~2014年 7月25日~ その②
「まさか、本当に来るとは思わなかったぜ」
隣を歩く榊が、意外そうな声を上げた。
「お前が誘ったんだろうが」
雨宮は不機嫌そうに答えながら、夏の夜風を切って歩く。
時刻は午後8時。
夏といえど、辺りは真っ暗だ。
6時ごろに始まった画像カンファレンスも順調に進み、7時になることには解散となっていた。だからといって、帰宅するものは1人もいない。循環器内科の医者たちは医局から出て行くと、院内のあちこちに散らばっていった。病棟やICU。急患のためカテーテル室に駆け出す者もいた。そんな中、雨宮だけが医局に1人で残されていた。少し前までは、自分も彼らと同じように業務に忙殺されていたはずだが、今の自分には何もすることがない。それが焦燥感めいたものとなって、雨宮の胸をざわつかせる。
そんな中、声をかけてくる人間がいた。
それが榊だった。
彼に誘われるままに、前橋市の市街地に駆りだしたのだ。駅前は小さな居酒屋が軒を連ねている。榊に誘われたのは酒の席であった。
「誘っておいてなんだが、未羽ちゃんのことはいいのかよ」
「問題ない。お手伝いさんが一緒にいるはずだし、何かあったら電話がかかってくるはずだ」
雨宮はスマートフォンのマナーモードを解除しながら言った。
先ほど未羽に、今日は帰れないことを伝えておいた。電話越しの彼女はしばらく黙ったあと、不機嫌そうな返事があったと思うと、一方的に通話を切られてしまった。
「じゃあ、今日はこっちに泊まるんだな」
「そうだな。自分のアパートにも久しく戻ってないしな」
「そうか。なんだったら、病院の宿直室もあいているぜ」
「断る。何が悲しくて、お前と同じ部屋に泊まらなくてはいけないんだ」
相変わらず医師の宿直室を根城にしている榊は、今日とて自分のアパートに戻る気はないようだ。どれほど泥酔していようと、榊が戻る場所は常に患者のそばである。
榊が案内したのは、こじんまりとした居酒屋だった。『小魚』という看板が掲げられた店の外観は、古き日本の平屋を彷彿させるものがあった。中に入ってみると、思いのほか明るく綺麗だった。もう既にできあがっている者がいるのか、店の奥から若者の叫び声のようなものが聞こえてくる。雨宮と榊は店員に案内されるまま、奥の個室へと通された。
「あれっ、雨宮先生じゃないですか」
「本当だ。珍しい」
「榊先生が連れてきたんですか? 何か意外な組み合わせだなぁ」
個室の襖を開いたとたん、酔いが回った若者達の声が頭に響いた。私服でわかりづらいが、どれも雨宮の知っている人物だった。
どうやら、できあがっていたのは同じ病院の同僚だったらしい。看護師に放射線技士。薬剤師にソーシャルワーカーまでいた。
雨宮がわずかに呆然としていると、榊が雨宮を押しのけて個室に入っていく。
「よっ、お疲れ」
榊が手を上げると、彼らもまたビールのジョッキを片手に挨拶をする。
「お疲れさまです」
「お疲れっす」
榊は同僚たちの間に割り込むと、案内をしていた店員にビールを注文する。
「雨宮先生は何を飲みますか?」
入口近くにいた女性職員が雨宮を見る。肩出しのTシャツに白いチュニックを着ている。それが化粧も相成って、少し派手な印象を受けた。たしか、病棟で勤務している看護師だと思ったが、雨宮にはすぐに名前が思い出せなかった。
「あぁ。梅酒のソーダ割をひとつ」
日本酒の銘柄は何があるのか。そう言いそうになるのを雨宮はぐっと堪えて、さほど好きではない梅酒を注文する。
店員は注文を確認すると、個室の襖を閉めた。
「雨宮先生。そこに立っていないで、座ったらどうですか?」
先ほどの病棟看護師に促され、彼女の隣に座ることにする。まだ名前が出てきていなかった。
「4階病棟の看護師、下澤香織です」
雨宮の表情を読み取ったのか、下澤香織は自分から名乗った。そういえば、榊が彼女について何を言っていた気がする。雨宮は思い出そうとするが、榊の言うことは大抵どうでもいいことなので気にしないことにした。
「本当に珍しいですね。雨宮先生がこんな場所に来るなんて」
「……まぁ、榊に誘われてな」
雨宮は短く答えながら、何か手持ちぶささを感じてしまい、とりあえず目の前の枝豆に手を伸ばすことにした。
元々、雨宮はこういった場所が苦手である。病院の新年会や忘年会くらいは参加するが、プライベートで職場の同僚と飲みにいくことはない。そもそも頻回に飲みにいけるほどの時間がない。たまにある休日でも急患が来ることを考えると、自然と酒との距離ができてしまうのだ。群馬県立循環器センターで酒を嗜む医者のなど、榊のような少数派だ。
雨宮が黙々と枝豆を口に入れていると、香織が声をかけてくる。
「さっき梅酒のソーダ割りを注文していましたが、お酒は苦手なんですか?」
「いや、飲めなくはないんだ。少し酒を控えるようにしているだけだ」
「どうしてです?」
「まぁ、ちょっとな」
雨宮は曖昧に答える。
「ご注文の品をお持ちしました」
