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~2014年 10月13日~

~2014年 10月13日~


「雨宮。最近のお前は、なんか変だぞ」

「変だと。何のことだ?」

 榊の問いに、雨宮が答えた。

「何のことって。妙に焦っているというか、必死というか。ここのところ病院に入り浸りじゃないか。未羽ちゃんは大丈夫なのかよ」

「問題ない。屋敷にはお手伝いさんもいるし、昼過ぎには帰るさ」

 群馬県立循環器センターの医局の一室で、榊が雨宮のことを訝しむように見ていた。

「そうは言っても、未羽ちゃんが退院してからまだ日は浅いんだ。不安定な時期なんだから、今は一緒に居てやれよ」

「そんなことは言われなくともわかっている」

 榊の視線の先で、雨宮は電子カルテに向き合っていた。最近の血液の検査データを表示させながら、隣の画面では胸部のレントゲン画像を表示させている。

「だが、時間がないのだ。これ以上、状態が悪くなる前に何か手を打たないと」

 レントゲン画像を睨みつけながら雨宮は呟く。そんな雨宮のことを、榊は冷めた目で見ていた。

「何をそんなに焦っている。お前らしくもない」

「……焦ってなどいない」

 そう言う雨宮の顔はいつものように無表情で、感情らしいものは浮かんではいなかった。

「焦ったところで何一つとして良いことはない。焦りは冷静な判断を失い、思いがけないミスをしてしまう。俺はいかなるときも平常心を保つ努力をしている。そんな俺が焦ることなどあるわけがないだろう」

「はいはい。わかった」

 榊はおどけながら肩をすくめる。きっと、目の前のこの男は気づいていないのだ。雨宮がここまで自分の考えを口にするなんて、既にそれが自体が普通ではないのだ。榊は表面上ではにやにや笑いながら、雨宮のことを静かに観察する。

「だが、状況は厳しいな。二回目の発作は安静時だって言うじゃないか。そうなると、またいつ発作が起こるかわからないぞ」

「それもわかっている」

 雨宮はレントゲン画像から目を離さず答える。右手に持ったマウスを素早く操作する。すると、先ほどのレントゲン画像の隣に、また別の画像が映し出させた。その二つのレントゲン画像を食い入るように見つめる。過去に撮影した画像と見比べているのだろう、と榊は思った。

「今度、入院したら家には帰れないだろうな」

「あぁ、そうかもしれない」

「未羽ちゃんは何て言っているんだ?」

「何も言ってこない。自分の病状のことも。これからのことも。以前はあれだけ必死になって知りたがっていたのに」

「それだけお前が信頼されている証拠だろう」

「……どうだろうな」

 雨宮がレントゲン画像から目を離す。イスの背もたれに寄りかかりながら、疲れたように目を細める。

「ただ、諦めてしまっただけではないだろうか」

「諦める?」

「あぁ。もうなにをしても助からないという気持ちなのかもしれない。そうなってしまっては、俺はお手上げだ」

 雨宮が何に焦っているのか、榊にはわからなかった。ただ、この男が弱音を吐くとは珍しい。榊としてはからかわずにはいられない。

「そりゃ、お前が諦めたいだけだろう。未羽ちゃんと一緒に過ごして、とうとう情が移ったか」

 榊の言葉に雨宮は虚をつかれたような顔をする。だが、すぐにいつもの無表情に戻って、にやりと笑った。

 雨宮が笑ったのだ。

「同情なら患者だけにしておけ。そう言ったのは榊じゃないか」

 榊は雨宮の笑顔を見て、何か異質なものを感じた。

 いや、異質というよりも。もっと冷たい何かだ。

「おい、雨宮。お前、本当にどうしたんだ?」

「榊こそ、何を鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているんだ?」

「いや、だって。お前が笑うところなんて、俺は初めて見たぞ」

「俺だって笑うさ。生きている人間なのだからな」

 雨宮は喉の辺りを触りながら言う。 

 その仕草に、榊は何か違和感のようなものを感じた。何かを見落としているような気分になる。例えるなら、患者の隠れた病気を見つけられなかったときのように。

 榊は笑うことをやめて、真顔で口を開く。

「雨宮。お前、どこか悪いんじゃないのか?」

「突然、何を言い出すんだ?」

 雨宮もいつもの無表情に戻って、淡々と答える。

 そんな雨宮をしばらく観察していた榊だったが、気をとりなおして肩の力を抜く。きっと、何かの気のせいだろう。医者である雨宮が、自分の病気に気づけないわけがない。無理やりにでもそう思うことにした。

「まぁ、別にいいさ。それよりも、未羽ちゃんの心臓移植の話はどうなった?」

 会話の流れを変えるために、榊は自分でも気になっている話題を持ち出した。

「その話か。榊はどこまで知っているんだ?」

「移植名簿に登録した、というところまでだ」

「あぁ、そうだったな。実はあれから進展があってな。もしかしたら、未羽に心臓移植ができるかもしれない」

「本当か!」

 榊が喜びの声を上げる。

「まだ可能性の話だ。移植学会と交渉して、優先的にドナーを回してもらえるようになったんだ。そこで聞いた話なんだが、どうやら都内に脳死判定の患者がいるらしくてな」

「脳死判定、か」

 榊が顔を曇らせる。

 脳死とは、脳の機能が完全に止まってしまった状態である。いわゆる植物状態と違うのは、回復する見込みがないというところだ。欧米などでは、脳死は人の死とされ、残された臓器を別の患者へと移植することが常識となっている。日本も自分たちのルールがあるとはいえ、その流れは変わらない。

