健診で引っかかってな。専門病院で見てもらったときには、もう手遅れだった」

 雨宮は手の甲で目を覆いながら、蛍光灯の光を眩しそうに見る。口の中に血が残っていて気持ち悪かった。

「末期の膵臓癌だそうだ。今は肺と肝臓、あと咽頭に転移している。専門医じゃなくても、言っている意味はわかるだろう」

「……」

 榊は何も答えない。

 肺と肝臓は血液の出入りが多い臓器だ。そのため肺や肝臓にできた癌は、癌細胞となって血流に乗って全身に飛んでいってしまう。そうなってしまえば、もう手のつけようがない。

 榊は視線を外すと、白衣のポケットから1枚の紙を取り出した。細かい数値がびっしりと書かれている。

「お前の検査結果だ。勝手に採血をさせてもらったぞ」

「おいおい。医者がそんなことをしてもいいのか?」

「目の前で血を吹いて倒れたんだぞ。それくらいはするさ」

 榊は忌々しそうに目を細めて、検査データを読み上げていく。

「腫瘍マーカーの数値が基準値の20倍だと? よくこんなデータで普通に生活していられるな。生きている人間の数値じゃないぞ」

「そうだな。自分でもそう思っている」

 雨宮は腕に貼られた絆創膏を剥がしながら、他人事のように頷く。

 そんな姿に、榊の表情はどんどん苛立ったものに変わっていった。

「おい、雨宮。今の自分の状況がわかているのか?」

「わかっているさ。嫌というほどな」

「いいや、わかっていない。このままだとお前の体は一年ともたないぞ」

「一年ではない。数カ月と言われたよ」

 頭痛が治まるのを待って、ゆっくりと体を起こした。この時、初めて自分がいるのが医師当直室であることを知った。

 雨宮はポケットから薬の入ったポーチを取り出すと、榊に向けて放り投げる。薬剤が入っているとは思えないほど、ずっしりとした重さだった。

「すごい量だろう。それが全て抗癌剤なんだ。一回六錠を朝昼晩。合計十八錠を飲んでいる」

「専門の病院には受診しているのか?」

 榊が抗癌剤の名前を一つ一つ確認しながら訊いた。

「あぁ。県外の病院に通院している。ここだとすぐに騒ぎになってしまうからな」

「なんで入院しなかったんだ。癌だとわかったときに入院すれば、まだ手の打ちようがあったんじゃないか?」

 榊の問いに、雨宮は淡々と答える。

「言っただろう。手遅れだって。たしかに放射線治療と抗癌剤で薬漬けになれば可能性はあったのだろう。だが、自分の抱えている仕事を放棄してまで、その僅かな可能性にすがるのは無責任な気がしたんだ」

 雨宮の病気がわかったのは、去年の冬ごろだった。そのころは2人の新人医師もいなかったこともあり、循環器内科の医師に余裕などなかった。全員がオーバーワークで働いていて、風邪で高熱を出しても休めないような状況であった。そんな中、自分だけが癌になったので入院します、と言えなかった。

