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~2014年 10月8日~

~2014年 10月8日~


「……夏が、終わっちゃったね」

 車イスに乗った未羽が寂しそうに呟いた。

「そうだな」

 その未羽の隣で、雨宮が静かに答える。

 榛名湖を見つめている2人は、どこか元気がないように見えた。未羽は車いすに座り、その後ろで雨宮が支えている。

 夏が終わり、秋が来た。

 季節の移ろいとともに、変わってしまうことがある。

 冷たくなる空気。

 風に運ばれてくる金木犀の香り。

 紅く色づいていく木々も、どこか寂しそうだった。

「ごめんね、雨宮先生。また迷惑をかけて」

「気にするな。俺は医者で、お前は患者なんだ。医者が患者のために働くのは当たり前のことなんだ」

「うん」

 未羽がわずかに頷く。

 そして、風に消えそうなほど小さな声で呟いた。

「……ありがとう。雨宮先生」

「……いいよ」

 その小さな声は、たしかに雨宮まで届いていた。


 それは茹だるような夏の暑さが続いた、8月の上旬のことだった。

 ……未羽が、倒れたのだ。

 コジローの散歩からの帰り道だった。急に走り出したコジローに合わせるように、未羽も足を速めていると、急に胸を押さえて苦しみだしたのだ。心不全の悪化による発作だった。幸い症状は軽く、雨宮に抱えられダリオ宮に戻る頃には発作は治まっていた。念のため、数日だけ検査入院という形で群馬県立循環器センターに入院することになった。入院中も特に変わったことはなく、未羽の強い希望もあって、すぐに退院ということになった。だが、その日からコジローの散歩は、雨宮とお手伝いの小林有子が交代ですることになってしまった。未羽は玄関先まで見送りまでで、散歩から帰ってくるコジローを待つことが日課になっていた。

 それから、わずか1週間後のこと。

 未羽の体に、2回目の発作があった。何の前触れもなかった。ただ、床に落ちた本をとろうとしただけなのに、再び発作が起きてしまった。運動時の発作ならまだしも、安静時に起きてしまったことが、雨宮の平常心を揺さぶっていた。雨宮はある程度の長期の入院が必要だと言うと、未羽は渋々ながら同意した。未羽が病院に戻るときには、雨宮も病院の勤務に戻った。

 退院は9月が終わる頃だった。吹く風はすでに乾燥したものに変わり、木々はうっすらと赤く色づいている。ダリオ宮がある榛名湖の周辺も、落ち葉の敷き詰められた絨毯のようになっていた。

「風が気持ちいいね」

「あぁ」

「あーあ。夏なんて、あっという間だったよね。まだ、何にもしてなかったのに。海にも行かなかったし、花火大会だって行けなかったよ。お祭りにだって行きたかったのになぁ」

「……」

 未羽の大きすぎる独り言に、雨宮は何も答えなかった。

「せっかく浴衣だって揃えたのに。お祭りに着ていく機会がなくなっちゃった。屋台で金魚すくいをしたり、綿飴を買ったり、花火を見たり。いろいろ考えていたんだけどなぁ」

「……」

 やはり雨宮は何も答えない。

 来年もあるさ。

 ふと、そんな言葉が頭をよぎる。

 そんな自分に苛立ちながら、頭に浮かんだ言葉を無理やり追い払った。

 来年など、ないのだ。 

 恐らく、次の春を迎えることさえ難しい。

 夏ごろまでの安定していた病状を見ると、このまま安静にしていれば数年はなんとかなるかもしれない。そう考えていた雨宮だったが、自分の考えが甘かったと思い知らさせる。

 病状の悪化が思いのほか早い。

 常に最善を尽くしているはずなのに、何一つとして効果がないようだった。

 いや、そもそも。心不全とはそういう病気なのだ。薬でよくなることは決してなく、むしろ普段の体調管理のほうが大切だったりする。未羽のように重度の患者には、内服薬のコントロールや塩分などの食事制限に加え、心臓の負担にならないように運動制限もつけなくてはいけない。

 ……雨宮は、いいようのない不安を感じていた。


 2回目の退院のときに、未羽と1つの約束をした。退院したあと、どんな理由があっても移動には車イスを使うことだ。そのことに少し、むっとした未羽だったが、入院中も車イスで生活していたこともあり、意外にもすんなりと納得してもらえた。

「雨宮先生、そろそろ戻ろうか」

 未羽の声で、雨宮は我に返った。その目には、色づいた落ち葉と自分の足が映っている。いつのまにか下を向いていたらしい。

「あぁ、そうだな」

 雨宮は表情を変えることなく淡々と答える。そして車イスのハンドルを持つと、ダリオ宮に向けて歩を進めた。夏にはコジローの散歩コースだったこの道も、いまや2人だけの道になってしまった。歩くたびに車イスのタイヤが地面と擦れ、落ち葉がかさかさと音を立てた。

 雨宮は後頭部しか見えない未羽に向かって、口を開いた。

「涼しくないか?」

「大丈夫だよ。まだ、そんなに気温が下がる季節じゃないしね」

 未羽が雨宮のほうに振り向きながら答える。2つに結んだ黒髪が小さく揺れた。

「っていうか、雨宮先生がそんなことを気にするなんて珍しいね」

「そうか?」

「うん。だって、いつも私の着ている服にすら興味を持たないじゃない」

 そう言って、小さな笑顔を浮かべる。

 1度目の検査入院からだろうか。未羽の悲しそうな表情を見ることがなくなった。それまで以上に笑うようになり、些細な事でも笑顔を絶やすことはなかった。

 そのせいか、逆に未羽の笑顔を見るのが辛くなってきた。その笑顔の下にどんな感情を隠しているのか。そんなことを考えると、胸が苦しくなった。

「帰ったら、おやつにしよう。小林さんに何か作ってもらおうよ」

「そうだな。……ごほっ」

 雨宮は空咳を交えながら答える。

 続けて二度、三度と顔を逸らしながら咳をする。

「ごぼっ、ごほっ」

「ちょっと。雨宮先生、大丈夫?」

「…あぁ、問題ない。空気が乾燥してきたから、少し喉が乾いてしまったようだ」

「もう、しっかりしてよね。雨宮先生が倒れたら、誰が私を見てくれるの?」

「そうだな。まったくもって、そのとおりだ」

 雨宮は喉を辺りを触りながら深々と頷いた。

 そんな雨宮のことを、未羽が心配そうに見ていた。

 未羽を乗せた車イスを押して歩いていると、有子がダリオ宮の玄関で待っていた。手には子犬用のリードと首輪を持っている。

 ダリオ宮の玄関には、誰もいない犬小屋とケージが置かれている。二度目の入院が決まった日、柴犬のコジローは小林有子の元に引き取られていった。面倒を見きれないからと、未羽が言い出したことだった。それでも未羽が退院してからは、時々ではあるが有子がコジローの散歩にダリオ宮まで来てくれるのだ。退院してから三日目。一ヶ月ぶりに見たコジローは立派な成犬となっていた。未羽がコジローに向かって手を振ると、コジローも未羽のことを覚えていたらしく、未羽の顔を見たとたん尻尾を振って走ってきた。そのときの彼女の顔は、本当に幸せそうだった。


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