襖が開いて、割烹着を着た店員が個室に入ってくる。手の上の盆には、ビールと雨宮が注文した梅酒のソーダ割りが乗せられている
「それでは、ごゆっくり」
店員が退室した後、雨宮は自分の前に置かれたグラスを見た。褐色の液体に氷が浮いており、その周りを小さな気泡が水面へと立ち上っている。
「じゃあ、雨宮先生。かんぱーい」
「あぁ」
香織がビールのジョッキを掲げてくるので、雨宮は黙ってグラスをつき合せる。キンッ、と軽い音がした。そのままグラスを口につける。梅酒独特の風味と、ソーダの炭酸が口の中に広がった。
……甘い酒だ。
思わず顔をしかめそうになる。
「ねぇ、雨宮先生」
香織は雨宮に近寄りながら聞いてくる。
「雨宮先生は、休日は何をされているんですか?」
「これといって、何もしていない」
「えー、趣味とかないんですか」
「ない。あえて挙げるなら、寝ることだな」
「あはは。先生って、面白いことを言いますね」
真顔で答えた雨宮を見て、香織は大声で笑い出す。
すると、合い向かいに座っていた榊が、にやにや笑いながら雨宮のことを指差した。
「下澤ちゃん。雨宮の言っていることは本当なんだぜ。休みの日なんかは、自分の部屋でずっと寝ているんだ」
榊の嫌らしい笑みに、雨宮は何の反論もしなかった。黙ってグラスを傾ける。
「じゃあ、仕事が生きがいなんですね」
「いやいや。雨宮の場合、仕事以外に生きる方法を知らないんだよ」
榊はそう言って、ジョッキに入っていたビールを一気に飲み干す。そして、雨宮の前に置かれている枝豆に手を伸ばすと、無遠慮に口の中へと放りこんだ。
「職場にいても、家にいても、考えているのは仕事のことだけだ。こいつから仕事をとったら何も残らねぇよ」
榊は枝豆の鞘を雨宮に突きつける。早くも酒が回ったのか、目の周りが少しだけ赤い。
雨宮は不愉快そうな顔をしながらグラスをテーブルに置く。
「榊。いい加減、その減らず口を閉じたらどうだ。そろそろ聞くに耐えない」
「ははっ。何を言ってやがる。本当のことを言われて怒ったのかよ」
榊は薄ら笑いを浮かべながら、雨宮に向けて枝豆の鞘を投げつけた。
「っ」
雨宮は空中でそれを掴み取る。そして、そのまま榊に向けて投げ返した。枝豆の鞘は、真っ直ぐ榊に顔に飛んでいく。
「ぶわっ!」
枝豆の鞘を顔面で受け止めて、そのまま後ろに転げ落ちた。
普段からふざけているだけに、酒の回った榊は手に負えない。雨宮はグラスの酒を一気に飲み干すと、これ以上にないくらいの渋い顔をする。
「でも、雨宮先生が常勤医を辞められたのは、たった1人の患者さんのためだって聞いています。そういうところ、素敵だと思いますよ」
下澤香織は手に持ったジョッキの淵を触りながら言う。酒のせいだろうが、少しだけ顔を赤らめている。
「雨宮先生は、もう常勤医に戻らないのですか?」
「どうだろうな」
雨宮はぽつりと呟く。
「抱えている仕事が終わるまで、他のことは考えられない。とにかく今は、目の前の患者のためにやれることをやるだけだ」
氷だけ残されたグラスを見ながら、独り言のように呟く。
すると、香織は朗らかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、素敵ですね」
そう言って、香織はさらに体を寄せてくる。雨宮の肩とぶつかるくらいに近づいては、赤く染めた顔を向ける。
「ねぇ、雨宮先生?」
まるで耳元で囁かれているような気分だった。
「先生が担当している患者さんって、女の子なんですってね」
「あぁ。そうだな」
雨宮は視線をグラスに向けたまま、淡々と答える。
「ずいぶんと可愛い子だそうですね。彼女が入院していたときに、4階病棟まで噂が飛んできました」
香織が雨宮の横顔を見つめる。
「どうして、雨宮先生は常勤医まで辞めて、その人と一緒にいるんですか? 別に、先生がする必要はないんじゃないですか。どうして、彼女だけ特別なんですか?」
「…」
雨宮は何も答えない。
「彼女のことが、好きなんですか?」
その質問に、雨宮はわずかな動揺もしない。
「俺は医者だ。医者としても義務と責任を果たしているだけで、患者への特別な思いなどない」
そう答えて、下澤香織との距離をとる。体を横にずらして、テーブルに置かれているメニュー表を手に取る。
「君は柑橘系のジュースでも飲んだほうがいい。クエン酸のおかげで、酔いが早く覚めるらしいぞ」
雨宮は店員を呼ぶと、グレープフルーツジュースと梅酒のお替りを注文する。
そんな雨宮のことを香織は不思議そうに見ていた。だが、すぐに目を細めて微笑を浮かべる。
「やっぱり、雨宮先生は変わった人ですね」
香織も雨宮から離れて、元いた場所に戻っていく。
雨宮はため息まじりに、正面へと目を向ける。すると、榊がこちらを見て、にやにやと笑っていた。
「なんだ?」
「別になんでもねぇよ」
榊に笑みがあまりにも癪に障ったので、手元にある枝豆の鞘に手を伸ばす。もくもくと食べていたので、投げつけるには十分な量があった。