「北部長は知っているのか。今のお前の状態を」

「知っている。今年の春、ここの常勤医をやめるときに言った」

 榊は眉間に手を当てながら低い唸り声を上げた。

「……おかしいとは思っていたんだ。なんで、お前にはそんな自由が許されるのかって。北部長も新人の教育を依頼しても、お前に病院に戻って来いとは一言も口にしなかった」

 榊は項垂れるように下を見つめるが、思い直したかのように頭を振る。

「だったら、今からでも入院するべきだ。完治は無理でも、癌の痛みを和らげることはできるはずだ」

 そんな同僚の言葉に、雨宮は少しだけ黙る。全身に軋むように走る痛みに耐えながらも、若き循環器内科医は淡々と答えた。

「それは無理だ」

「無理だと? なぜだ?」

 榊の表情が再び険しくなる。

 だが、雨宮の目に揺らぎはない。

「彼女を、……未羽をおいて自分だけ入院しろと言うのか。冗談ではない」

「未羽ちゃんって。こんなときに何を言っているんだ?」

「こんなときだから言っている。俺には、医者としての責任がある」

「お前が死ぬようなことになってもか?」

「このまま責任すら果たせないなら、死んだほうがまだいい」

 そう言い切る雨宮の表情は、どこまでも無表情だった。冷静で冷淡で、どこか他人事のような言い方とさえ聞こえる。

「……狂っているぞ、お前」

 榊が呟く。

 まるで睨みつけるような目で雨宮を射抜く。

「そうかもな。だが、榊よ。お前は俺達が狂っていないとでも思っているのか?」

「は?」

 雨宮の質問に、榊は戸惑ったように目を丸くさせる。

「自分は正常だと言い切れるのか? 自分のアパートに戻ることなく、四六時中ずっと医師当直室に詰め寄って働いていることに疑問はないのか?」

「な、何を言っているんだ、雨宮」

「おかしいだろう。24時間、365日。患者のために家に帰ることもできない。俺達はなんでここまで自分を犠牲にしなくてはいけない。それが医者の仕事だと言うのなら、それは傲慢だ。医者は患者のために全てを捧げなくてはいけないと考える、この世界がすでにおかしいんだ」

 榊は黙ったまま、雨宮のことを見つめる。

「そのことを当然だと思っているこの病院のスタッフにしてもそうだ。新人の半分以上が、体調不良や精神を病んで辞めていくことが普通であってたまるか」

 医師だけでない。看護師や放射線技師などのスタッフも、休日など関係なく働き続けている。自分の人生を他人に捧げ続けている。それが異常でないと誰がいえるだろう。

「俺達はすでに狂っているんだ。だったら、救いたいと思った患者のために狂いたい。その患者の命と向き合って、狂いながら死にたい。癌を宣告されてからそんなことばかり考えていた」

「……それは、未羽ちゃんのことを言っているのか?」

 榊が重々しい口調で尋ねる。

 雨宮は答えなかった。答える必要がないと感じていた。

「俺は医者だ。患者のために全てを捧げろというなら、自分の命すら投げ出してやるさ。そうでもしなければ、俺はもう、……医者ですらなくなってしまうんだよ」

 苦々しく吐き捨てる。

 雨宮の苦痛が滲んだ様子を見て、榊はいよいよかけるべき言葉を失う。

「思ったより長居してしまったな。そろそろ帰るとしよう」

 雨宮は時計を確認しながら、ふらふらと立ち上がった。幸い、頭痛も吐き気も我慢できる程度だった。

「榊、お前も業務に戻ったほうがいい。まだ仕事があるんだろう?」

 榊は答えなかった。

 だが、代わりにこんなことを言い出した。

「同情するなら患者だけにしておけ。俺はそう言った。お前の事情を知ったところで、俺の考えが変わることはない。どんな過酷な職場であろうと、同僚や他のスタッフに同情なんてしない。それが俺たちの仕事だからだ」

「そうだろうな」

 雨宮は淡々と答える。

「だから、俺は俺の好きにさせてもらうさ」

 榊は手に持った雨宮の採血結果を見つめると、ぐしゃぐしゃに握りつぶしてしまった。

 そして、いつもの嫌味な笑みを浮かべる。

「なぁ、雨宮。今度は二人で飲みにいこうぜ。美味い日本酒がある店を見つけたんだ」

 榊の笑顔に、雨宮は目を見開く。

 だが、すぐに納得したような表情で肩の力を抜いた。

「日本酒の味もわからないくせに、よく言ったものだな」

「おいおい、何を言うんだ。日本酒に味の違いなんてあるわけないだろう?」

「胸を張っていうな」

 雨宮が呆れたように肩をすくめると、榊は声を出して笑った。

 そして、二人はしばらくの間、笑い合っていた。

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