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~2014年 7月21日~

~2014年 7月21日~


「なぁ、榊。犬を飼う気はないか?」

「突然なんだ?」

 群馬県立循環器センターの医局で、榊が意外そうな声を上げた。榊の机は相変わらず汚く、雨宮が最後に見たときから何も変わってないように見える。積み上げられた専門書に、カップめんの包装。表紙にグラビアアイドルが載った週刊誌など。とても腕利きの心臓外科医の机には見えない。

「すまん。もう一度言ってくれ。犬がなんだって?」

「子犬の引き取り手を捜しているんだ。お前でなくてもいいから、誰か心当たりはないか?」

「おいおい、雨宮。いつから子犬のブリーダーになったんだ? それとも医者を辞めて、ペットショップにでも就職したか?」

 榊の嘲笑を、雨宮は無表情で返す。

「まさか。だが、子犬の引き取り手を探しているのは本当だ」

 雨宮は未羽が子犬を飼い始めたことを説明する。先日、雨に震えていた子犬は、未羽の手ですくすくと育てられていた。食事の世話から毛づくろいまで。雨宮の許す範囲で散歩も行っている。あの子犬との時間が、未羽の生活で一番の楽しみになっているようだった。

「だったら、別に引き取り手を捜す必要はないじゃないか? 未羽ちゃんも楽しんでいるんだろう。無理やり引き離すようなことをしなくても」

 散らかった机に頬杖しながら、榊が雨宮を見上げる。

「そんなつもりはない。ただ―」

「なんだよ?」

 その問いに雨宮は無言だった。

 ここまで歯切れの悪い雨宮を、榊は見たことがなかった。何がこの男を迷わせているのか。榊は頬杖をやめて雨宮のほうを向く。

 そのときに気がついた。

 雨宮が何を懸念しているのかを。

「……そうか。そうだったな」

 榊が納得したように頷く。それを見て、雨宮は重々しく口を開いた。

「あぁ。未羽に残された時間は、子犬の寿命より短い」

 子犬が成犬になり老いて死ぬまで、およそ10年。それに対して未羽に残された時間は1年足らず。いや、実際はもっと短いかもしれない。

 あの夜に子犬を引き取ろうと取るまいと、彼女が最後まで面倒を見ることなどできなかったのだ。

「それで? 未羽ちゃんがいなくなった後、その子犬を貰ってくれる人間を探しているってか」

「まぁ、そうだな」

 雨宮はしっかりと頷く。

 そんな同僚を見て、榊は不思議な気分になった。少し前まで患者の治療経過と専門知識にしか興味を持たなかった男が、今はこうやって子犬の心配をしているのだ。たった1人の患者のために。

 榊は思った。やはり、雨宮は病院を出て正解だったのだと。目の前の同僚は、確実に良い方向に進んでいる。榊には、その確信があった。

「榊、どうした?」

 雨宮が無表情で訊いてくる。慣れている人であっても、何か威圧感のようなものを感じずにはいられない。

 ……これだからこの男は患者に人気がないのだ。彼女もよくこんな男と一緒にいられるものだ。

 そんなことを思いつつも、榊はなんでもないと言うように手を振った。

「子犬の引き取り手なんて、この病院にいるとは思えないぞ。医者から看護師まで、一日中仕事に追われているんだ。とても犬を飼うような余裕があるとは思えん」

「そうだな。俺も期待していたわけではない」

 別段、落胆したような感じもなかった。本当に期待していなかったのだろう、と榊は思った。

「まぁ、その問題は何とかなるだろう」

「おいおい。雨宮にしては投げやりだな。誰か目星でもつけているのか?」

「飼い主になってくれるかはわからない。だが、責任はとってくれると踏んでいる人はいる」

「なんだそりゃ?」

 その奇妙な言い方に榊は首を傾げる。

 だが、雨宮はそれ以上は何も言わなかった。白衣ポケットから錠剤の薬を取り出すと、次々と口に入れていく。

「ん? 何の薬だ?」

 榊が目ざとく問いかける。

「頭痛薬だ。いろいろと悩み事が尽きないんだよ」

 雨宮は薬をコーヒーで飲み干すと、苦々しく顔をしかめる。

 その時、雨宮の白衣のポケットにあるPHSが鳴り出した。自分の同僚がPHS操作しているのを見て、榊が茶化すように言う。

「急患か?」

「そんなわけがないだろう。もう俺は、この病院の常勤医じゃないんだ」

 雨宮が病院内用のPHSを耳に当てる。何度が返事をすると、再びポケットにしまった。

「未羽の血液検査の結果が出たらしい。ちょっと検査課に行ってくる」

 白衣を翻して雨宮は医局から出て行こうとする。

 そんな雨宮を、榊が呼び止めた。

「おい、雨宮」

「なんだ?」

「未羽ちゃんの治療方針だけどな。これからどうするんだ」

 雨宮は少しだけ考えて答えた。

「内服薬のコントロールを続けていくつもりだ。降圧剤と利尿剤で心臓の負担を減らしていくしかない」

「まるで、他の方法がないような言い方だな」

「実際、それしか手の打ちようがない」

 あくまで淡々と答える。

 そんな雨宮を見て、榊がにやりと笑う。

「あるだろう。最後の一発逆転できる方法が」

 雨宮は沈黙する。

 榊もそれ以上を言おうとしないので、仕方なく雨宮のほうから口を開く。

「心臓移植か?」

「あぁ。心臓が悪いなら取り替えてしまえばいい。簡単な話だろう」

 榊は自分の指をメスに見立てて、開胸するような仕草をする。

「手術ができないとはいっても、心臓移植となれば話は別だ。悪い心臓を、そっくり交換するわけだからな。まぁ、そうなったら心臓血管外科である俺の出番だ。つまり、未羽ちゃんを助けるのは、俺になるのさ」

 榊の挑発めいた言い草に対して、雨宮はいつものように整然と答える。

「移植の登録は済ませてある。だが、この国の心臓移植の年間件数を知っているだろう。日本全国でも年間30件程度だ。そこに期待するほど悠長な状況ではない。まぁ、移植が可能だとしても、お前には頼まないが」

「なんでだよ」

 榊が真剣な口調だったので、雨宮は思わずため息をはく。

「お前は心臓移植の経験がないだろう。そんなにやりたければ、都内の大学病院で修行を積んで来い」

 それだけ言って、雨宮は医局を出て行った。恐らく検査課に検査結果を取りにいったのだろう。電子カルテの端末からでも印刷できるというのに。まめな男だ。

 榊は雨宮を見送った後、だろんとイスの背もたれに寄りかかる。確かに、心臓の移植を待つのは希望的観測なのかもしれない。例え、移植できる心臓があったとしても、患者の体と適合するのかは別の問題なのだ。

「……仕事するか」

 榊はぼりぼりと頭をかきながら、机の上に積み重なった書類に手を伸ばした。


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