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~2014年 5月6日~

 

~2014年 5月6日~


 ……気が重い。

 雨宮は憂鬱な気分だった。患者にあんなことを言って、ただで済むわけがない。担当を変えられるくらいなら別にいいが、この病院にいられなくなるのは勘弁してもらいたかった。

 雨宮は重い気分を背中に乗せて、3階病棟の特別個室を目指す。北部長と鉢合う前に、謝罪だけでも済ませておくつもりだった。

「あれ?」

 何だか妙な視線を感じて、雨宮は振り返る。そこには病棟勤務の看護師が二人、雨宮のことを見て笑っていた。早くも、昨日の言い合いが看護師の耳に届いたのか。そうは思ったのだが、それにしては看護師たちの反応が妙であった。雨宮と視線があっても、にこやかに会釈をして再び談笑に戻ってしまう。昨日のことが問題になっているのであれば、もっと気まずい空気になっていてもいいような気がした。

「おはようございます、雨宮先生」

 声をかけてきたのは、三階病棟の看護師長。相川京子だった。今年で五十六歳になる、立ち話が大好きなベテラン看護師だ。

「おはようございます、相川師長さん」

 雨宮も会釈をしながら挨拶をする。医者と看護師の関係だが、人生の大先輩に敬語を使えないほど無粋ではない。

「これから回診ですか? 早いですね」

 相川京子は目元を緩ませながら、やんわりと微笑みかける。まるで若者の前途を祝うかのような表情だった。

「でも、雨宮先生を待っている患者さんもいるかもしれません。早めに行ってあげてください」

「は、はぁ」

 雨宮は意味がわからず曖昧な返事をする。

 思い切って、自分から訊いてみることにした。

「……相川師長さん。昨日のこと、聞いていないんですか?」

「昨日のこと?」

 京子は首を傾げる。

 ……おかしい。

 雨宮は湧き上がる違和感から、ひとつの疑問を感じていた。患者に対して、あれほど傲慢な態度をとったのだ。すぐさま看護師に報告があっても何の不思議もない。それなのに看護師たちはいつもと同じように仕事をしている。いや、むしろ。いつもより愛想が良いとさえ見えた。この変化は一体なんだ。

「それでは、これで」

 雨宮は再び会釈をすると、京子と別れた。廊下を真っ直ぐに進んで、一番突き当たりの部屋の前に立つ。三階病棟の特別個室。その扉を軽くノックした。

「は、はーい」

 部屋の中から、少女の声がした。

 おや、と雨宮は再び違和感を覚えた。今まで、扉をノックして返事があったことなどなかったからだ。

「……失礼します」

 雨宮は、何か不気味なものを感じながら、扉を開いた。

 その瞬間。

 予想もしていなかった光景に、雨宮は目を丸くさせてしまった。

「あっ、雨宮先生。おはよ」

 特別個室の患者。柊未羽が雨宮の姿を見て、満面の笑みを浮かべていたのだ。

 山桜のような儚い笑みではない。

 満開の吉野桜のような笑顔だった。

「今日は早いんだね。まだ六時半だよ」

 未羽は窓際から雨宮の元まで歩いてくる。そして、覗き込むように雨宮の顔を仰ぎ見た。

 その笑顔に雨宮は困惑する。

「お、おはようございます。柊さん」

 たどたどしく挨拶をする。

 だが、それ以上の言葉は出てこなかった。無表情のまま、呆然と立ち尽くす。もしかして自分との言い争いで、少女に多大な精神的負担を与えてしまったのではないのか。入院中のストレスに加え、昨日のことが引き金になって、せん妄のような症状が出てしまっているのか。

 それとも、これは自分の見ている都合のいい妄想で、本当の彼女はいつものようにベッドで丸くなっているのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。自分は今、誰もいない空間を見つめていて、ぶつぶつと独り言を話しているのだ。ベッドの上の彼女はナースコールを押すべきか迷っているに違いない。

