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~2014年 7月23日~

~2014年 7月23日~


「さぁ、雨宮先生。行くよ」

 ダリオ宮の玄関で未羽が手を振っている。長い黒髪をひとつに束ねて、その上から大きな麦わら帽子をかぶっている。歩くたびに帽子からはみ出たポニーテールが左右に揺れた。手には黒のリードと、園芸用のスコップが入ったビニール袋を持っている。

「なんで俺も行かなくちゃいけないんだよ」

「だって、いつも家の中に篭っているじゃない。雨宮先生もたまには体を動かしなよ」

「だからって、犬の散歩についていく必要はないだろう」

 雨宮は不機嫌そうに顔をしかめる。そんな雨宮の表情を見て、未羽は楽しそうに笑った。

「ほら、ブツブツ言わない。コジローだって待っているよ」

 コジローとは、あの夜に見つけた子犬の名前だった。

 引き取った時に未羽が名付けたもので、武将然とした名前には似合わないほど無邪気な性格である。今も犬用ケージの中から、散歩を催促するように吠えていた。

 雨宮は未羽に促され、渋々外に出ることにする。目がくらむような快晴に思わず目を細めた。

「はい、コジロー。散歩に行こうね」

 未羽は慣れていない手つきでリードを首輪に取り付けると、ケージの扉を開ける。

 すると、待ちきれないと言わんばかりに、コジローは駆け出した。尻尾を振りながら何度も未羽のことを見上げては、急かすように鼻を鳴らす。

「ちょ、ちょっと待ってよ、コジロー」

 未羽はリードを両手で持ちながら、困ったように笑う。そんな彼女を見て、コジローが一度だけ、わんっと吠えた。

 雨宮は子犬と戯れる未羽のことを、少し離れた場所から見つめている。コジローがこの家に来てから、彼女が笑っている時間は確実に増えていた。子犬の世話をすることに、自分の生きがいを見出しているようだった。

「ほらっ、雨宮先生。置いて行っちゃうよ」

 ダリオ宮の敷地から出ようとしたところで未羽が振り返った。小さな体を命一杯伸ばして、大きく手を振る。

「あぁ、行くよ」

 雨宮は軽く返事をしながら、未羽のところへ歩き始めた。


 榛名湖の周りは舗装された道路でぐるりと囲ってある。その外周は、およそ2キロ。車なら5分、歩きなら30分もあれば一回りすることができる。だが、それは普通の人が歩いたときのことだ。心臓に重い病を持った彼女が、それも子犬の散歩をしているのでは、どれくらいの時間がかかるかわかったものではない。

 今日の散歩コースはいつもと同じ。ダリオ宮を出て左に曲がり、榛名湖に沿ってゆっくりと歩いていく。このまま少し歩くと榛名湖に1件しかない喫茶店が見えてくるのだ。店の敷地の半分が湖の上にある造りで、店内からは榛名湖を一望できる。コジローの散歩の途中に、この喫茶店で休憩していくのが日課になっていた。

「ねぇ、雨宮先生」

「なんだ?」

 雨宮の隣を歩く未羽が、コジローの手綱を握りながら聞いてくる。

「先生は、この夏に何かしたいことってあるの?」

「突然なんだ?」

「だから、この夏にしたいことがあるのかを聞いているの」

 未羽は両手を広げながら、青い空を見上げる。

「だって、夏なんだよ。イベントがいっぱいあるじゃない。海に行ったり、花火したり、お祭りに行ったり」

 未羽が1つ1つ指で数えながら楽しそうに笑う。

 そんな彼女を見て、雨宮は無表情で答えた。

「別にない」

「えー。雨宮先生にだって、夏休みはあるんでしょう。何かしないともったいないよ?」

「夏休みなんてものはない」

「えっ! ないの!」

 大げさに驚く未羽を見て、雨宮は呆れたように肩を落とす。

「あるわけないだろう。夏休みどころか、正月やクリスマスだってないんだ。俺達にとっては、どれもただの平日でしかない」

 未羽に医者の狂気じみた勤務体制を説明するかたわら、去年の年末のことを思い出していた。クリスマスから正月明けは急患が増える時期であり、立て続けに送られてくる患者の対応をしているうちに、気がついたら年が明けていたのだ。年越しの感慨などあったものではない。

