~2014年 5月5日~ その⑤
深夜。
特別個室のベッドの上で、未羽は1人で泣いていた。
「……ぐす、ぐずっ」
両膝を抱えて、背中を丸めている。
思い出すのは、とある人物の言葉。
……お前は何がしたいんだ?
怒りと苛立ちに満ちた表情で、彼は言った。この病院で一番話をすることがある、担当医の雨宮の言葉だった。
「わかってるよ。このままじゃ、いけないことくらい」
自分にしか聞こえないような声で、未羽は呟く。
「でも、どうしろっていうのよ。わからない、わからないよ」
次から次へと溢れてくる涙。
パジャマの袖でごしごし拭いていたせいで、目の周りが痛い。
「……ぐずっ」
未羽は涙を拭うのを諦めて、両膝を強く抱きしめた。
どうして、こんなにも悲しいのか。
自分でもよくわからなかった。
病気のことで悲しい気持ちになることなんて、今まで何度もあった。その度に、仕方ないと自分に言い聞かせてきた。病気なんだから仕方ない。入院しているのだから仕方ない。最近では、こんな生活にも慣れてしまって、悲しくなることなんてほとんどなかった。
そのはずなのに。
「……雨宮、先生」
ぽつり、と未羽が呟いた。
彼との会話なんて、ほとんど日常会話にもならないものばかりだった。毎日、同じ時間に問診に来て、決まったことを訊いてくる。体調に変わりはありませんか? 胸が苦しくなることはありませんか? 未羽はいつも黙って頷いていた。
彼は、不愛想な人だった。
言葉数は少ないし、目の前の仕事を作業的にこなしているだけのようであった。
だけど、それだけでないことも知っている。
……この本で、どこか行ってみたいところはあるのですか?
……大事なものなのでしょう。
……どこか、綺麗な景色を見てみたいですね。日本から遠く離れて、本当に美しいものをこの目で見てみたい。そう思っています。
雨宮の言葉が、頭の中で何度も蘇る。
彼の不器用な優しさが、未羽の心を静かに震わせた。
同情に満ちた表情でも、意味のない慰めの言葉でもなく。彼は真正面から、未羽のことを見つめていた。大切にしようとしてくれた。
「でも、どうして」
未羽は言葉を詰まらせる。
ふいに、雨宮の激昂した表情が脳裏をよぎる。
彼が口にした言葉は、今まで未羽自身も向き合わなかったことだった。
……泣いて喚いていれば満足なのか?
……このまま病院で死ぬのを待つのか?
「嫌だよ」
未羽は呟く。
「嫌だよ。ずっと病院にいるなんて、嫌だ」
ぎゅっ、と両手に力が入る。
どうしたらいいのか、わからない。
でも、このままでいいわけがない。
病院を出たい。
ここじゃない場所で、自分らしく生きたい。
「ダメだよね。このままじゃ、ダメなんだよね」
涙を拭いながら顔を上げる。
カーテンが開けっぱしになっている窓には、ひどくやつれた自分の顔が映っていた。
「……ブサイク」
両手で顔を包むと、揉みほぐすように動かす。そして、軽く頬を叩いた。
窓の映った顔は、少しだけマシなものになる。
「雨宮先生、明日も来るかな。……来てくれるのかな」
自分勝手な思いだと知りつつも、未羽は彼の来訪を望んでいた。ハードカバーの本を投げつけて、二度と来るなと言っておきながら。未羽はもう一度、彼の声が聞きたかった。
「ほんと、ブサイク」
窓に映った自分の顔を見つめる。試しに笑顔を作ってみた。だけど上手くいかず、再び顔の筋肉をほぐしていく。
……このままじゃ、ダメだ。
……変わらないと。
……私自身が、変わらないと。
それからしばらくの間。未羽は窓ガラスに向かって、何度も何度も笑顔を作り続けた。
彼がもう一度、この部屋に来ることを願って。




