~2014年 7月25日~
~2014年 7月25日~
週末の土曜日。雨宮は昼を過ぎた頃にダリオ宮を出た。本日も快晴で、これで4日続きの晴天となる。もうじき8月ということもあって、暑さもいよいよ深刻なものになってきた。親戚から中古で買った軽自動車のエアコンでは、いっこうに車内が涼しくなる様子はない。雨宮は額に汗を滲ませながらハンドルを握る。エアコンを稼働させつつ、窓を全開にする。病院に着くころには快適になっているはずだ。もちろん、そのときは車から降りないといけないのだが。
車を病院の駐車場に止めて、病院の職員用入口を目指す。春にこの道を通ったときは、まだ涼しさが残っていた。それが今では滲むような汗が額に浮き出ている。季節の変化を肌で感じながら、空調のきいた病院の中へと足を運んだ。
「あら、雨宮先生じゃないですか?」
外来の受付で声をかけられた。振り返ると、そこにいたのは3階病棟の看護師、相川京子だった。ネームプレートには名前の隣に、看護師長と書かれている。
「久しぶりですね。雨宮先生が常勤を辞めて以来ですか」
相川京子は両手一杯にカルテを抱えたまま、快活に笑う。とても50代の女性とは思えないバイタリティだ。
「お久しぶりです。相川さん」
雨宮が軽く頭を下げると、京子も満足そうに頷く。
「元気そうですね。向こうの生活には慣れましたか?」
「まぁ、それなりに」
「未羽さんの調子はどうですか? また、部屋に引きこもったり、自分の殻に閉じこもってないですか?」
「それは問題ありません」
雨宮はきっぱりと断言する。
「どちらかといえば、元気すぎて困っていくらいです。もう少し大人しくしてくれれば、こちらも楽なんですけど」
雨宮が大げさに肩をすくめる。その仕草を見て、京子は意外そうな顔をした。
だが、すぐに微笑むような表情を浮かべる。
「大丈夫そうですね」
「何がですか?」
「柊未羽さんとの生活ですよ。これでも心配していたんですよ。あれくらいの年頃って、いろんなことに敏感だから。無神経な雨宮先生には荷が重いんじゃないのか、って話題になっていたんだから」
「……無神経、ですか」
さすがの雨宮も面と向かって言われるとショックだった。なまじ自覚しているだけに、反論もできない。
「でも、要らない心配だったみたいですね。今の雨宮先生を見て、何となくわかりました。きっと未羽さんも安心して生活しているのだと」
相川京子は静かに微笑むと、抱えたカルテを持ち直す。
「私はこれから病棟会議があるので。雨宮先生は画像カンファレンスですか?」
「そうです」
「それではこれで。未羽さんに、よろしく伝えておいてください」
京子は軽く会釈をすると、病棟のほうに向かって歩きだした。エレベーター入口を通り過ぎて、職員用の階段を上りだした。
雨宮も、医局のある二階へと歩いていく。途中、エレベーターの入口で足が止まるも、雨宮は階段の方へと進んだ。今、エレベーターに乗ってしまったら、なんだか負けた気がしたのだった。
循環器内科の医局には誰もいなかった。時計を見てみると、午後2時を過ぎた頃であった。この時間では日常業務に忙殺されていて、手の空いている人間などいないだろう。雨宮は誰もいない医局を横切ると、綺麗に整頓された机の前に立つ。雨宮の机だった。常勤でなくなっても、こうして自分の机を置いてもらえるのはありがたかった。勤めているときと同じ場所の席に座り、机の上の電子カルテを起動させる。画像カンファレンスが始まるのは、だいたい4時から5時くらいだ。それまでに患者の情報を頭の中で整理しておく必要がある。診断病名から今日の体調まで。これまでの既往疾患や遺伝的な家族歴。それらを全て把握した上で、よりベストに近い治療を選択しなくてはいけない。
「……」
コーヒーを片手に電子カルテを見ていく。
時計を見て、そろそろ時間だと思った雨宮は、ポケットから薬の入ったポーチを取り出す。その中から錠剤の薬を出すと、次々に口に放り込んではコーヒーで流し込む。
そして最後に、苦々しい表情を浮かべたのだった。
雨宮が電子カルテから離れたのは、午後5時を過ぎた頃。画像カンファレンスが始まる瞬間まで、ずっと電子カルテと向かい合っていたのだ。
「雨宮君、始めるよ」
北内科部長に声をかけられて、医局の奥にある部屋へと向かう。