 だが、脳死の患者があらわれたところで、すぐさま移植に話に移るわけではない。その患者にも家族がいるのだ。人工呼吸器に繋がれていても、脳波計が微動だにしなくても。家族にとって患者は目の前で生きている。温かい体温を持って、脈々と血を通わせているのだ。

 ……人は機械ではない。

 脳が死んでしまったからといって、他の臓器を機械の部品のように取り出していいわけがない。少なくとも、家族が患者の死を受け入れられるまでは。

「それで。それからどうなんだ?」

 榊が身を乗り出して訊いてくる。その顔は、医者のものであった。

「まだ連絡はない。家族の了解という問題もあるが、どうも患者の容態が落ち着かないらしくてな」

「未羽ちゃんには話したのか?」

「いや、まだだ。正式に決まってから話そうと思っている。駄目だったときのことを考えると、変な期待をさせたくない」

「そうだな」

 榊は目を細めて呟く。

 あくまで淡々と答える雨宮。榊はそんな自分の友人を見て、なぜか去年ごろの雨宮の姿を思い出していた。黙々と目の前の仕事をこなしていく循環器内科の若き医師。患者との接触を避け、医者として責任だけをまっとうしていた頃に。

「あと打てる手があるとすれば、体外式の補助人工心臓だな」

 榊が思い出したように言う。

 体外式の補助人工心臓。動きが極度に悪くなった心臓を補助する機械で、2本の太い管を心臓に直接入れて、心臓の代わりに血液を全身に送り出す。体に取り付ける器具は小さいものだが、それを動かすための装置が巨大である。小型の冷蔵庫ほどあるのだ。

「なぁ、榊。心臓血管外科医として訊くが、未羽に補助人工心臓は可能だと思うか?」

「難しいな」

 榊は考えるそぶりも見せず、即答する。

「前にも言ったが、これまでに未羽ちゃんは心臓の手術を何度も行っている。いくら年齢が若いからといって、そんな簡単に補助人工心臓が定着するとも思えない」

「……そうか」

「だが、無理ではないだろう。この病院のICUで24時間体制で管理すれば、できないことはない。あとは本人の気持ち次第ってことだ」

「それはこの先、ずっと病院のICUで生活するということだろう」

「まぁ、そうだ」

「それでは意味がないんだ」

 雨宮は立ち上がって、窓の外を見つめる。視線の先には未羽と過ごしている別荘のある榛名山があった。

「未羽が今の生活を続けられることが一番大切なんだ。白い壁に囲まれたICUでは、あいつの人生に意味はない。生きていても、死んでいると同じになってしまう」

 榊は自分の友人の背中を見る。心なしか少し痩せたようにも見える背中を見ながら、感慨深く呟いた。

「変わったな、雨宮」

「なにがだ?」

 雨宮は榊に背を向けたまま答えた。

「今まで患者のために尽くしてきたお前だったが、一人の患者に深く関わることはなかっただろう。患者が何を望んでいるのか。お前は意識的にしろ、無意識的にしろ、そういったことには関わってこなかった」

「そうだな」

 雨宮の頭が頷くように左右に揺れる。

「それが今では、一人の患者の幸福にまで考えるようになった。それは誰にでもできることじゃない。もちろん、俺にはできない」

「……」

 雨宮の体は相変わらず、左右に揺れている。

「きっと、お前はいい医者になれる。俺なんかよりもずっといい医者に」

 榊は自分らしくないと思いながらも、素直に雨宮のことを賞賛する。

「やめろ、気持ち悪い」

 そんな賛美を受けて、雨宮は不機嫌そうな顔になる。

「お前からそんな事に言われると、明日の天気が心配になるだろうが。空から点滴台が降ってきたらどうするんだ?」

「降ってくるのは、槍にしとけよ」

 呆れ顔を浮かべる榊。

 次はどんな悪態をついてやろうか。榊がそんなことを考えていたときだ。

 循環器内科の医局、雨宮の机にある電話が鳴り出した。

「おい、雨宮。電話だぜ」

「わかってる」

 雨宮は榊のことを睨みながら受話器を取った。

 どうやら電話の主は、院外の人間だったらしい。雨宮は自分の名前を名乗りながら、何度も頷いている。その表情に微細な変化もない。

「……っ!」 

 だが、突然。その目が驚きに見開かれた。

「……はい。……それでは、失礼します」

 静かに受話器を戻す。

 雨宮は窓から見える風景に目を細める。

 そして、小さく呟いた。

「駄目だった」

「え? なにが?」

 まだ榊には、笑みを浮かべている。

 そんな彼に、雨宮は茫然と言う。

「……未羽の心臓移植。脳死判定のドナーが高熱を出して、……さっき亡くなった」

「はあ!?」

 榊の顔が驚愕に塗りつぶされていく。目を見開いたまま、何がおきているのか正しく把握しようとしていた。

 未羽の心臓は既にぼろぼろで、治すには心臓移植しか手がなくて。その移植のドナーが亡くなった。

 ……最後の希望が断たれた。

「なんで、だよ」

 雨宮が弱々しく呟く。

「なんで、……こんなことに」

 榊も何も答えなかった。

 それっきり雨宮は黙って、呆然と立ち尽くす。

 外を眺めながら、右へ左へゆらゆら揺れている。

 ……何かおかしい。

 榊がそう思ったときだ。

 雨宮の体がぐらりと傾いた。

「え?」

 榊は戸惑いの声を上げながら駆け出していた。雨宮は倒れながら書類をつかみ、紙束を散乱させながら床に倒れていった。

「お、おいっ!」

 榊は血相を変えて雨宮を抱き起こした。

「雨宮、どうしたんだ!」

 そこまで言って、榊が息をのむ。

 眉間にしわを寄せて、散乱した書類を見つめる。

 書類は雨宮の口から零れた血で、真っ赤に染まっていた。


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