「それじゃあ、クリスマスにデートもできないじゃない!」

 未羽は何かに腹を立てるように頬を膨らませる。

 そんな未羽を見て、雨宮は改めてため息をはく。

「クリスマスにデートをする必要がどこにあるんだよ。時間と労力の無駄にしか思えないぞ」

「むぅ。雨宮先生って、空気を読めないよね」

「は?」

 意味がわからないというように、雨宮は首を傾げる。そんな様子を見た未羽は、諦めたようにため息をついた。

 だが、すぐににっこり笑って、雨宮に言った。

「ねぇ、雨宮先生。今年のクリスマスは、私とデートをしようよ」

「はい?」

「どこかで待ち合わせてさ。街中のイルミネーションを見た後に、夜景が綺麗なレストランでディナーをするの。いい考えでしょう?」

 満面の笑みを浮かべる未羽。

 それに対して雨宮は、ただ黙っていることしかできなかった。

「もしくは、スカイツリーの展望台から雪で街が白く染まっていくのを眺めるのもいいよね」

「雪が降るとは限らないだろう」

「降るよ。だって、クリスマスだもん」

 未羽は断言するように言った。

 そして、道端を右と左と走るコジローを見ながら静かに微笑む。

「雨宮先生、約束だよ。今年のクリスマスは私とデートしてね」

「……」

 雨宮は返答できずに黙り込む。断ることは簡単だったが、だからといって安易に拒否することが、なぜかできなかった。

 しばらく考えて、ゆっくりと口を開いた。

「……今からクリスマスのことを考えていると、鬼に笑われるぞ。せめて夏が終わってからにしてくれ」

「そっか。それもそうだね。クリスマスよりも先に、この夏に何をするか考えないとね」

 未羽は笑顔で答えた。

 そんな彼女のことを、雨宮はじっと見ていた。

 澄み切った青空に映える太陽が、湖の水面に反射する。夏の風は心地よく、木漏れ日の下をそっと吹き抜ける。

 穏やかな時間が、2人を包んでいた。

「やっぱり、浴衣は買わないとね。あと、草履や髪留めも揃えたいな」

「好きにしろ。だが、買い物には付き合ってやらんぞ」

「ふん、いいもん。スマホでネット通販するから」

「なるほど。それは賢いな」

 雨宮は携帯端末の進歩に感謝しつつ、未羽と同じ歩幅で肩を並べる。


 木漏れ日の下を歩きはじめて、30分くらい過ぎただろうか。

 突然、雨宮のスマートフォンから電子音が鳴り出した。メールの着信音ではない。電話だった。雨宮が画面を確認すると、そこには群馬県立循環器センターの文字が表示されていた。

 何事だろうか、と雨宮は思考を巡らせる。群馬県立循環器センターの常勤医を辞めてから、病院から電話は一度もなかった。それまでは急患など事あるごとに鳴りつづけていたので、鳴らなすぎて壊れているのではないかと思ったほどだ。だが、夏が来る頃には、そんな状況にも慣れてきていた。それだけに、病院からの電話が異質に思えた。

「もしもし、雨宮ですが」

 電話を耳に当てる雨宮。そこから聞こえてのは、聞き覚えのある声だった。

「やぁ、雨宮君。北だ」

「北部長ですか。ご無沙汰しています」

 電話の主は、循環器内科部長をしている北先生だった。

「今、電話は大丈夫かい? 少し相談したいことがあるのだが」

「はい、大丈夫です」

「今週の土曜日に画像カンファレンスがあるんだが、雨宮君にも出席をしてもらいたいんだよ」

「画像カンファレンスですか?」

 雨宮は幾分、首を傾げながら答える。

 画像カンファレンスとは、心臓の血管を造影剤で撮影して、今後どういった治療を進めていくかを話し合う会議だ。群馬県立循環器センターでは毎日のように行われていて、これといって特別な会議ではない。それなのに今度の土曜日は出席するようにとは、どういったことなのか。

 雨宮はそのことに疑問を感じながら、黙って北部長の言葉を待つ。

「循環器内科に新人が2人いただろう。あの緊急カテーテルで、私の補助をやらせた2人だ」

「あぁ、いましたね」

 雨宮は、まだ自分が常勤医であったころを思い返す。

「その2人なのだがね、どうも成長が遅いんだよ。そろそろ冠動脈の造影くらい1人でやらせたいんだが、なかなか技術と知識が追いついてこない」

「はあ」

「そこで、雨宮君に2人の指導をお願いしたいんだ。指導といっても、土曜日の画像カンファで2人に意見してあげるだけでいいからさ」

 雨宮は曖昧に返答しながら、榊が言っていたことを思い出していた。北部長は自分に後輩指導をさせたいという内容だ。

「どうだい? やってくれるかい?」

「わかりました。土曜日ですね」

 北部長の問いに、雨宮は即答する。

 群馬県立循環器センターの常勤医でなくなっても、雨宮の所属する病院には変わりないのだ。ならば、上司の指示には答えなくてはいけない。

「助かるよ。それじゃ」

 北部長はそう言うと、電話を切った。雨宮はスマートフォンをポケットに戻しながら、隣に立つ未羽のことを見る。

「お仕事?」

 未羽の質問に、雨宮は小さく頷く。

「あぁ。土曜日に病院に行くことになった」

「ふーん。そうなんだ」

「もしかしたら、帰りが遅くなかもしれないから、小林さんにいてもらうように言っておこう」

 お手伝いの小林有子の名前を言うと、未羽はあからさまに不機嫌そうとなる。

「むぅ。私、あの人のこと嫌いなんだけど」

「そう言うな。何かあったらどうする気だ?」

「……それは、そうかもだけど」

 未羽は唇を尖らせて黙り込む。

「お前一人じゃあ、料理もできないだろう。俺が帰ってくるまでに餓死されても笑えない」

「はいはい、わかったわよ。小林さんといればいいんでしょう」

「わかればいい」

 雨宮は無表情のまま頷くと、未羽の頭に手を乗せる。

 そして、優しく撫でた。

「疲れただろう。コジローをケージに戻したら、俺達もお茶にしよう」

「うん、そうだね」

 そんな雨宮に、未羽は笑顔で答えた。


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