その部屋は電気が消されていて、天井から吊るされたプロジェクターがスクリーンに画像を映し出している。その画像を、この病院に勤めている循環器内科の医者全員が真剣な目を見ていた。
「それでは、始めます」
司会を務める医師の声で、画像カンファレンスは始まった。主に今日撮影された画像である。精密検査目的で来た患者もいれば、実際に胸痛などの症状が出ている患者もいる。それらの情報を合わせつつ、1つ1つの症例を見ては、医者達が意見を出していく。
雨宮が頼まれた新人2人の症例は、一番最後であった。85歳の男性で、体を動かした後に胸が苦しくなるということだった。心臓の周り血管を見てみると、左右に2本ある血管の内、左の血管が細くなっていた。新人医師二人は労作性狭心症を診断して、この狭くなっている場所を全て治療していくと語った。
しかし、他の医者たちは納得していない様子だった。ひそひそと小声で話し出す先輩医師たち。雨宮も他の医師と同様に、彼らの治療方針に疑問を抱いていた。
「……ふむ」
雨宮は顎に手を当てて、観察するように新人の2人を見る。1人は背の高い男で、見るからに自信がありそうな態度をしていた。もう1人は小太りの男性で、こちらは少しオドオドしたような様子だった。
「……」
今後は北内科部長を見る。だが、北部長は黙って頷くだけで何も言おうとしない。その様子を見て、雨宮は諦めたようにため息をはく。そして、黙って手を上げた。
「すまないが、少しいいか?」
「なんですか、雨宮先生」
意見があることに気分を悪くしたのか、背の高いほうの新人が雨宮に冷たい視線を送る。
そんなことを気にも留めず、雨宮は淡々と口を開いた。
「方向性は問題ないと思う。だが、もう少し患者の全身状態を見たほうがいい」
雨宮は司会の医者に指示をして、画像を最初まで戻してもらう。
「確かに、左冠動脈は狭くなっている。5番と7番が75%くらいか。だが、先端の7番には治療は必要ないと思われる」
「どうしてですか?」
背の高い新人が不機嫌そうに言う。
「左冠動脈の造影像だ。7番で細くなっているのに、その後の8番が細くなっていない。患者の年齢やこれまでの既往を考えると、右冠動脈から側副血行路があると思われる」
「でも、それなら右冠動脈を造影した時に映し出されるはずです」
「今回の検査では、造影剤の使用量が極端に少ない。だから、血管の先端が上手く描写されていないんだ」
雨宮が言うと、背の高い新人医師はピクリと肩を揺らした。
「……僕の手技が未熟だとでも?」
「そうは言っていない」
「でも、今―」
「俺が担当していたとしても、これ以上の造影剤は使わなかった」
「えっ?」
雨宮の言葉に、新人医師は黙り込む。
「この患者の腎臓は決して良いとはいえない。むやみに造影剤を使って、腎機能の低下を招きたくない」
血管を映し出す造影剤は、時として腎臓の機能を悪化させてしまうことがある。腎臓が悪くなってしまったら、余分な水分を体から出すことが難しくなって、最後には透析治療を行わなければならない。
ベストの選択とは、患者に負担を与えずに最高の結果を出すことだ。
だが、そんな選択肢はこの世のどこにも存在しない。造影剤を使えば使うほど腎不全のリスクが高くなるが、血管を描写させるためには造影剤が必要不可欠だ。
医療とは、そういうものだ。
ベストの選択を突き詰めれば、必ずどこかで破綻する。だから医者たちは、ぎりぎりの選択肢を常に選び続けるしかない。確固たる正解があるわけもなく、真っ暗な道を手探りで進むように慎重になって。
しかし、幸運ではある。
偉大なる先人たちのおかげで、足元だけはしっかりと見えているのだから。雨宮にとっての先人は北部長であり、新人二人にとっては、この病院に勤めている循環器内科の医者たちだ。
「もう一度、患者の全体像を見直してみるといい。これまでの既往歴、今出ている症状、そしてこれから起こりうる病態。もう一度見直して、その上でここにいるベテランの循内医たちに相談することだ」
雨宮の言葉に、新人の2人は力なく頷いた。
その目に失意の色は浮かんでいても、絶望はしていなかった。
2人はひそひそと話し合うと、静かに頭を下げた。雨宮は、自分に向けられているはずもないと思い、黙って2人の挙動を見ていた。




