~2014年 7月14日~
~2014年 7月14日~
ぱちん、ぱちん。
雨の粒が窓に当たって、小さな音を立てている。
大粒の雨だった。
梅雨のぱらぱらとした小雨と違って、このあたりの夕立は大粒の雨が降る。
朝日が上れば蝉が鳴き。
青空には白い入道雲が描かれる。
額の汗をぬぐいながら、高く上った太陽に目を細めては。
激しい夕立に寂寥の想いを寄せる。
……夏に、なっていた。
「雨だね、雨宮先生」
「そうだな」
「なんか良いよね。こうやって雨を眺めているのも」
「あぁ。できればこの雨がずっと降り続いてほしい。そうすれば、どこかのお嬢様も静かにしてくれるからな」
「……それって、どういう意味かな?」
雨宮はキーボードを打つ手を止めて、窓際に座っている未羽をじろりと見る。
「この別荘に来てから、どれくらい買い物に付き合わされたと思っているんだ。俺はお前の付き人ではないんだぞ」
「いいじゃない。男なら、そんな小さなことで、ごたごた言わないの」
「その小さなことのせいで、同僚の学会資料が作り終わらないんだよ。今日くらい静かにしてろ」
雨宮は不機嫌そうに唸りながら、再び視線をパソコンに戻した。
「むぅ」
未羽は唇を尖らせると、肘をついて外を眺める。
未羽が群馬県循環器センターを退院してから、1ヶ月が過ぎていた。退院した後は東京の実家には戻らず、隣の榛名市にある別荘に住むことになった。どうやら未羽の祖父が準備してくれたものらしく、病院のある前橋市にも行きやすいところでもあった。
ダリオ宮。という名前だと、未羽が嬉しそうに話した。誰が命名したかも、どんな由来があるかも雨宮にはわからない。
ダリオ宮は2階建ての洋館だった。2階が未羽の寝室と私室となっており、1階に台所やダイニング。そして、雨宮の部屋がある。今、2人がいるのは未羽の寝室だ。部屋にはベッドと木製の丸テーブル。あとは同じ木製のイスが1つ。
その部屋の中心にあるテーブルを雨宮が占領していた。小型のノートパソコンの周囲には、難しそうな医学書が開かれた状態でいくつも重なっている。雨宮はキーボードを打ちながら、時折、医学書のほうに視線を向けていた。
そんな雨宮のことを、未羽は退屈そうに見ている。
「あー、暇だなぁ」
「大いに結構だ。お前が暇であればあるほど、俺の仕事がはかどる」
淡々と答える雨宮に、未羽は怒ったように頬を膨らませた。
「むぅ、こんなときくらい仕事を休んだら」
「断る。病院にいなくても仕事はいくらでもある。診察したり治療するだけが、医者の仕事ではないんだよ」
「患者にそんな態度を取るのも、医者の仕事じゃないよね。雨宮先生」
「お前が敬語を使うなと言ったんだろうが。だから俺は、お前に対して敬意を払うのをやめた。お前が患者であっても、俺は甘やかしたりしない」
「むぅ、こんなはずじゃなかったのに」
未羽が不機嫌そうに呟く。
それが聞こえているのか、雨宮は視線をパソコン画面に向けたまま手を振る。仕方なく、未羽はそばにあった熊のぬいぐるみを抱きながら、視界を外に向けた。
ダリオ宮は、榛名湖を見渡せる場所にあった。
榛名湖とは群馬県の別荘地であり、榛名山の山頂にある。夏場は避暑地として賑わい、冬になればワカサギ釣りができる。周辺には喫茶店はあるが商店などはない。そのため、買い物となると山を下りて町まで行かなくてはいけない。移動手段は自動車だ。未羽の場合は、雨宮が運転する軽自動車が唯一の移動手段だった。
「はぁ、退屈」
未羽は立ちあがると雨宮の後ろに立つ。雨宮の肩越しにパソコンの画面を覗き込むが、何が書いてあるのかよくわからかった。
「ねぇ、先生」
「なんだ?」
「海にいこう」
「はぁ?」
雨宮は呆れたように未羽のことを見る。
「だって夏でしょう。夏といったらお祭りと花火。そして海だよ」
未羽は楽しそうに笑顔を浮かべる。
その笑みを見ながら、雨宮の頭には海までの移動手段と、そのための必要な時間を計算していた。
群馬県には海がない。日本海にしろ、太平洋にしろ、海を見るまでに相当の時間がかかる。日本海なら谷川岳を越えなくてはいけないし、太平洋なら関東平野を制覇しなくてはいけない。どちらにしろ、時間の無駄にしか思えなかった。
「却下だ。面倒くさい」
「むぅ、雨宮先生は私の水着姿が見たくないんだ」
「……」
今度こそ、雨宮は何も答える気がしなかった。呆れた目つきで未羽のことを見つめる。
すると、未羽が拗ねたように唇を尖らせた。
「ふんだ。見せて欲しいって拝んでも、絶対見せてあげないだから」
