~2014年 7月14日~ その②
「あれ? ねぇ、雨宮先生。何か聞こえなかった?」
「なんだ? また、小林さんに怒られたいのか?」
雨宮はキーボードを打つ手を止めずに、視線だけを未羽に向ける。その表情は呆れているようにも見えた。
「違うってば。…なんか鳴き声みたいなものが聞こえたような」
「鳴き声?」
雨宮が手を止めた。
そして、黙って耳をすませる。
「別に何も聞こえないが」
「そうかな?」
未羽はイスから立ち上がって、窓を大きく開けた。まだ大粒の雨が降っていて、風とともに雨粒が吹き込んでくる。
「おい、濡れるぞ」
雨宮はノートパソコンを閉じると、未羽のそばにやってくる。
未羽は激しく揺れるカーテンを押さえつけながら、窓の外をじっと見つめていた。まるで暗闇から何かを探すように。
「……聞こえない?」
「だから、いったい何が」
雨宮は未羽の隣に立つと、そっと耳をすませた。
すると、雨の音に混じって何かが聞こえた。人のものではない、動物の鳴き声のようだった。
「犬か?」
雨宮も窓から身を乗り出して外を見る。大粒の雨が額に当たって、頬に流れていった。
「先生っ!」
突然、未羽が暗闇を指差しながら叫んだ。
「あそこ! 木のところに子犬がいる!」
「は?」
未羽が指差したほうを雨宮も見つめる。だが、何も見えなかった。
「私、行ってくるよ!」
それだけ言うと、パジャマ姿のまま部屋を飛び出していった。雨宮は頭をかきながら、黙って彼女の後を追いかける。
雨宮が傘を持って玄関を出ると、未羽は庭の一角にいた。傘も差さずに、茂みのそばで膝をついている。
「おい、未羽」
声をかけても、返事もしない。雨宮が濡れないように傘をかざすと、未羽はゆっくりと振り返った。
「雨宮先生、どうしよう」
彼女は焦ったような表情を浮かべていた。若草色だった未羽のパジャマは、すでに泥と雨で汚れてしまっている。そんな彼女の腕の中には、小さな黒い塊があった。
それはわずかに身じろぎしながら、弱々しく鳴き声を発している。
……子犬だった。
「ねぇ、雨宮先生。どうしよう? どうしたらいい?」
すがるような目で雨宮のことを見る。
腕の中の子犬は見るからに弱っていた。何らかの処置が必要だと雨宮は考える。
だが、それ以上の思考は進まなかった。雨宮は人間の医者であって獣医ではない。こんなときにどんな処置が必要なのか、まるで検討がつかなかった。
雨宮は悔しそうに吐息を漏らす。
「近くの獣医師に見てもらおう。俺の車に乗れ」
すぐに近くの動物病院にまで車を走らせた。スマートフォンで検索すると、夏川動物病院という名前が、榛名山を降りたところであった。
助手席には子犬を抱いた未羽が座っている。
まるで、神様に祈るように両手を強く握っていた。
目的の動物病院までに、車で40分もかかってしまった。だが、先に連絡していたこともあり、すぐに診てもらえることになった。未羽は子犬を獣医に手渡すと、そのまま床に座り込んでしまう。
「ねぇ、雨宮先生。あの子、大丈夫かな?」
ロビーのイスに座った未羽が心配そうにきいてくる。
雨宮は返事をしようと口を開いた。
だが、何も言えなかった。医者として生きてきた雨宮は、慰めにしかならない言葉を持ち合わせていない。それでも励ますように頷くことはできた。
5分が経った。
10分が経った。
そして、15分が経った。
処置室の前のイスに座った未羽と雨宮に、悲痛なほどゆっくりな時間が流れていく。時計の針と雨の音だけが、2人を包んでいた。
処置室の扉が開いたのは、更にそれから20分ほど経過したあとだった。獣医を思われる白衣の男性が、未羽と雨宮の前に立つ。夏川と名乗ったその獣医は、現役であることが信じられないほどの高齢だった。だが、足取りはしっかりしていて、堂々たる姿勢がかえって熟練の風格を放っていた。
「少し衰弱していましたが、何の問題もありません。2、3日したら元気になるでしょう」
刻まれた皺が波のようにうねる。実に愛嬌のある笑顔だった。
「念のため、今日はこちらで預かりましょう。明日にでも退院できますよ」
固まっていた未羽の表情が、夏川獣医の言葉で和らいでいく。ほっとしたように、手を胸の辺りに置いた。
「ありがとうございました。本当に、ありがとうごさいました」
深々と頭を下げる未羽を見て、雨宮も軽く頭を下げる。
そんな2人を見て、夏川獣医は少し難しそうな顔をする。そして、言いにくそうに顔をしかめた。
「あの失礼ですが、あの子犬は、飼っている犬ではないですよね」
「はい、そうです。庭で弱っているのを見つけました」
笑顔で答える未羽に、夏川は申し訳なさそうに頭をかく。雨宮には、彼が何を言おうとしているのか理解できた。そして、夏川獣医の気苦労を思いはばかって、先に雨宮のほうから口を開いた。
「飼い主の問題ですか」
雨宮の言葉に、未羽が不思議そうに首を傾げる。
「え? どういうこと?」
「あの子犬には首輪がなかっただろう? 飼い主がいない犬は、このままだと保健所に送られる」
「保健所に送られると、その先はどうなるの?」
雨宮はいつものように表情を変えることはなかった。
「数日後に殺処分だ。これ以上の治療を続けようとも、それは変わらない」
「え?」
未羽は驚いて目を見開いた。
慌てて夏川獣医のほうを見るが、彼も黙って首を振るだけだった。
「そんなの、おかしくない? だって、あの子は生きているんだよ。生きたいと思って頑張っているんだよ。雨に濡れないように木の陰に隠れて。小さくなって震えて。それでも生きようとしていたんだよ」
未羽は目を見開いたまま呟く。
「……飼い主が見つかれば問題はないのです」
夏川獣医は額に刻まれた皺に手を当てる。
「ですが、動物を飼うというものは簡単なものではありません。エサ代やワクチン接種。保険が効きませんので、治療費も大きな負担になります」
夏川はちらりと処置室のほうを見る。きっと、扉の奥の子犬を見たのだろう。
「それに命を扱うわけですから、途中でやめることもできない。家族として迎い入れる人でないと、動物を飼う資格はないのです」
その言葉に、未羽は黙って耳を傾けていた。
ふいに、彼女が雨宮のほうを向く。その目は何か決意めいたものがあった。
「……雨宮先生」
「なんだ?」
「あの子、うちで引き取ってもいいかな?」
雨宮は黙って未羽のことを見る。
彼女も目を逸らさずに、静かに見つめ返す。
「……お前が決めろ」
ぽつり、と雨宮が言う。
「命の重さは、他の誰よりもお前が一番よく知っている。だから、お前が決めろ」
雨宮の言葉に、未羽ははにかんだ笑顔を見せる。
「うん、ありがとう」
そういって、雨宮のほうへ身を寄せた。
そして、彼の胸に顔を埋めては、小さな声で感謝を告げるのだった。