「雨宮先生? おーい?」

 そんな雨宮を見て、未羽が手を振っている。身長差のせいで未羽が手を伸ばしても、雨宮の視線を遮るのがやっとだった。

「ねぇ、先生。聞いてる?」

「いいえ。残念ながら何も聞こえません」

 雨宮は眉間を押さえながら、その場に項垂れてしまう。

「もう、しっかりして。先生は私の担当医さんなんでしょ」

 未羽が拗ねるように唇を尖らせる。

「ちゃんと仕事しないと、北先生に言いつけるよ。北先生は雨宮先生よりも偉いんだって、看護師さんから聞いているんだから」

 北先生という単語に、雨宮はいくらかの冷静さを取り戻す。医者としても気構えではなく、激怒した御仁の顔を思い出したからだった。

 ちなみに怒り狂った北部長は、とてつもなく怖い。大声を上げることや、手を出すこともない。ただ黙ったまま、相手に頭突きを入れてくるのだ。頭突きとは便利なもので、カテーテル治療の最中で両手が塞がっていても、問題なく相手を卒倒できる。当然ながら痛い。雨宮自身、過去に何度も北内科部長の頭突きをくらっては、カテーテル室の床に膝をついていた。

 雨宮は顔を上げて、目の前にいる自分の患者の顔を見る。

 昨日までは、暗く沈んだ表情で自分の殻に引きこもっていたはずだ。それがなぜ、こんなふうに笑っているのだ。

 やはり自分のせいで、といらぬ妄想が雨宮の脳裏をよぎる。

「雨宮先生。昨日はありがとう」

 未羽の口から出た言葉に、雨宮は目を丸くさせた。

「先生の言っていたことね。全部、その通りだった。私も心の底ではわかっていたんだ。わかっているつもりだった。だけど、自分ではどうすることもできなくて…」

 力なく笑う未羽。眉を落として、困ったように微笑む。

「だから、先生に言われて何かすっきりした。今まで、ちゃんと面と向かって叱ってくれる人なんていなかったから」

 雨宮は未羽の祖父である、柊葉蔵のことを思い出す。確かに人付き合いが苦手そうだ。もちろん、自分も人のことを言えた立場ではないが。

「そう、ですか」

 状況を把握できていないが、とりあえず頷くことにした。

 そんな雨宮の額を、未羽はじっと見つめる。昨日、未羽が投げた写真集がぶつかった場所は、まだ少しだけ赤くなっていた。

「……雨宮先生。昨日は本当にごめんなさい。先生に向かって、あんな重い本を投げちゃって」

「いいえ、私も言い過ぎました。本当にすみませんでした」

 肩を落としている未羽に向かって、雨宮も頭を下げる。

 よかった。これなら何の問題も起きそうにないな、と雨宮は心の中が安堵した。

 病棟のほうでも、昨日のことは話題になっていないし、黙っていればわからないだろう。頃合を見て、北部長には報告するつもりだが、事実を少し曲げて笑い話にしてしまおう。

 雨宮は隠蔽の算段つけていると、未羽が声をかけてくる。

「でも、先生の言い方も厳しかったよね」

「ぐっ」

 油断していたところに急所をつかれて、雨宮は呻き声を上げる。

「女の子にあんな言い方はないよね。普通だったら、二度と話しかけられないよ」

「そ、そうですね」

 雨宮は思考を高速で回転させる。嘘も言い訳も苦手な雨宮だったが、どうにかしてこの状況だけはやり過ごさなくていけない。

「わ、私のほうも反省しています。これからは再発防止に努め、精一杯に患者様のために尽くしていこうと思っています」

 頭の片隅にある、始末書の一文を読み上げる雨宮。

 だが、未羽の表情は変わらなかった。唇を尖らせて、睨みつけるように雨宮のことを見つめる。

「……敬語」

「え?」

「雨宮先生、敬語やめて」

 未羽の大きな瞳が雨宮に突き刺さる。

「敬語を使っている雨宮先生って、なんか信用できない。昨日の夜みたいに普通に話してよ」

「は、はい?」

 意味がわからず、雨宮は目を丸くさせる。

「……と言われましても、病院にとって患者様はお客様も同然なわけで。医者である私としても、なるべく粗相のないようにしたいかと」

 未羽に睨まれながらも、心にもない言葉を並べていく。

 病院も経営していかないといけないので、客は大事だ。

 だが医者にとって大事なことは、患者に対して必要な医療を行えることだ。患者はお客様ではない。患者は患者でしかないのだ。それ以上でも、それ以下でもないし、別の何かに例えられるものではない、と雨宮は考えている。