「別に見たいとも思わない。それとも、お前はそれだけの魅力が自分にあるとでも思っているのか?」
「……どういう意味かな、雨宮先生」
未羽は雨宮のことを睨みつけながら、小さな肩をわなわなと震わせる。
そんな彼女に、雨宮はいつものように淡々と言い放った。
「鏡を見てくるといい。そこにありのままの自分が映っているぞ」
雨宮の言葉に、未羽は眉を吊り上げる。
「先生のバカ!」
「はいはい。文句なら後で聞いてやるから、30分くらい静かにしてくれ」
未羽のことをまるで相手にしようとしない。そのことが、彼女を余計に苛立たせた。
「バカバカ!」
「……」
「バカバカバカ、雨宮先生のバカ!」
未羽が両手を振り上げて、雨宮を叩こうとする。
そのときだった。
部屋の扉が乱暴に開かれた。
「……うるさいんだけど、静かにしてくれない?」
そこにいたのは、気だるそうにした40代の女性だった。のっぺりとした能面顔に、無造作に纏められた髪が肩に流れている。
このダリオ宮には未羽と雨宮の他に、もう1人の人間がいた。未羽の祖父が雇った、家政婦の小林有子だ。食事や洗濯など身の回りの世話をしてくれて、未羽からの連絡ですぐ駆けつけてくれることになっている。彼女はいつもダリオ宮にいるわけではなく、用事があるときだけ来て、仕事が終わったらすぐに帰ってしまう。
働きぶりだけ見たら何の問題ない小林有子だが、その性格には大きな問題があった。いつも苛々したような態度で、雨宮に辛辣な言葉を投げつけてくるのだ。
小林有子は部屋の中を見渡すと、雨宮のことをじろりと見る。
「ねぇ、あんた。平日から何やってるの。仕事とかしないわけ?」
雨宮は返事をしようと口を開く。だがー
「いや、言い訳とかいらないし」
有子は雨宮の声を無遠慮に遮った。
「家にいるだけで給料がもらえるなんて、医者って楽な仕事なのね。私も医者になればよかったかしら」
ふてぶてしく吐き捨てると、今度は未羽のことを見た。
「未羽さん。おじいさまの言うことを覚えていますね。あなたは病人なんですから、部屋の中で大人しくしていなさい」
「……はい」
有子の言葉に、未羽は不機嫌そうに頷いた。
彼女は柊葉蔵に雇われた人間だ。ここの生活で何があったから、すぐに病院に戻されてしまう。未羽が最も恐れているのは、このダリオ宮での生活の終わりだった。だから、彼女に文句があっても何も言えない。
「あと1時間ほどで夕食です。それまで静かにしていていください」
有子は部屋の隅々とじろりと見ていく。細められているその目は、粗を探す小姑のようである。
しばらくすると、小林有子は部屋から出て行った。
扉が閉まる直前まで雨宮のことを睨みつけて。
「なによ、あの態度」
不機嫌そうに唇を尖らせる。有子がいる間は静かにしていた未羽だったが、その足音が遠くなると口を開いた。
「私はともかく、雨宮先生にまであんな言い方して。先生だって一生懸命に働いているんだから」
「お前に邪魔されているけどな」
「まったく。あの人さえいなければ、ここの生活は快適なのになぁ」
「食事はどうするんだよ。あと洗濯や掃除とか。あの人がいるから、お前はここで生活できているんだぞ」
「それはそうだけど」
パソコン画面に向かったまま、雨宮が口を開く。
「性格がどうあれ、仕事をしてくれれば文句はない。お前の爺さんが何を考えているかは知らないが、すぐに病院に連れ戻すことはしないだろう」
「でも、また私の調子が悪くなったり、胸が苦しくなったりしたら」
「そのときは俺が病院に連れ戻す」
雨宮はパソコン画面から目を離して、未羽の瞳を見つめる。
先ほどまでにはない、真剣な目つきをしていた。
「容態が悪化してまで、ここで生活する必要はない。急変時には無理やりにでも病院につれていく。その時は、お前も駄々をこねるなよ」
未羽は驚いたように目を見開く。
そして、俯きながら辛そうな表情を浮かべた。
「わかってるよ。ここにいつまでも居られないことくらい」
それ以上、未羽は何も答えなかった。
窓際にあるイスに座ると、遠くを見るように真っ暗な曇り空を眺める。
「……でもね、雨宮先生」
まるで独り言のように、未羽は呟いた。
「きっと、私は病院に戻ることに反対すると思う。だってそうしなかったら、ここに来た意味がなくなるもの。だからその時は、雨宮先生が無理やりにでも連れていってね」
「……」
雨宮は何も答えなかった。
そのままパソコン画面に視線を戻して、黙ったままキーボードに手を伸ばした。