「ですから、患者様からの信頼を得られるように」

「……」

 未羽が無言のまま睨み続けていて、雨宮は額に汗を滲ませながら愛想笑いを浮かべる。

「昨日はあんなに偉そうに怒っていたくせに」

「うっ」

 何も言い返せず、雨宮は言葉を詰まらせてしまう。

 未羽は雨宮の困りきった笑顔を睨み続ける。

 だが、その怒った顔が。ふっと和らいだ。

 細めていた目を閉じて、静かに微笑む。

「ふふっ」

 未羽は楽しそうな笑みを浮かべながら、窓際に歩いていく。

「変じゃないですか?」

「え?」

 未羽の質問に雨宮は返答できなかった。

 ただ、意味がわからないような顔をして、薄い笑みを浮かべている彼女を見る。

「言葉遣いです。変じゃないですよね?」

 未羽は雨宮の方に振り向きながら、両手を胸元で重ねる。

「雨宮先生に言われて色々と考えました。正直なところ、私が何をしたいのかはよくわかりません。だから、自分を変えるところから始めることにしました。まだ私が学校に通っていて、たくさんの友達に囲まれていたときのことを思い出して、少しでも前向きになりたいです」

 未羽は少しだけ不安そうな目で雨宮のことを見る。肯定されることを願って、否定させることを怖がって。

「……変、ではない」

 雨宮は降参したかのように頭をかく。敬語を使うのをやめて、なるべく普段どおりの言葉使いを心がける。

「元気があっていいんじゃないか。正直、お前の辛気臭い顔は苦手だったんだ」

 雨宮の答えに、未羽の表情が、ぱっと明るくなる。

 そして、口元を緩めながら、お礼をするように頭を下げた。

「ありがとうございます。いや、違うかな。……えーと。ありがとう、雨宮先生」

「別に礼を言うことはない。医者として俺は、お前に何もしてやれていない」

「それでも、ありがとう。なんだか新しい一歩が踏み出せそうな気がする」

 未羽はにっこりと笑って、視線を外へと向ける。視線の先には赤木山を見渡せる。冬から春になり、麓のほうから少しずつ色づいていく山々。

「ねぇ、雨宮先生」

「なんだ?」

 未羽は雨宮に背中を向けたまま尋ねる。

「実はいうと、ひとつだけやりたいことがあるんだ。聞いてくれる?」

「あぁ」

 雨宮が頷くと、未羽が視線だけ向けてくる。

「私ね。旅行に行きたい。世界をぐるりと回って、この本にある世界の風景を見てみたいの」

 棚の上にある写真集を手にとって、パラパラとページをめくっていく。

「前に、先生がどこか行きたい場所はないのか、って聞かれたとき何も答えなかったじゃない。あれって、答えなかったんじゃなくて、答えられなかったんだよね。病院の外には憧れていたけど、どこに行きたいのかなんて考えたこともなかった。そんなことすら自分の中にないのがわかったとき、とても哀しくて辛かった」

 未羽の言葉に、雨宮は黙って耳を傾ける。

「だからね。私、この本に載っている全部に行きたい。世界中を旅して、その全部をこの目に焼き付けたいの」

 未羽は目をきらきら輝かせながら、雨宮のことを見る。

 だが、医者としての性なのか。雨宮は客観的な情報を考えたうえで、淡々と答えてしまった。

「いや、それは無理だな」

 口に出してから、失敗したと思った。敬語を使っていないせいか、どうもいらないところで口が滑ってしまう。

 なんとか誤魔化そうと無駄な思考に走る雨宮を見て、…未羽は笑っていた。

「ははっ。そうだね。きっと無理だね」

 諦めたような笑顔でもなく、無理に笑うような作り笑いでもない。

 楽しいから笑うような、自然な笑顔だった。

「なんとなくわかるの。たぶん、私に残された命はそんなに長くない。世界一周なんて、とても体が耐えられないと思う」

「……っ」

 悟ったような未羽の言葉に、雨宮は何も言えなかった。ここで変に誤魔化しても、ただ空しくなるだけだ。雨宮は開きかけた口を静かに閉じた。

「ねぇ、雨宮先生。私の残された寿命って、どれくらいなの?」

 右手を窓に添えながら、雨宮に質問する。

 まるで、今日の献立を聞くような軽さだった。

「正直なところ、わからない。心不全の経過は患者によって個人差がある。特に、お前のような先天的に心臓が脆い患者は不安定な要素が多すぎるんだ」

 雨宮は嘘にならない程度に誤魔化した。嘘も誤魔化すことも苦手な雨宮だったが、目の前の少女に事実を突きつけることだけは気が進まなかった。

 だが、そんな雨宮を見て、未羽は声を出して笑った。

「ははっ、先生って嘘が下手だね」

 未羽に指摘されて、自然と眉間に皺が寄る。未羽は写真集を棚の上におくと、両手を後ろに組んだ。

「……一年。いや、半年くらいかな。さっきも言ったけど、なんとなくわかるの。自分の体は自分がよくわかっている、とは言わないけどね。やっぱりわかっちゃうんだ。だから、私の体を隅々まで知っている雨宮先生が知らないわけがないよね」

「そんなことはない。検査結果なんて、客観的な情報の集まりに過ぎない。それに医者が言う余命宣告も、その医者の経験則だ。俺達に人がいつ死ぬのかなんてわかるはずもない」

 雨宮の精一杯の反論に、未羽は首を横に振る。

「それでも、残された時間が少ないことには変わりないでしょう。今まで、たくさん後悔してきたから。これからは何か楽しいことを見つけないとね」

 そう言って未羽は笑う。

 その笑顔が眩しかった。

 そして、辛くもあった。

 死期を悟った少女が、こんな笑みを浮かべるのか。

 ……自分が情けなかった。医者として何もできない自分が、どうしようもなく惨めだった。

「ねぇ、雨宮先生」

 雨宮が眉間にしわを寄せているところに、未羽が声をかけてくる。

「私が退院したいって言ったら、先生は反対する?」

 その質問に、雨宮は一瞬だけ考える。考えるといっても、返答するまでの時間を開けたかっただけのこと。つまり雨宮は、何と答えるか考える前から決まっていた。

「医者としては賛成できない。内服薬の調節もあるし、定期的な採血をしなくてはいけない」

「……そうだよね」

 わかりやすく肩を落とす未羽。

 そんな未羽に、雨宮は力強く告げた。まるで元気付けるかのように。後押しをするように。

「だが、患者本人が強く望むのであれば反対はしない。医者として、出来る限りの応援をしたいと思う。退院して定期的な外来受診をするのもいい。病院とは縁を切って、どこかで静かに療養するのもいい。それでも往診くらいはしてやれる」

「えっ?」

 雨宮の言葉に、未羽が勢いよく振り向いた。

 驚きに目を見開いた彼女を見つめながら、静かに口を開く。

「お前のしたいようにしたらいいさ」

 雨宮の言葉が、未羽の心へと染み込んでいく。表情が崩れて、笑顔の仮面が剥がれていく。そして、その内にある悲壮の表情が浮き彫りとなった。

 やはり、無理をして笑っていたらしい。

「雨宮先生って、変わってるね。……本当に、変な人」

 未羽は泣きそうになりながら、それでも無理やり笑顔を浮かべる。

 そんな彼女を見て、雨宮もわずかに笑みをこぼす。

 彼女の心と、初めて通じ合ったような気がした。

 その時、雨宮の胸の内にも、確かな感情が芽生え始めていた。

 そんな二人に問題が発生したのは、それから一週間後のことだった。



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